作品タイトル不明
「歩け」
六万人が見ていた。
糸蔵の空間。星空が消え、柱が消え、守護者が消え、何もなくなったガラスの床の上に、影が一つ立っている。
『総主』が立っている。
人の形をした黒い影。全身が黒い。目だけが白く光っている。身長はトワと同じくらい。服も鎧もない。影そのもので構成された身体だ。
レイドチャットが流れている。
名無しの剣士:「あれが『総主』か……」
名無しの魔法使い:「七繰りのボスの上? 七幹部を集めた奴……だっけ?」
名無しの盗賊:「六万人で殴るか?」
名無しの回復職:「待て、トワが動いてない。何か話してる」
トワは『総主』から十メートルの距離に立っていた。セレスが肩に乗っている。テンがブーツの上。タマキが五メートル後ろに控えていた。ゼクスとアストレアが、さらにその後ろにいる。
「ゲームだと言ったな」
トワが聞いた。
「ええ」
「内容を」
「せっかちですね。セノンにも同じことを言ったでしょう」
「お前、見ていたのか」
「見ていましたよ、全部。あなたがこの島に来てから、全ての行動を」
総主が一歩前に出た。
「ゲームの内容を説明しましょう」
総主が片手を上げた。糸蔵の空間が変化し始めた。ガラスの床が透明度を増して、床下の構造が見えるようになった。その下に常世島の地図が広がっていた。島全体の俯瞰図が、床に投影されている。
「この島の東端から西端まで、直線距離で約八キロメートル。山あり、谷あり、建物あり。六つの区画を横断するルートです」
「八キロ……」
「ええ。あなたと私が、この島の東端に立つ。そして、西端まで──歩く。先に西端に到達した方が勝ち」
レイドチャットが騒然とした。
名無しの剣士:「……歩く?」
名無しの魔法使い:「歩くだけ? 戦闘じゃないのか?」
名無しの盗賊:「八キロの徒歩レース? ボス戦じゃなくて?」
名無しの回復職:「いやいや、何か裏があるだろ」
「ルールがいくつかあります」
総主が指を立てた。
「一つ。走ってはいけない。歩く速度で移動すること。走った場合、その時点で失格です。早歩きも禁止です」
「走れない、か」
「二つ。装備の効果で移動速度を上げてもいい。ただし、足が地面から離れてはいけません。騎乗、飛行、瞬間移動は禁止。自分の足で、一歩ずつ」
「三つ目は?」
「三つ。道は自由に選んでいい。最短ルートでも、迂回でも構いません」
八キロの徒歩レース。走れない。飛べない。一歩ずつ。ルートは自由。
「四つ。勝利条件は、西端への到達。先に着いた方が勝ち。私が勝てば、返したばかりの全プレイヤーの力を、もう一度没収します。あなたが勝てば──この島の封鎖が解けます。全員が帰れます」
名無しの剣士:「もう一度没収……!?」
名無しの魔法使い:「取り戻したばかりなのに!」
名無しの盗賊:「トワが負けたら全部パーか」
名無しの回復職:「でも、トワが勝てば全員帰れる」
名無しの弓使い:「歩くだけだろ? トワなら──」
名無しの聖騎士:「歩くだけで済むわけがない。総主だぞ」
「最後に一つ」
総主が言った。
「五つ。このゲームは、あなたと私の一対一です。他のプレイヤーは参加できません。妨害も援護もできません。ただし──見ることはできます。六万人全員が、あなたの歩みを見届けることになる」
「見届ける、か」
総主が手を下ろした。
「受けますか」
「受ける」
タマキが後ろから声をかけた。
「トワさん」
「ああ……」
「お弁当、作っておけばよかったです。八キロも歩くのなら」
「……歩くだけだ。弁当はいらない」
「でも、お水は」
「いらない」
「絆創膏は」
「いらない」
「わたしは」
トワが振り返った。力になれない無力感からか、タマキは申し訳なさそうな顔をしている。
「大丈夫だ──ゴールで待っていてくれ」
「……はい」
タマキが頷いた。泣きそうな顔で、でも笑っていた。
◇
場面が切り替わった。
総主が手を振ると、糸蔵の空間が溶けるように消えていった。帳の間の霧も消えた。六万人のプレイヤーが、いつの間にか島の各所に転送されていた。
そしてトワと総主は、常世島の東端に立っていた。
断崖だった。海を背にした岩場で、朝の光が水平線から差し込んでいる。
足元に白い線が引かれていた。スタートラインだ。
八キロ先の西端に、ゴールラインがあるはずだ。
トワの画面に、システムウインドウが表示された。
【──最終試練:歩行──】
【ルール:走行禁止。騎乗禁止。飛行禁止。瞬間移動禁止】
【装備による移動速度補正:有効】
【コース:常世島 東端→西端(直線距離8.2km)】
【ルート:自由選択】
【プレイヤー・トワ:歩行速度 基礎4.8km/h+星巡りの靴(+15%)=5.52km/h】
【総主:歩行速度 5.0km/h】
【勝利条件:先に西端に到達した者の勝利】
トワが数字を見た。
歩行速度5.52km/h。総主は5.0km/h。差は0.52km/h。星巡りの靴の分だけ、トワが速い。
八キロを歩行速度で割ると、トワが約一時間二十九分。総主が約一時間三十六分。差は七分。
七分の貯金がある。だがルートは自由で、工夫次第でもある。
「この島を十七日間歩いてきたのは、今日のためだったのかもしれませんね」
総主が言った。総主の足元にも白い線がある。二人のスタートラインが並んでいた。
「私はこれまで、あなたを見ていました。あなたが各区画をどう攻略したか。どの道を歩いたか。どこで立ち止まったか。全て見ていた」
「それは──俺のルートを知っているということか」
「ええ。あなたが知っている道を、私も知っています。だが、あなたが知らない道を、私は知りません。旅人だけが見つけた抜け道があるなら、それは私にも読めない」
総主が前を向いた。
「始めましょう。──カウントダウンは、この島が行います」
空に、巨大なシステムウインドウが浮かび上がった。島全体から見えるサイズ。六万人全員の画面にも表示されている。
【最終試練開始まで】
【10──】
ミコトの配信が最大出力で全世界に流れていた。
『皆さん! 最終試練が始まります! トワさんと総主の一対一! 八キロの徒歩レースです! 走ったら失格! 歩くだけ! でも──この八キロに、常世島の全てが懸かっています!』
コメント欄が流れている。
> 歩くだけの最終試練って何だよ
> BCO史上最も地味なラスボス戦
> いや待て、走れないんだぞ。トワの移動速度が5.52で総主が5.0。差が0.5しかない
> 八キロで七分差。迂回させられたら逆転される
> 旅人だけが知ってる抜け道があるかどうかが鍵か
> 数千時間の旅が試される……
> BCOで一番歩いた男が歩くだけのゲームで勝負するの、出来すぎだろ
> 出来すぎなんだよ。だから燃えるんだ
【5──】
トワが足元を見た。
星巡りの靴。七千時間、この靴で歩いてきた。世界中の道を、この靴で踏んできた。
足跡が光る靴だ。歩いた場所に、星の光が残る。
【3──】
【2──】
【1──】
トワが前を向いた。西。八キロ先のゴール。
その先に、タマキが待っている。
【──最終試練、開始──】
トワが、一歩を踏み出した。
星巡りの靴の足跡が、岩場に光を灯した。
総主が、同時に影を纏う一歩を踏み出した。
光と影が、東から西に向かって歩き始めた。