軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

「月の道」

残り七百メートルとなった。

西端の岬まで、平原の直線が続いている。隠れる場所はない。岩も木も建物もない、ただの一本道。

トワの後ろから、総主の足音が近づいていた。十メートルあった距離が、八メートル、七メートルと縮まっていく。

空に表示されているシステムウインドウの数字が、刻一刻と変化していた。

【現在地:7.5km / 8.2km】

【トワ:先行 +52秒】

「これから、私は本来の力を解放します」

総主の声が、後ろから響いた。

「準備はいいですか、旅人」

トワは前を向いたまま、答えなかった。

代わりに、肩のセレスに小さく囁いた。

「セレス。──頼む」

「うん。トワ、いつでも、いける」

セレスがトワの肩の上で、ぴょこんと立ち上がった。手のひらサイズの妖精の角がきらりと光った。

「トワ。せかい、みえるようにする」

セレスが両手を広げた。

「【月光の目】、はつどう」

空が変わった。

いや――空は変わっていない。トワの視界が変わったのだ。

半径一キロメートルの情報が、見聞録に流れ込んできた。

平原の凹凸、雑草の生え方、地面の硬さ、風の流れ、湿度、鳥の通り道、岩の地下構造。全てが俯瞰の視点でトワの脳に展開された。

契約精霊・セレスの力だ。半径一キロの全情報を、契約者に流し込む感知能力。

トワの目の前に、平原の三次元マップが浮かび上がった。見聞録のホログラム表示。地形の起伏が等高線で示され、足元の硬さが色で塗り分けられ、風の流れが矢印で表示される。

そしてその中に、総主が知らないであろう情報が、いくつも見えた。

第一に、地面のうねり。平原は完全な平地に見えるが、実際は微細な起伏が連続している。その起伏のうち、西に向かって緩やかに下る筋が一本あった。下り坂は歩行速度が自然に上がる。普通の地図には載らない、人間の目では認識できない傾斜。

第二に、草の硬さの違い。平原の草は均一に見えるが、地下の根の張り方で硬さが違う。根が浅い場所は地面が柔らかく、足が沈む。根が深い場所は硬く、足の運びが速くなる。月光の目は、地面の硬度差を色で表示している。

第三に、風の通り道。西に向かって吹く風が、平原の特定の筋に集中していた。背中を押される筋がある。普通の風よりわずかに速い空気の流れだ。

全てを統合すると、平原の中に一本の「最速ルート」が浮かび上がった。下り坂で、地面が硬く、追い風が吹く筋。普通に見れば見えない、【月光の目】だけが浮かび上がらせる道。

旅人にしか見えない道だった。

トワは、その筋に進路を合わせた。

同じ瞬間、トワの背後で動きがあった。

トワの背後で、総主が腕を広げた。

影の身体が、震え始めた。総主の輪郭が、二重にぶれた。一つは総主自身。もう一つは、白い女性の影――アルダの感情だった。

二つの輪郭が、引き剥がされていく。

「アルダ」

総主が、自分の中の感情に向かって呼びかけた。

「あなたを返します。本来あなたが持つべきだったものを、本来の場所に」

白い影が、総主の身体から離れた。光の粒になって、東の方角、帳の間のあるあたりに飛んでいった。アルダの場所だ。

総主が、軽くなった。影の身体が、引き締まった。

そして総主の歩行速度の表示が、変化した。

【総主:5.0km/h → 7.2km/h】

約一・四倍。歩行速度の差としては圧倒的な変化だった。トワの5.52km/hを大きく上回る。

総主が、トワに追いついた。

肩が並んだ。

追い抜こうとした瞬間、総主の足が止まりかけた。

なぜなら総主の通る場所が、トワの通る場所と違っていたから。

総主は最短直線を選んでいた。岬への直線距離。最も短い経路。

だがトワは、月光の目で見た「最速の筋」を選んでいた。直線距離は少し長いが、地形と風と地面の硬さで実際の速度が出る道。

総主は最短直線を進み、トワはより有利な地形を進んでいた。一歩ごとの推進力が違う。

「──旅人」

総主が呟いた。声に、初めて当惑のような響きが混じった。

「あなたは、いったい何をしている?」

「何をと言われても、歩いているだけだぞ」

「同じ平原で、私と違う速さで歩いている。まさか……地形を読んでいるのか」

総主が初めて足元を見た。柔らかい草。沈む足。

総主が直線を諦めて、トワと同じ筋に進路を変えようとした。

だが、遅かった。

月光の目で見えるのは、トワだけが認識できる情報だ。総主は地形のうねりを目視で判断するしかない。トワは見聞録のホログラム上で正確な等高線を読んでいる。総主の進路修正は、勘に頼った大雑把なものだった。

肩が並んだまま、五百メートルを走った。いや、歩いた。走行禁止のルールに従って、二人とも歩行速度を維持している。だが歩行の中身が違う。一歩の歩幅、地面を蹴る角度、推進力の効率。トワの一歩が、総主の一歩より、わずかに進む。

わずかに、わずかに、わずかに。

【現在地:7.8km / 8.2km】

【トワ:先行 +14秒】

先行が縮まっている。総主の本来の力は、それでもトワを上回っている。月光の目で稼いだ速度差を、総主の純粋な歩行速度が削っていく。

残り四百メートル。

二人の身体が並走している。トワがやや前。総主がやや後ろ。差は数メートル。

総主が話しかけてきた。歩きながら。

「面白いですね、旅人」

「何が」

「あなたは、地形を見ている。私は、最短を見ていた。私は管理者として数百年、最短を計算してきた。だがあなたは、最短ではなく『最速』を選んだのですね」

「悪いが、俺は計算が苦手だ」

「面白い冗談ですね。あなたが、計算したのでしょう? 私とは違う種類の計算で。地面の硬さ、風の流れ、傾斜……私が無視していた変数を、あなたは全部入れた」

「セレスが見せてくれたからな」

「精霊の感知能力ですか。なるほど」

総主が微笑んだ。負けを悟ったような、微笑みだった。

「私は、セレスのことを知っていました。あなたが契約した精霊。だが、こういう使い方をするとは想定していなかった」

「数千時間歩いてきたから、地形を読む癖がついた。月光の目は、その癖の延長だ」

「数千時間の癖、ですか」

総主の足音が、わずかに重くなった。

「敵いませんね。私はあなたの旅に、勝てる気がしない」

【現在地:8.0km / 8.2km】

【トワ:先行 +18秒】

残り二百メートル。

ゴールラインが見えた。

西端の岬。白い線。その手前に、六万人のプレイヤーが集まっている。歓声が聞こえる。「トワ──!」「あと少し!」「行け──!」声援が空気を震わせている。

タマキがゴールラインの少し前に立っていた。両手を広げて、トワを待っている。

トワが、足を止めずに歩いた。歩幅を保ったまま、リズムを崩さず。総主の足音が、後ろで聞こえる。差は数メートル。

残り百メートル。五十メートル。

総主が、最後の加速を試みた。影の輪郭がさらに引き締まる。歩行速度の表示が、また変わった。

【総主:7.2km/h → 7.8km/h】

歩行速度の上限を超えるかと思われた瞬間、システムメッセージが警告した。

【──警告──】

【総主の歩行速度が走行判定の閾値に近づいています】

【閾値(8.0km/h)を超えた場合、走行とみなされ失格となります】

走行判定の閾値が8.0km/h。総主は7.8km/hで限界。これ以上速くすると失格になる。

トワは星巡りの靴で5.52km/h。総主は7.8km/h。差は2.28km/h。残り五十メートルなら、総主が追い抜く可能性は十分にある。

だが、残り五十メートルの間に、地面のうねりが一つあった。

月光の目が、それを示していた。ゴールラインの十五メートル手前に、わずかな下りの傾斜がある。傾斜の下りは、歩行速度を自然に上げる。星巡りの靴の効果と合わせて、トワの速度がわずかに伸びる。

総主は、その傾斜を読めなかった。

トワは、傾斜に乗って歩幅を伸ばした。一歩が、いつもより十センチ長くなる。十歩で一メートルの差が出る。

肩を並べていた総主が、わずかに後ろに下がった。

トワが先行した。

残り三十メートル。

残り十メートル。

残り五メートル。

タマキが手を伸ばした。「トワさん──!」

トワが、最後の一歩を、白いゴールラインに踏み込んだ。

【──最終試練・終了──】

【勝者:旅人トワ】

【常世島の封鎖を解除します】

空のシステムウインドウが、巨大な文字を表示した。島中の全プレイヤー、配信視聴者全員が見ている。

六万人が、一秒の沈黙の後で、歓声を爆発させた。

地面が揺れたのではない。空気が震えたのだ。六万人の声が同時に上がって、岬の岩場に反響した。

タマキがトワに飛びついた。

「トワさん──!」

「ああ」

「勝った! 勝ちました──!」

「大げだな、俺は歩いただけだぞ」

「歩いただけで勝ったんですよ! すごいですよ!」

「まあ……タマキが喜んでくれると、俺も嬉しい」

「だって、わたしも一緒に歩いてきたんですから。――トワさんの旅や、歩みは、誰にも負けてほしくなかったんです」

トワはタマキの言葉を素直に呑み込み、何も言わずに頷いた。

総主が、ゴールラインの三メートル手前で立ち止まっていた。

追い抜けなかった。最後の五メートルで、トワに振り切られた。

影の身体が、ゆっくりと崩れ始めていた。アルダの感情を切り離した時点で、総主の存在は不安定になっていたらしい。勝てなかった以上、この姿を維持する理由もない。

トワが振り返って、総主の方に歩み寄った。総主が手を上げて、それを止めた。

「来なくていいですよ、旅人。私は……消えるだけです」

「お前は、これからどうするんだ?」

「『紡世者』の世界に戻ります。私が引き受けたアルダの感情も、彼女に返した。私の役目は終わりました。『紡世者』は、私を許さないでしょう。たぶんもう一度追放されるか、消されるか、そのどちらかです」

「お前は、それでいいのか」

総主が微笑んだ。最後の微笑みだった。

「いいんです。私は、この島で『紡世者を超える』という目標を持っていた。結果として届きませんでしたが、あなたが私を超えてくれた。私の代わりに、あなたが超えたのです」

「俺は『紡世者』を超えていない」

「いずれ、超えるでしょう。あなたが歩き続ける限り」

総主が空を見上げた。星空はもうない。朝の光だけがある。

「アルダのことを、よろしく頼みます。彼女の感情は返したが、彼女自身はまだ空っぽです。少しずつ取り戻していく必要がある。あなたなら、彼女を見守れる」

「──ああ」

「それから、ヴァルタたち六人のことも。彼らは追放された者ですが、悪人ではない。この島でやり直す機会を与えてやってください」

「やり直す場所が、ここでいいのか」

「ここでいい。私が消えれば、この島の管理権は彼らに移ります。新しい島を、彼らが作ればいい。観光地でも、温泉地でも、何でも。プレイヤーの力を奪わない、ただの島として」

「了解した」

総主の身体が、半分ほど消えていた。下半身が光に変わっている。

「最後に、一つだけ」

「何だ」

「あなたが、なぜこれだけの時間を歩き続けたのか。私には、最後までわかりませんでした」

「そうだな、俺にもわからない」

「わからない、ですか」

「歩きたかったから歩いた。……それ以外の理由は、後付けになるかもしれない」

総主が、声を上げて笑った。今までの穏やかな笑みではない。本物の、楽しそうな笑い声。

「素晴らしいですね。理由がない歩み。それが、私が最後まで理解できなかったものの正体だ」

「理解しない方がいい。歩く理由を考え始めたら、足が止まる」

「ああ──そういうものですか」

総主の上半身が消えた。顔だけが残っている。最後の部分が、光に変わりかけている。

「旅人トワ。ありがとう。私の代わりに、超えてくれて」

総主が消えた。

空に最後のシステムメッセージが表示された。

【常世島の封鎖が解除されました】

【全プレイヤーは自由に世界を行き来できます】

【常世島は今後、観光区画として開放されます。希望者は引き続き滞在可能です】

【みなさま、お疲れ様でした】

六万人が、もう一度歓声を上げた。今度は喜びの歓声。やっと帰れる。やっと現実に戻れる。

ゼクスが歩いてきた。ハル、ミコト、ヴェノム、アストレア、レナ、レクト、ダリオ、オーレン、バルト、カイン、リゼ、マルク、ソラ、ヴァルタ、ルシア、ギセル、テオ、マリス、セノン。仲間たちが、攻略済みの幹部たちまで、トワを取り囲んでいた。

タマキがトワの隣に立っている。

「トワさん。ログアウトしますか?」

「いや……まだやるべきことがある」

「やるべきこと……ですか?」

「アルダを、迎えに行く」

タマキが頷いた。

「そうですね――行きましょう、一緒に」

トワがセレスを肩に乗せて、歩き始めた。タマキが隣を歩く。ハルとミコトが後ろをついてくる。仲間たちが、それぞれの方向に消えていく。

六万人の力を取り戻して、島の封鎖が解けて、最後に残ったのは、空っぽのまま帳の間にいる、白い髪の少女のことだった。