作品タイトル不明
「Lv1」
五十メートル。
セレスの背に乗って、トワは光の球に向かって走っていた。銀月の疾走。ガラスの床が白銀の閃光に照らされて、足元の経験値の数字が一瞬だけ鮮明に浮かぶ。何万という数字の川が、トワと同じ方向に流れている。全ての力が、あの球体に向かっている。
四十メートル。三十メートル。
球体の光が強くなった。近づくにつれて、空気が変わり始めた。身体が重い。走っているのに、水の中にいるような抵抗感がある。
「セレス、大丈夫か」
「ちょっと……おもい」
残し二十メートル。
セレスが足をもつれさせた。三倍速が落ちている。二倍速。一・五倍速。走るたびに減速していく。
「トワ──セレスの、ちからが。ぬけて、いく」
【セレス:精霊エネルギー残存 64%……58%……51%……】
球体が、セレスの力さえも奪っている。
十五メートル。セレスの脚が震えた。白銀の鹿の姿がぼやけ始める。覚醒が──解けかけている。
「セレス、止まれ。ここでいい」
「でも……まだ、とおい」
「十五メートルなら歩ける。──ここから先は、俺一人で行く」
「セレス、いらない?」
「いや、無理をするとセレスに何があるか分からないから、ここで待っていてくれ」
「ん……わかった」
セレスの覚醒形態がほどけた。白銀の鹿が光の粒に変わって、小さなセレスに戻った。
「でも、セレス、トワがあぶなくなったら、いく」
「ああ、頼りにしてる」
「たよりにされた」
トワがセレスの頭を一度撫でて、セレスを床に下ろした。セレスが小さな手で床を掴んで座る。テンがブーツから降りて、セレスの隣で光った。見守っている。
トワは一人で歩き始めた。
◇
十五メートル。
たったの十五メートルだが、一歩ごとに身体が重くなる。球体の吸引力が、距離に比例して強くなっている。
トワのステータスに変化が起きていた。
【吸引効果:プレイヤーの保有ステータスを吸収します】
【吸収対象:レベル、スキル、装備、保有アイテム】
吸収。球体に近づくだけで、持っているものを吸われる。
十二メートル。吸引が強くなった。
だが──吸われるものがなかった。
レベル:1。これ以上下がらない。
スキル:見聞録。ここでは機能停止しているため、吸収対象として認識されていない。
装備:【果ての道標】は特殊武器のためスロット外。星巡りの靴は旅人クラス固有装備のため没収対象外。冒険のお守りも同様。
保有アイテム:タマキの回復薬が三本。以上。
【吸収対象が見つかりません】
【吸収対象が見つかりません】
【吸収対象が見つかりません】
システムメッセージが連続で表示された。吸収しようとして、吸えない。繰り返し試行して、繰り返し失敗している。
トワは歩き続けた。
十メートル。吸引力はさらに強くなっている。身体を押し返す力が凄まじい。風が吹いているわけではない。空間そのものが「来るな」と拒んでいる感覚だ。だが、吸われるものがないから、ダメージは──HPだけが、じわじわと削れていた。
【トワのHP:360 → 354 → 347 → 339……】
球体そのものの圧力で、HPが減っている。秒速で7ずつ。このペースなら、あと五十秒は耐えられる。
八メートル。七メートル。六メートル。
足元の経験値の川が、急流になっていた。数字が猛烈な速度で球体に吸い込まれていく。床が震えている。
五メートル。
レイドチャットが鳴った。背後の戦況だ。
ゼクス:「大型守護者が二体目になった。合体が止まらない。急げ、トワ!」
オーレン:「タンク部隊が限界だ。前衛が崩されかけてる!」
ハル:「柱の耐久度、15%です!」
急がなければならない。だが走れない。球体の圧力が強すぎて、一歩がまともに踏み出せない。
三メートル。HP:298。
二メートル。HP:271。
一メートル。
球体が目の前にあった。
巨大な光の塊。直径五メートルほど。近くで見ると、光の中に無数のデータが渦巻いているのがわかった。プレイヤーの名前、スキル名、装備名、レベル、経験値。六万人分の「持ち物」が、この球体の中でぐるぐる回っている。
トワが手を伸ばした。
指先が球体に触れた。
◇
触れた瞬間──視界が白く飛んだ。
音が消えた。背後の戦闘音も、レイドチャットの通知音も、何もかも。白い空間に一人で立っている感覚。
そして──流れ込んできた。
知らない誰かの記憶。
初めて〈火球〉を覚えた日。ようやくモンスターを倒せて、仲間が拍手してくれた日。
初めてレイドに参加した日。何もわからないまま走って、死んで、笑った日。
パーティを組んだ日。一人じゃ倒せないボスを、四人で倒した日。
ギルドに入った日。初めて「おかえり」と言われた日。
装備を鍛えた日。素材を百個集めて、やっと一本の剣ができた日。
負けた日。全滅して、全員黙って、それでも翌日またログインした日。
六万人分の記憶が、一秒の間にトワの中を通過していった。
断片の嵐。名前のないプレイヤーたちの、名前のある時間。このゲームで過ごした全ての時間が、この球体の中に圧縮されている。
白い空間が晴れた。トワの目の前に、システムウインドウが浮かんでいた。
【糸蔵・管理システムへの接続を検知しました】
【接続元:トワLv1 クラス旅人】
球体に直接触れることで、糸蔵の内部システムに繋がった。
新しいシステムウインドウが現れた。
【糸蔵に保管されたデータ:61,247人分のステータス情報】
【解放コマンドが利用可能です】
【全データの一括解放を実行しますか?】
【 ▶ はい ▶ いいえ 】
トワは一秒も迷わなかった。
「はい」を選んだ。
【──全データの一括解放を開始します──】
球体が脈動した。一度。二度。三度。鼓動のように、光が強まっていく。
そして──弾けた。
◇
光の球体の表面が割れて、中から無数の光が噴き出した。光の粒の一つ一つがプレイヤーのデータだ。六万の光が、全方向に飛び散った。
空を覆っていた星──没収されたアイテムのアイコンが、一斉に動き始めた。空から流れ星のように降り始め。アイテムが、持ち主のもとに帰っていく。赤い剣のアイコンが一人の剣士の手に吸い込まれた。青い杖のアイコンが魔法使いの指先に触れた。金色の盾が、タンクの腕に戻った。
床を流れていた経験値の川が──逆流し始めた。球体に向かって流れていた数字が、方向を変えて、外に向かって走っていく。数字がプレイヤーの身体に吸い込まれていく。
柱が光った。七本の柱が同時に輝いて、中に封じられていたスキルの粒が一斉に解放された。光の粒が、空気の中を漂い、それぞれの持ち主のもとに飛んでいく。
【──全プレイヤーのステータスを返還中──】
システムメッセージが、六万人の画面に流れ始めた。一人一人に、個別のメッセージが届いている。
【プレイヤー BD-09821:〈烈火斬 Lv8〉を返還しました】
【プレイヤー BD-09821:〈重撃 Lv6〉を返還しました】
【プレイヤー BD-09821:装備「星鋼の大剣」を返還しました】
【プレイヤー BD-09821:レベルを返還しました Lv1 → Lv72】
一人分だけでこれだ。六万人分のシステムメッセージが、一斉に。
名無しの剣士:「レベルが戻った!!! Lv72!!!」
名無しの魔法使い:「スキル全部返ってきた! 全部だ!」
名無しの盗賊:「装備も! 俺の星鋼のダガーが──!」
名無しの回復職:「回復魔法が使える! 使えるぞ!」
名無しの聖騎士:「Lv87復活! 全ステータス元通り!」
名無しの弓使い:「これまでの全てが返ってきたぞ!」
糸蔵の中で、景色が変わっていった。
空のアイテムアイコンが次々と消えていく。持ち主に返ったアイコンが空から消えて、星空が少しずつ暗くなっていく。逆に、プレイヤーたちの装備が光り始める。初期装備が、元の装備に置き換わっていく。
初期の木の剣を握っていたプレイヤーの手の中で、剣が光って、星鋼の大剣に変わった。布の服を着ていたプレイヤーの身体が光に包まれて、ミスリルの鎧に変わった。
そして──守護者が崩れ始めた。
力を構成していた没収データが持ち主に帰った。守護者を形作っていた力がなくなった。黒い靄が、中身を失って散り始めている。
あれほど苦戦した守護者が、力の返還とともに消えていく。
名無しの魔法使い:「守護者が消えてる! 力が返ったから、構成素材がなくなったんだ!」
名無しの剣士:「大型も崩れてる! 黒いモヤが消えていくぞ!」
大型守護者が膝をついた。七本の腕が一本ずつ崩れていく。吸収していたプレイヤーのステータスが持ち主に帰って、大型守護者の身体を維持できなくなっている。
バルトの前で、大型守護者が──消えた。
【全ての守護者が消滅しました】
【糸蔵の封印が完全に解除されました】
柱のひびが止まった。耐久度の数字が消えた。もう壊れる心配はない。柱が、役割を終えて光に変わり始めている。
ミコトの配信でも、読めないほどの速度でコメントが流れていた。
> 全部返ってきた!!!!!!!
> 俺のLv87! 俺の装備! 俺のスキル!
> 泣いてる、マジで返ってきて良かった
> 二週間ぶりだぞ、二週間ぶりの自分の力だ
> トワが球体に触れた瞬間に全部返ってきた
> あの人、何したの?
> わからん、でも返ってきた
> トワさんが六万人の力を取り戻したぞ
> ↑ そのLv1は、今もLv1のままなんだよな
> ↑ 草
> ↑ 草じゃねえよ。返ってくるものが何もないってことだぞ。最初から何もなかった男だ
> ……かっこいいな、それ
◇
糸蔵の空間が静かになっていた。
星空が消えた。全てのアイテムが持ち主に帰って、空は暗い天井だけが残っている。床の経験値の川も止まっている。もう流れるものがない。柱は七本とも光に変わって消えた。
広大な空間に、六万人のプレイヤーが立っていた。全員がかつてのレベル、かつての装備、かつてのスキルを取り戻して。
タマキが走ってきた。六万人の人混みを掻き分けて、トワのもとに一直線に駆けてきた。
「トワさん、大丈夫ですか!?」
「大丈夫だ、HPは87残ってる」
「それ、全然大丈夫じゃないです! 早く回復薬を飲んでください!」
トワが薬を受け取って飲んだ。HPが回復していく。
「タマキこそ、走り回って大丈夫か?」
「えへへ……問題ないですよ、薬師ですから」
タマキの足元が、少しふらついていた。回復薬を配り終えた後、自分の疲労を一切ケアしていなかったのだろう。トワがタマキの腕を掴んで支えた。
後ろからはセレスも走ってきていた、テンと一緒に。
「トワ! だいじょうぶ!?」
二人が小さな身体でトワの膝に飛びついた。
「セレスこそ、力を吸われていたが、もう大丈夫か」
「だいじょーぶ。もう、もどった」
「ありがとう。あそこまで連れて行ってくれたのは、お前たちのおかげだ」
「えへ……セレスの、しごと」
セレスがトワの膝の上で丸くなった。
◇
静寂の中で、誰かが声を上げた。
「おい──糸蔵の奥に、何かあるぞ」
球体があった場所に、何かが残っていた。
光ではない。暗い影が、揺らめいている。球体が消えた跡に、影だけが残っている。影が──形を持ち始めた。人の形に。
影が、立ち上がった。
人の形をした影。顔がある。目がある。口がある。だが色がなく、全てが黒い。
影の口が動いた。
「──ご苦労だったね」
声が糸蔵全体に響いた。穏やかだが、底が知れない男の声だった。
「六本の糸を集めて、糸蔵を開けて、力を返した。全て、私の想定通りだ」
トワが立ち上がった。
「……お前がアルダの話に出てきた、『総主』か」
影が──微笑んだ。黒い顔の中に、白い歯だけが見えた。
「ええ、私こそが、この島を牛耳る『総主』です」
影が一歩前に出た。
「自己紹介をしましょう。私は七繰りを束ね、この島を設計した者。ヴァルタ、ギセル、ルシア、テオ、マリス、セノン、アルダ――七人はそれぞれの理由で『紡世者』から追放された。私は、その七人を集めて、この常世島を作った」
「お前も、『紡世者』から追放されたのか」
「ええ。──八人目の追放者です。だが、私の追放理由は七人とは少し違う。それは後で話しましょう」
影がゆっくりと腕を広げながら、
「六万人の力は返しました……約束通りです。糸蔵を壊せば力が戻る、と」
「『約束』? 俺たちはそんな約束をした覚えはないが……誰との約束だ?」
「この島の仕組みとの約束です。プレイヤーの力を没収して、蓄積して、そして──条件を満たした者が解放する。その条件を満たしたのが、あなたです。旅人トワ」
総主が微笑んだまま、トワを見つめた。
「さて、力は返しました。だが、まだ終わりではない。この島から出るには──最後に一つ、私の試練を超えてもらう必要がある」
「試練?」
「ええ。──ゲームですよ。旅人トワ、あなたと私の、一対一の」
【──常世島・全域通知──】
【総主が出現しました】
【最終試練が開始されます】