作品タイトル不明
薬師の矜持
十二日目。タマキは朝から薬房に籠もっていた。
ナギの横に座り込んで、あの青い薬瓶をひたすら分析している。匂いを嗅ぎ、舌に乗せ、光に透かし、振って、傾けて、また匂いを嗅ぐ。もう三日間、同じ瓶を相手にしている。
トワは薬房の入口で壁にもたれて待っていた。セレスが膝の上で寝ている。渡空魚が十一匹、薬房の窓からぱたぱた中を覗いている。魚に覗かれながら調合する薬師というのは、BCOの歴史上タマキだけだろう。
「タマキ、進捗は」
「82%……あと少しなんですけど、最後の成分がどうしても読めなくて……」
「どんな成分だ?」
「わからないから、読めないんです。既存のどの薬のデータベースにも、一致しない。原初の世界にしかない成分で、しかもナギさんが千年かけて偶然見つけた配合だから、理論的な裏付けがない」
「ナギに聞けばいいんじゃないか?」
「聞きました。『手が覚えてる』って言われました」
「手が覚えてる……か」
「ナギさんの手は覚えてるんですけど、わたしの手は覚えてないんですよ。だから自分の方法で理解しないといけない」
ナギがカウンターの奥で薬草を刻みながら言った。
「急がなくていい。千年かかったものを、三日で全部わかろうとしなくていい」
「でも、フィールドボスが——」
「ボスは逃げない。ずっとあそこにいる、大昔からいる」
大昔からいるフィールドボス。考えてみれば、原初の世界のモンスターに時間制限はない。浸蝕度もなければ、消滅タイマーもない。ボスはずっとそこにいて、挑戦者を待っている。
「……そうですね。急いでも仕方ない」
タマキが深呼吸した。瓶を持ち直した。
「最初からやり直します。今度は順番を変えて、味から入ります」
舌に一滴。目を閉じた。
トワは黙って見ていた。口を挟まない方がいい場面だとわかっている。薬師が素材と向き合う時間は、旅人が道を歩く時間と同じだ。邪魔をしてはいけない。
◇
二時間が経った。
セレスが起きた。トワの膝の上であくびをして、薬房の中を見回した。
「タマキ、まだやってる?」
「まだやってる」
「がんばりやさん」
「ああ、努力家だな」
「でも、トワもがんばりやさん」
「俺はまってるだけだぞ」
「まってるのも、がんばりのうち」
セレスがまた丸くなって寝た。精霊は寝るのが仕事みたいなところがある。
渡空魚の一匹が窓から薬房の中に入ってきた。ぱたぱた泳いで、タマキの頭の上で止まった。タマキ専用の小さい個体。
タマキは気づいていない、集中している。頭の上に魚が乗っていることにも気づかないくらい集中している。
ナギがそれを見て、ふふっと笑った。
「魚に好かれる薬師なんて、初めて見た」
「あいつは名前をつけた恩を覚えてるんだろう」
「名前の恩……いい言葉だね」
二時間半が経った頃、タマキがハッと顔を上げた。
「……わかった」
「遂に、わかったのか」
「最後の成分。これ……成分じゃないんです。成分として読もうとしてたから読めなかった」
「成分じゃないなら、何なんだ?」
「『時間』です。ナギさんがこの薬を千年間保存していた時間が、薬に染み込んで成分の一部になってる……千年分の熟成、ワインみたいなものです。作った瞬間の薬と、千年後の薬では、同じ配合でも性質が変わっているんです」
「千年熟成の薬……か」
「だからナギさんが同じ手順で作っても、同じものはできない。この一瓶だけが、千年の時間を含んでいる――再現不可能の一点ものです」
ナギが目を見開いた。
「……タマキ。それ、わたしも知らなかった」
「え?」
「千年前に作って、そのまま置いてあった。時間が薬を変えるなんて、考えたこともなかった」
「ナギさんが、気づかなかったんですか」
「気づかなかった。わたしには時間の感覚がないから。ここにいると、千年も昨日も同じに感じる」
タマキが瓶を光に透かした。青い液体の中で、星のような粒子がゆっくり回転している。
【名前のない薬(ナギ作):分析率100%】
【この存在に名前をつけることができます】
薬の謎を解き明かしたことで、遂に分析率が100%に到達した。
「――つけます」
タマキの手はもう震えていなかった。
「千年の時間と、ナギさんの手と、原初の世界の素材が全部混ざった薬……五感の全部を開く薬。目も、耳も、鼻も、舌も、肌も、全部が鋭くなる。……名前は」
入力した。
【 星見の雫(ほしみのしずく) 】
【命名が完了しました!】
【原初の世界の薬品「星見の雫」が全プレイヤーに公開されます】
【命名者:タマキ】
【性質が確定しました:使用者の全五感を60分間、3倍に強化。千年熟成のため再現不可。この一瓶のみ】
「全五感3倍……60分間……!」
「だが、この一瓶だけだ。もう作れない薬だぞ」
「はい……本当に、使う場面を選ばないと」
「恐らく、フィールドボス用の特攻アイテムだな」
「はい……あの獣王に挑む時に使います。五感が3倍なら、トワさんの分析速度も3倍になるはず。姿固定薬と合わせれば——」
「固定している間に、通常の三倍の速度で分析できる。30秒で100%に届く」
「計算上は。……あとは、姿固定薬の持続時間を伸ばせれば完璧です」
タマキがナギの方を向いた。
「ナギさん。原初の蒸留法で姿固定薬を改良したいんですけど、手伝ってもらえますか」
「もちろん。わたしの弟子みたいなものだから」
「弟子……! ナギさんの弟子!」
タマキの顔がぱっと明るくなった。薬の分析で三日間ずっと難しい顔をしていたのが嘘みたいだ。
「嬉しそうだな」
「嬉しいですよ。ナギさんの弟子ですよ? 千年の技術を持つ薬師の弟子。マーサさんに並ぶ師匠がもう一人できたみたいなものです」
「師匠が二人。贅沢だな」
「贅沢です。薬師冥利に尽きます」
ナギとタマキが並んで調合台に向かった。原初の蒸留法で姿固定薬の改良を始める。
トワは薬房を出た。
あの空間に旅人がいたら邪魔になるだろうと。
そして、命名数十一……あと四つ。
フィールドボス戦の準備は着々と進んでいる。姿固定薬の改良版と、一瓶だけの星見の雫。この二つが揃えば、原初の獣王に挑める。
集落の外に出ると、大きい木の下でセレスと渡空魚が遊んでいた。お魚ダンス。ぐるぐる回るやつ。
マルも一緒に踊っていた。NPCが魚と精霊と踊っている光景は、たぶんBCOで初めてだろう。
「マル、楽しそうだな」
「楽しいよ。名前があると、楽しいことが増えるの」
「そうか」
「トワも踊る?」
「踊らない」
「えー」
「セレスにも断った。俺は踊らないぞ」
「つまんないの」
「俺はつまんなくていい」
マルがぷくっと頬を膨らませた。NPCに頬を膨らまされるのも、たぶんトワが初だ。
渡空魚が十一匹、大きい木の周りをぐるぐる泳いでいる。群れの動きがまた揃ってきている。きれいな円を描いている。
たくさん集まると変わる、とマルは言っていた。
十五の命名で何かが起きる。
あと四つ。もうすぐだ。