作品タイトル不明
原初の獣王
十三日目。フィールドボスに挑む日。
準備は万全だった。
姿固定薬・改良版。ナギとタマキが共同で作った。持続時間が30秒から60秒に延長されている。
この薬は、三本もある。
そして――星見の雫。全五感を3倍に強化する、千年熟成の一点もの。一瓶きりだ。
写空の戦薬。ATK1.5倍、60秒間……五本。
アルヴァの薬瓶。深淵用の回復薬だが、即時回復薬としても使える……残り二本。
「足りますかね」タマキが鞄の中身を最終確認している。
「足りなかったら、その場で作ってみてくれ」
「その場で調合ですか……まあ、やりますけど」
北に三キロ、振動を辿って歩いた。
金色の草原を越えて、白い草原に入った。さらに北、草がなくなっていく。
地面が岩になった――荒野だ。
原初の世界にもこういう場所があるらしい、きれいなだけの世界ではない。
振動が近づいてくる。
足の裏がびりびりする。渡空魚たちが落ち着かない。ぱたぱたが速くなっている。
「お魚たち、緊張してますね」
「獣の気配を感じてるんだろう」
岩場を越えた先に、広い平地があった。何もない。草も木もない。ただ平らな岩の地面が広がっている。
その真ん中に、いた。
でかい。
前哨個体の原初獣は全長十メートルだった。こいつは……三十メートル以上ある。見上げるほどでかい。
姿が変わり続けている。狼になって、竜になって、鯨になって、鷲になって、蛇になって、猪になって。三秒ごとに形が変わる。前哨個体よりずっと速い。
【名前:なし Lv:なし HP:なし 属性:なし 行動パターン:不定】
「でかい……前哨個体の、三倍はあるな」
「予定通りいきましょう。まず、星見の雫――それから姿固定薬。固定している間に分析を——」
その刹那、獣王がこっちを向いた。
金色の目が、でかい。顔面だけで人間より大きい。
そして――咆哮。
地面が割れた。
衝撃波が岩場を吹き飛ばす。トワはタマキを抱えて横に飛んだ。
「来るぞ——戦闘態勢に入れ!」
「はい!」
トワが星見の雫を飲んだ瞬間、世界が変わった。
視覚が三倍――色の数が増えた。空気の流れと、獣王の筋肉の動きまで見える。
聴覚が三倍――獣王の心拍が聞こえる。速い……ドクドクドクドク。呼吸音も、骨が軋む音も。
振動感覚が三倍――地面を通して、獣王の体重移動がわかる。右前脚に力を入れている。次は右から来るだろう。
温度感覚が三倍――獣王の体温分布が見える。胸の中心が熱い。核がある……前哨個体と同じだ。
そして——嗅覚が三倍。
生き物が怒った時に出るアドレナリンや興奮物質が、一切出ていない。
その代わりに出ていた感情は……悲しみ。
彼は、泣いていた。
「待て……獣王は、泣いている」
「……え?」
「こいつは、怒ってないんだ」
「怒ってない? でも、攻撃してきましたよ!?」
「攻撃してるんじゃない……暴れてるんだ。苦しくて、暴れてるんだろう」
星見の雫で強化された五感が、獣王の状態を読み取っている。
姿が変わり続けている……三秒ごとに。
狼になって、竜になって、鯨になって……止まらない、止まれない。
自分が何なのかわからない。名前がないから。何者でもなくて、何者にもなれなくて、姿を変え続けることしかできない。大昔から、ずっとだ。
苦しい……だから暴れる。止めてほしくて暴れてる。
「こいつは……敵じゃない」
「トワさん。本当に、敵じゃないんですか」
「名前がなくて、苦しんでるんだ。自分が何かわからなくて、千年間ずっと姿を変え続けて……それでも止まれない」
獣王が突進してきた。
竜の姿で口を開けている――ブレスが来る。
避けた。星見の雫の五感で動きが全部見える。体温の変化で攻撃の前兆がわかる。口内の温度上昇からブレスまで1.2秒の猶予がある。余裕で避けられる。
でも、トワは反撃しなかった。
「トワさん、斬らないんですか!?」
「斬っても解決しない。こいつに必要なのは攻撃じゃない――名前だ」
「でも、分析率を上げるには姿を固定させないと——!」
「ああ、固定はさせる」
タマキに振り返った。
「姿固定薬を投げてくれ。でも——倒すためじゃない、分析するためだ。あいつの名前をつけるために」
「……わかりました!」
タマキが改良版の姿固定薬を投げた。獣王の頭上で割れた。琥珀色の液体がかかった。
【姿固定薬・改良版の効果:60秒間、対象の変身を封じます】
獣王の姿が止まった。固定された、巨大な銀狼。
だが獣王は暴れるのをやめなかった。固定されても暴れている。姿は変わらないが、苦しそうに身体をぶつけている。地面に、岩に、自分自身に――。
「声を上げて、苦しがってる……」
「名前がないのに姿だけ固定されたから、余計に苦しいのかもしれないな。急がないと」
見聞録のセンサー五種を全開にした。星見の雫で全部が三倍。情報量が凄まじい。普段の九倍の密度でデータが流れ込んでくる。
【分析率:12%……28%……41%……】
速い。通常の三倍速で分析が進んでいく。
獣王の全てを読み取る。骨格。筋肉。心臓の位置。呼吸のリズム。体温の分布。神経の走り方。牙の本数。爪の硬度。毛並みの密度。
【分析率:56%……72%……83%……】
三十秒。もう83%。あと少し。
獣王が吠えた。固定されたまま。声が震えている。泣いているような声。
セレスが肩の上で、角をぷるぷると震わせた。
「トワ。このこ……ないてる」
「ああ、わかってるいるさ」
「はやく。なまえ、はやくあげて」
【分析率:91%……96%……】
残り四パーセント。
最後の部分――核の内部構造。胸の中央にあるエネルギーの塊、これが獣王の本体だ。
核を読んだ。
核の中に、全ての獣の情報がある。狼も竜も鯨も鷲も蛇も猪も猿も熊も、全部ここに入っている。全ての獣の原型。獣が分かれる前の、一番最初の姿。
獣の王ではない。獣の始まり。
【分析率:100%】
【原初の世界のフィールドボスの分析率が100%に到達しました!】
【この存在に名前をつけることができます】
「名前を、つける——」
トワは獣王を見上げた。
今も銀狼なのは、固定薬で姿が止まっているからだ。
目は金色で、涙が出ている。
涙……モンスターが泣いている。
出会ったことのない類のモンスターだ。
でも、トワはそんなモンスターを不気味には感じなかった。
「お前は——全ての獣の始まりだ。王じゃなくて、親だ。渡空魚も、虹翅蝶も、瑠璃灯虫も、原初獣も、全部お前から分かれた……そうだろ?」
トワが語りかける中、渡空魚が動いた。
魚たちが、トワの後ろから前に出る。獣王に向かって泳いでいく、ぱたぱたと。
「トワさん、お魚さんたちが——!」
「ああ……いったい、何をするつもりだ?」
渡空魚が獣王の周りを泳ぎ始めた。
きれいな円を描いて、マルの前でやっていたお魚ダンスと同じ動き。
――その瞬間、獣王が暴れるのをやめた。
彼は渡空魚たちをじっと見ていた。
自分から分かたれたであろう、子供たちを。
名前をもらった子供たちが、親の周りを泳いでいる。
「お前の子供たちが、名前をもらって、元気にやってるぞ。だから、お前にも名前をやる」
入力した。
【 万獣(ばんじゅう) 】
【命名が完了しました!】
【原初の世界のフィールドボス「万獣」が全プレイヤーに公開されます】*
【命名者:トワ】
今回のシステムメッセージは、いつもと変わっていた。
【性質が確定しました:万獣は原初の世界の全ての獣の祖です】
【万獣の姿が安定しました】
【万獣は非敵対モンスターに移行しました】
【フィールドボス「万獣」——討伐ではなく、命名による鎮静に成功しました】
獣王——万獣の姿が、一度だけ変わった。
銀狼ではなくなった。
姿固定薬の効果が切れて、自由に変われるようになって……変わらなかった。
狼の姿のまま、ゆっくり座った。
自分が何者かわかったから、もう変わらなくていい。
渡空魚が万獣の鼻先をぱたぱた触っている。万獣が目を細めた。くしゃみをした。渡空魚が三匹吹き飛ばされた。ぱたぱたぱた。
「おい……くしゃみで吹っ飛んだぞ……大丈夫なのか、あれは」
「まあ、でかいから仕方ないですね」
セレスが肩の上から万獣を見ていた。
「トワ、トワ。このこ、もうないてないよ」
「ああ、泣いてないな」
「なまえ、もらったから」
「そうだな……名前は大事だ」
「トワ。なまえって、すごいね。なまえがあると、なかなくなる」
「それだけ大切なものなんだろう。俺たちだって、そのはずだ」
万獣がトワを見下ろしていた。
まるで子犬みたいな姿で、尻尾で地面を叩いている。
どすん、どすん。地面が揺れる。
「尻尾振ってる……なんだか、犬みたいですね」
「犬じゃない。万獣だ」
「でも、尻尾振ってますよ。嬉しいんですよ……名前をもらって」
【原初の世界 探索進捗が更新されました】
【フィールドボス討伐:0/1 → 鎮静完了:1/1】
【万獣が原初の世界の友好NPCとして登録されました】
【万獣の加護:原初の世界での全ステータスが10%上昇します】
「討伐じゃなくて鎮静……友好NPC……加護……」
「倒さなくてよかったんだ。きっと、最初から」
「名前をつけるのが正解だった。……トワさん、最初に『こいつは敵じゃない』って言った時、どうしてわかったんですか」
「匂いだ。星見の雫で嗅覚が強化されて、泣いてるのがわかった」
「匂いで泣いてるのがわかる……」
「こう言ってはなんだが……犬の気持ちが分かった気がする。犬は、匂いで人の感情まで分かるらしいが、その感覚がダイレクトに来た」
「それはもう旅人じゃなくて、お犬さんでは――」
「俺は犬じゃない、旅人だ」
「トワ、わんわんって言って――」
「言わない。俺は旅人だ」
「けち」
「けちでいい、犬よりはマシだ」
万獣がトワの頭を舌で舐めた。
でかい舌で、トワの全身がべろんと濡れる。
「うわ——おい、いったい何をしている?」
「トワさん、またなつかれてますね」
「なつかれるのは構わないが、でかすぎるだろ……」
渡空魚が万獣の背中に乗って泳いでいる。
親の背中で遊ぶ子供たち。
セレスも飛んでいって、万獣の頭の上に座った。
「おっきい! おっきいわんこ!」
「わんこじゃない。万獣だ」
「おっきいばんじゅう!」
タマキが鞄を閉じた。使わなかった薬がたくさんある。戦薬も、回復薬も、アルヴァの薬瓶も。
「準備しすぎましたね」
「準備は無駄じゃない。星見の雫がなかったら、泣いてることに気づけなかった」
「それはそうですけど……戦う準備ばっかりしてて、戦わないで終わっちゃいました……」
「原初の世界らしいだろう。ここでは名前が一番の力だ、武力じゃなくてな」
「……ですね。名前の力、旅人と薬師の力」
命名数十二。あと三つで十五。
万獣が大きなあくびをした。千年ぶりに安心して、眠くなったのかもしれない。
巨大な銀狼が岩場に横たわった。地面がどすんと揺れた。目を閉じた。
渡空魚たちが万獣の腹の上で寝始めた。セレスも万獣の頭の上で丸くなった。
「……お昼寝タイムですかね」
「そうらしいな」
「わたしたちは、どうします?」
「帰ろう。あいつらは……しばらくこのままだろう」
岩場を離れた。振り返ると、の銀狼が寝ていた。腹の上に、魚が十一匹と、精霊が一匹。
なんだか、よくわからない光景だった。
でも、良い光景だと思った。