軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

影と光の間

東端の岩場をスタートして、二人が西に向かって歩き始めた。

空に、巨大なシステムウインドウが浮かんでいた。島中のプレイヤー、そしてミコトの配信を見ている世界中の視聴者の画面に、同じ表示が出ている。

【──最終試練:歩行──】

【現在地:東端から 0.4km / 8.2km】

【トワ:先行 +12秒】

【総主:追走】

> 始まったぞ

> 普通に歩いてる二人を映してるだけの配信

> でも目が離せない

> 12秒先行してるけど、これずっと維持できるのか?

> 8キロ歩く間に何が起きるかだよな

最初の一キロは岩場だった。トワは足元を確認しながら、リズムよく歩いた。一歩一歩、確実に。

岩場が終わって、最初の区画に差し掛かった。

黄金棟が見えてきた。

建物の周囲を巻くか、突き抜けるか。突き抜けた方が二百メートル近い。トワは突き抜けるルートを選んだ。

黄金棟の入口に立っていたのは、ヴァルタだった。

「やあ、旅人さん」

ヴァルタが微笑んでいた。スーツの袖を直しながら、トワを見送る姿勢で立っている。

「中を通っていいか」

「もちろんです。ただし──」

「ただし?」

「中は迷路になっています。総主によって、建物の構造が改造されています。気をつけて」

トワが頷いて、黄金棟に入った。

大広間を抜けて、廊下に入った。確かに分岐は多いが、建物の構造自体は元あるものを組み替えただけ。中にはトワが目印として残したマーカーもある。迷路になっていても、どこが行き止まりで、どこが正解のルートなのかは、構造上の組み合わせからはじき出せる。

歩きながら、トワは後ろを振り返った。総主が歩いてついてきている。十メートルの距離を保ったまま。

「……なぜついてくる」

「最短ルートを知らないからです」

「俺の後ろを歩けば、最短ルートがわかる……と」

「あなたが正しいドアを選ぶたびに、私もその情報を得られる。ずるい、と言うかもしれませんね」

「ルール上、禁じられていない」

「あなたが先に歩いた道は『開放』される。私もその道を通れる。これはルールの一部です」

総主の戦術が見えてきた。総主はトワを追走しながら、トワが見つけたルートを使う気だ。だが追走では追いつけない。トワの方が0.52km/h速い。じゃあ、なぜ追走を選んだのか。

「お前、追いつくつもりがあるのか?」

「最後の数百メートルで決着がつくと思っています」

「最後で?」

「あなたは私より速い。だが私には、最後に切る札があります」

【現在地:1.6km / 8.2km】

【トワ:先行 +28秒】

黄金棟を抜けた。次は星見座だ。

星見座の劇場前にルシアが立っていた。観客席の方を指している。

「劇場の中を抜けてください。客席を斜めに横切れば、最短です」

「ルシア。一つ聞いていいか」

「どうぞ」

「総主は追走している。最後に切る札があると言った。何のことか、お前は知っているか」

「……総主の力は、私たち七繰りとは違います。私たちは『追放されて力を失った者』ですが、総主は──」

ルシアが言葉を切った。

「彼自身の口から聞いた方がいい。私の口から言うと、半分しか伝わりません」

「アルダも同じことを言っていたぞ」

「アルダは、知っているのです。でも口に出せない。あの子は感情を切り取られていますから」

「感情を、切り取られた──?」

ルシアがそれ以上は答えなかった。トワは劇場に入った。

客席を斜めに横切りながら、トワは総主に話しかけた。

「アルダの追放理由は何だ」

総主が後ろから答えた。声が劇場の天井に響いた。

「彼女から聞いていないんですか」

「あいつは『総主の話と繋がっている』と言っただけだ」

「そうですか。──いいでしょう。歩きながらの暇潰しに、話しましょう」

総主が客席の階段を降りながら、続けた。

「アルダは、紡世者の中で唯一『感情を持っていた』存在でした」

「持っていた、と過去形か」

「今は持っていない。紡世者は、感情を不純物として排除します。だがアルダは、生まれた時から完全な感情を持って生まれた。他の追放者たちのように、追放後に感情を持ち始めた、または役割への倦怠という形で感情の萌芽があったとは別の、例外的な存在でした」

「それで……アルダを処置したのか?」

「ええ……紡世者は、アルダから感情を切り取った。物理的に、機能として。彼女の中の『感情を司る部分』だけを取り出して、彼女を空っぽにした。そして、追放した」

トワが歩きながら眉をひそめた。

「切り取った感情は、どこに行った」

「私が預かりました」

トワが立ち止まりかけた。だが歩みを止めると総主に追いつかれるので、止まれない。歩きながら振り返った。

「お前が、預かった?」

「それは、私の追放理由と関係しています。――私は紡世者の中で『管理者』の役目を担っていました。世界のルールを束ねる者。七繰りはそれぞれルールを破った者ですが、私はルールを束ねる側でした」

「管理者が、なぜ追放されたんだ?」

「管理者として、私は紡世者の方針に異を唱えました。アルダから感情を切り取るのは間違いだ、と」

「異を唱えた?」

「アルダは生まれつき完全な感情を持っていた。それは紡世者の例外でしたが、彼女自身に罪はない。なのに紡世者は、彼女の感情を異物として切除しようとした。私は反対した」

総主の声に、初めて人間的な熱が混じった。

「だが多数決で、私は負けた。アルダの感情は切り取られた。私はその感情を、せめて消滅から救おうとして、自分の中に取り込みました」

「自分の中に……」

「アルダの感情を、私が引き受けたのです。だが、それは紡世者の規律違反でした。私もアルダと一緒に追放された。そして、追放された後で気づきました。私の中に取り込んだアルダの感情が、私自身の人格と混ざり合っていることに」

トワが劇場を抜けた。外に出た。次の区画に向かう。総主も後ろから出てきた。

【現在地:3.0km / 8.2km】

【トワ:先行 +35秒】

次は闘技宮の脇を抜けるルートだった。ギセルが闘技宮の門前で腕を組んで立っていた。

「行け、旅人。ここは俺が開けてある」

「ありがとう」

ギセルが総主の方を見た。一瞬、目つきが鋭くなったが、何も言わなかった。

トワが闘技宮の脇を抜けながら、総主に続きを聞いた。

「お前の中にアルダの感情がある、ということか」

「私の中で、アルダの感情が独自に動いています。私の人格と、アルダの人格。二つが同じ身体に入っている」

「二重人格、みたいな話か」

「近いですが、少し違います。アルダの感情は、私の意思とは別に動きます。たとえば、こうやって歩きながらあなたと話していると、私の中のアルダの感情が、あなたを応援したりするんです」

総主が苦笑いした。少し疲れたような笑みだった。

「皮肉な話でしょう。私はあなたに勝たないといけない。だが私の半分は、あなたに勝ってほしいと思っている」

「お前は、勝ちたいのか」

「正確に言うと、私は『紡世者を超えたい』のです。私を追放した連中に、私が間違っていなかったことを証明したい。それが、この島を作った理由です」

「島を作った理由、か」

「七繰りの力を集めて、プレイヤーの力を奪って、私が紡世者と対峙できるだけの力を蓄える。数万人分の経験値とスキルがあれば、紡世者の格に届く可能性があった」

「……届いたのか?」

「届きませんでした。あなたが糸蔵を解放してくれたので」

総主の声に、わずかな安堵が混じっていた。皮肉ではなく、本心のような温度で。

次は奈落遊技場だった。テオが地下への階段の上に立っていた。台帳を持っている。

「やあ、旅人くん。──こっちは通り抜けられるよ。地下じゃなくて、外周を回って。最短で行けるルートに印を付けておいた」

「それは助かる」

外周のルートには、テオが書いたらしい矢印が地面に刻まれていた。子供が落書きしたような、いびつな矢印。だが正確な方向を指している。

トワが矢印に従って歩きながら、総主に最後の質問をした。

「七繰りの目的は、紡世者と戦うことだったのか」

「私の目的はそうでしたが、七人全員が同じ目的だったわけではありません。ヴァルタは美学のため。ギセルは強さの証明のため。ルシアは偶然を制御し直すため。テオは苦しみを記録し続けるため。マリスは情報を独占するため。セノンは最初は楽しい時間を提供するためでしたが、途中で目的を見失った。アルダは、目的を持てない」

「お前の目的に、全員が乗ったのか」

「乗ったのではなく、利用されたのです。彼らはそれぞれの目的のためにこの島で活動した。私は彼らの活動をまとめて、力を集める仕組みを作った。互いに利害が一致しただけです」

「お前は、他の六人を裏切ったのか」

「裏切ってはいません。集めた力で紡世者と戦う、という当初の合意は守るつもりでした。ただ、彼らがゲームを楽しむのに対して、私はゲームの先を見ていた。それだけの違いです」

【現在地:5.0km / 8.2km】

【トワ:先行 +51秒】

残り三キロちょっと。先行は約一分。

次は宵市と湯楽郷の間の道だった。

マリスが宵市の門前で立っていた。

「貸しが一つある。お前が島を出る時に、商人として正当な取引で清算する」

「分かった、それでいい」

マリスは何の道案内もしなかった。商人らしい、と思った。

湯楽郷の門前にセノンがいた。京都弁で、ゆったりと笑った。

「お進みやす、旅人はん。湯小屋の裏を通れば、二百メートルは、みじこうなる」

「ありがとう、その道順で進ませてもらう」

湯楽郷の中に入った。湯気が立ち上っている。湯小屋の裏に細い道があった。確かに近道だ。総主が後ろからついてくる。

歩きながら、トワが聞いた。

「最後に切る札、というのは何だ」

「あなたは、私の歩く速度が5.0km/hと表示されていたのを見ましたか」

「見た」

「あれは私の『現在の』速度です」

「現在の?」

「私はアルダの感情を取り込んだ。それは私を弱くしました。私の本来の力は、もっと上です」

総主の足跡が、湯小屋の裏で一瞬、揺らいだ。黒い染みが、深くなった気がした。

「ゲームの最後、私はアルダの感情を切り離します。私の中から、彼女の感情を放出する。そうすれば、私は本来の力を取り戻す。歩行速度も上がります」

「最後に加速するのか」

「残り一キロを切ったら、私は速度を上げます。あなたを追い抜く可能性は、十分にある」

【現在地:6.5km / 8.2km】

【トワ:先行 +47秒】

残り一・七キロ。先行は四十七秒。

総主が加速したら、追い抜かれる。それがいつ起こるかは、総主の宣言通り「残り一キロを切ったら」。

湯楽郷を抜けた。最後の区画は、もう向こうに見える西端の岬だ。途中、何もない平原を一・五キロ歩く必要がある。隠れる場所も近道もない、ただの直線。

トワが歩きながら、総主に問いかけた。

「なぜ、最後の札をわざわざ俺に教えたんだ」

「フェアな勝負がしたかったからです」

「フェア?」

「私はあなたに勝ちたい。だが、あなたが何も知らないまま勝つのは、勝負として面白くない。私の本来の力を知った上で、それでも私を超えてもらいたい」

総主が前を歩くトワに向かって続けた。

「あなたはおよそ一万時間、この世界を歩いてきた。私は数百年、紡世者として世界を管理してきた。歩いた距離だけなら、私が圧倒的に上です。だが、あなたの歩みには、私にないものがある」

「なんだ」

「楽しさ、です」

総主の声が、また少し変わった。穏やかな声の奥に、何か別のものが混じっている。トワは思った。それはアルダの感情の方なのかもしれない。

「私は管理者として、世界を効率的に歩いてきました。最短ルートを選び、無駄を排除し、目的を達成するために移動した。あなたは違う。あなたは、目的のために歩いていない。歩くこと自体を楽しんでいる」

「数千時間、楽しんできたからな」

「だから私は、あなたに勝ちたい。私の歩み方が間違っていなかったと、証明したい。だが同時に、あなたに負けたいとも思っている。私の中のアルダの感情が、そう言っている」

平原の真ん中で、二人の足音だけが響いていた。星の光と黒い染みが、交互に地面に残っていく。

【現在地:7.5km / 8.2km】

【トワ:先行 +52秒】

残り七百メートル。

西端の岬が見えた。

ゴールラインが、岬の先端に引かれていた。白い線。その手前に、六万人のプレイヤーが集まっている。トワを応援するため、ゲームの結末を見届けるため。

タマキが、ゴールラインの少し手前に立っていた。手を振っている。

ハル、ミコト、ゼクス、アストレア、ヴェノム、レナ、レクト、ダリオ、オーレン、バルト、カイン、リゼ、マルク、ソラ。仲間たちが集まっている。〈深紅の牙〉も〈黒翼騎士団〉も〈聖銀の盾〉も〈黄金の燐光〉も〈白霧の進軍〉も〈蒼穹の翼〉も。

全員の視線が、トワに集まっていた。

そして総主の足音が、トワのすぐ後ろまで来ていた。十メートルの距離が、八メートルに縮まっている。総主が宣言通り、加速を始めようとしている。

「残り一キロを切りましたね。――これから、私は本来の力を解放します。準備はいいですか、旅人」

トワは前を向いたまま、答えなかった。

代わりに、肩のセレスに小さく囁いた。

「セレス。──頼む」

「うん。トワ、いつでも、いける」

残り七百メートル。

最後の勝負が、始まろうとしていた。