軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

《もう一つの目》

トワは一人目の旅人――今は巨大な目の彼に向き直った。

「お前に見せたいものがある」

「見せたいもの……わたしに? わたしは全てを見ている。見せてもらうものなど——」

「お前が見たことないものだ。お前以外の、誰かが見た世界」

見聞録を起動した。約一万時間分のデータベースの全てを開放する。

見聞録のデータが光となって、トワの手から一人目の目に向かって流れていく。

始まりの町の最初の一歩。誰もいない草原を一人で歩いた朝。銀月の鹿と出会った夜。セレスが肩に乗った瞬間。宮瀬がポーションを渡してくれたボス戦。ゼクスが影から現れた夕暮れ。ハルが手帳を見せてくれた日。

一人で歩いた二年間と、仲間と歩いた一年間。

深淵でアルヴァの龍体に飛び込んだ五秒間。原初の世界の銀色の草原を初めて見た瞬間。渡空魚にぱたぱたされた日。万獣に舐められてべしょべしょになった日。タマキが星見の雫を命名した夜。レクトが釣り竿で世界の根を探索した日。

グランと並んで歩いた穴の縁。セレスの子守唄。メブキの双葉。ルーナの影。

全部。一万時間分の旅を。

一人目の目が、大きく見開かれた。

「これは——」

「俺が見てきた世界だ。お前にも、かつてこういった記憶があったはずだろう」

一人目の目の中に、トワの映像が流れている。

「草原を歩いただろう。湖のほとりを。星の見える高台を。俺と同じように」

「……歩いた。確かに、草原を、ほとりを、高台を——」

「隣に誰かがいただろう。裸足で歩く奴が」

「裸足の——……いた。いた気がする。わたしの隣に、ずっと隣に——」

「そいつが、笑うのを見るのが好きだと言っていたな。柱に声が残っていた」

「笑うのを、見るのが……」

一人目の瞳孔が収縮して、拡大して、また収縮している。映像の中のトワの旅と、自分自身のかつての旅が重なっている。

精霊が肩に乗っている映像。仲間と並んで歩いている映像。名前をつけた生き物が後ろをついてくる映像。

一人目にも、同じ景色があったはずだ。

「お前は一人で全部見ようとした。でも……俺は違う。仲間と一緒に見てきた。一人で全部見なくても、みんなで少しずつ見ればよかったんだ」

一人目の目から、光の粒が落ちた。

涙だ……泣いている。彼の目から、金色の涙が落ちている。

「帰りたい……のか。わたしは……帰りたかったのか」

「帰りたかっただろう。柱に残ってた。お前の声。『帰りたい。でも見終わっていない。もう少しだけ——』」

「もう少しだけ……。ずっとそう思っていた。もう少しだけ、もう少しだけと、何千年も——」

一人目の目が閉じかけた。

彼は、かつての記憶を思い出しつつある。

見ることをやめようとしている。

「そうだ……そうだった。わたしにはかつて、誰かがいた。どこかで、誰かが待っていた」

一人目の旅人が、失った記憶を取り戻しかけている。

このままいけば、彼は人の姿に戻れるんじゃないか。

誰もがそう淡い希望を抱いた、その瞬間——。

『……っ!!?』

バギン、と空間が裂けた。

観測点の床が割れ、壁が砕け、天井が崩落した。

下から——何かが、来る。

金色の光……一人目の目よりもっと大きい、もっと古い、もっと深い場所から。

世界の底から、もう一つの目が浮上してきた。

直径およそ百メートル。

一人目の目の五倍。金色ではない――白金色。冷たく、感情がない、機能だけの光。

【——警告——】

【レイドボス:「原初の観測者」が出現しました】

【全プレイヤーに通知:BCO全域に異常事態が発生しています】

「何だ、これは——」

白金色の目が、一人目の旅人を見た。一人目の目が閉じかけていたのに——開かされた。

強制的に、閉じようとしている瞼を、下から押し上げるように。

それは、一人目が記憶を取り戻そうとしたのを……人に戻るのを、許さなかったのかもしれない。

「おい。いったい何のつもりで、お前は――」

トワが声を掛けた次の瞬間、白金色の視線がトワたちにも向いた。

「……っ!」

身体が重くなった。足が床に貼りついたように動かない。腕が上がらない。見られている。あの目に見られていると、身体が固まる。

タマキが膝をついた。

「身体が……重いです……見られてるだけで……!」

セレスが角を光らせて、月光を放った。銀色の光が、白金色の視線とぶつかった。視線が僅かに逸れる――月光が当たっている間だけ、身体を少し動かせる。

「トワ、月光で少しだけ時間を稼げる! でも長くは持たない!」

グランが杖を地面に突いた。

「トワ。ここは持たない……早く逃げろ」

「ああ、だが全員で退く。グランもここから逃げるんだ、いいな」

グランの返答も待たずに、トワは彼の腕を掴んで走った。

しかし……背後から声が聞こえた。

一人目の目が、後ろで叫んでいた。

声じゃない、獣みたいな咆哮だ。でも、見聞録を通じて感情が伝わってきた。

助けてくれ。

帰りたい。見るのをやめたい。でも——あの目が離してくれない。何千年もずっと——離してくれなかった。

一人目の旅人は、好奇心で見続けていたのではなかった。

見続けさせられていた。

「——必ず助ける。待ってろ」

根の天蓋に出た。

天蓋の虹色の膜にひびが入っている。

花の台地のプレイヤーたちが空を見上げていた。

そして天蓋を突き破って——《原初の観測者》が現れた。

原初の世界の空に、巨大な白金色の目が浮かんでいる。世界の底から這い上がってきた目。BCOの全プレイヤーの空に、あの目が見えている。

「何だ、あれ——!?」

「空に……目が……」

「身体が重いぞ……なんでだ、動けない!?」

BCO全域で、プレイヤーの動きが制限されている。

原初の観測者の能力《確定視》が、世界全体に及んでいる。

「ハル、書いてくれ。いまの状況を、全プレイヤーに伝えろ」

「は、はい……! しかし、何を書けば——」

「『名前』を呼べ、と伝えてくれ。自分が名前をつけた全てのものの名前を呼べ。名前の力で自分の存在を固定しろ。そうすれば、あの目の力に耐えられる」

ハルが書いた。

——「【全プレイヤーへ緊急要請】名前を呼んでください」

——「空に出現した目の力で全員の動きが止まりかけています」

——「自分が名前をつけた存在の名前を声に出して呼んでください」

——「名前の力で自分の存在を固定すれば、あの目の力に耐えられます」

——「トワさんからの要請です。BCO全プレイヤーの力が必要です」

世界が動き始めた。