作品タイトル不明
名前のない世界
深淵レイドから二週間後。
ログインすると——始まりの町の掲示板が更新されていた。
【BCO ver4.0「原初の世界——名前のない場所」実装】
【深淵レイド「千年の旅人」クリア済みのプレイヤーに、原初層の先が開放されます】
【原初の世界は従来のエリアとは異なるルールが適用されます。詳細は現地で確認してください】
「アップデートか……! そろそろだろうとは思っていたが……」
「来ましたね。——トワさん、もちろん行くんですよね」
タマキが隣にいた。鞄を背負って、薬瓶の音をカシャカシャ鳴らしている。準備は万端だ。
アップデート当日にログインしてくるあたり、好奇心はトワにも負けていない。
「ああ……行く」
「わたしも、行っていいですか」
「来るつもりで準備してるだろう」
「はい。——深淵の露を五十本と、新しい浸蝕度回復薬を二十本。あと、携帯食料を三日分」
「三日分は多いな」
「トワさんと行くと予定の三倍は歩くことになるので。経験則です」
「経験則か」
「経験則です」
他のメンバーには声をかけなかった。
ゼクスは別の場所で修行中。アストレアは大聖堂の業務。ハルは図書館で手帳の整理。カレンはアルヴァと一緒にいる。ダリオは海。ヴェノムは旅人の集い。レクトは〈白霧の進軍〉のギルド運営。
全員が、自分の場所にいる。それでいい……今回は、タマキと二人で行く。
「セレス、行くぞ」
「いく。——あたらしいところ?」
「ああ……原初の世界だ」
「げんしょのせかい。なまえがかっこいー」
「名前が格好いいかどうかは知らないが——行ったことのない場所だ」
「いったことないところ。いちばん、すき」
ルーナが影の中から声を出した。
「わたしも行く。——原初の世界は……気になる」
テンがブーツの上でぽわっと光った。一回。行く、の意思表示。
トワ。タマキ。セレス。ルーナ。テン。
五人——いや、二人と精霊二体と虫一匹。
「少数精鋭ですね」タマキが笑った。
「精鋭かどうかは怪しいが——少数なのは確かだ」
「精鋭ですよ。——BCOで一番強い旅人と、一番頼れる薬師ですから」
「自分で言うか」
「自分で言わないと誰も言ってくれないので」
「俺が言うだろ」
「ほんとに、言ってますか? 普段」
「……」
「あっ、目をそらしましたね」
「次からは、言うようにする」
「今から、にしてください」
「今から……」
「ふふっ……素直ですね。……さあ、行きましょうか」
◇
深淵に入った。
沈殿層を二十分で通過。支援隊が構築した安全地帯が完璧に機能している。道標が全て起動され、通路が照らされている。もはや一般プレイヤーでも、深度50まで安全に歩ける。
深度3のパン屋は——いなかった。
アルヴァが解放された時に消えた、あのNPC。
看板だけが残っている「パン屋」。扉は閉まっている。
セレスが看板を見上げた。
「いなくなっちゃった」
「帰ったんだ。——本物の場所に」
「ほんもののばしょ、エリーのおみせ?」
「たぶんな」
「じゃあ、かえったらエリーのおみせにいく。パンかう」
「ああ、帰ったらな」
沈降門を越えた。混濁層。星空が広がる。もう怖くない。何度も歩いた道だ。
逆さまの塔。忘却の海。逆さまの森——子供たちがいた。ぽよぽよ跳ねている。セレスがパンを投げた。
「ごはんだよ」
ぽよん。ぽよん。ぽよん。
「かわいい……」
タマキがかがんでて忘却体の子供たちを見ていた。
「この子たち、ずっとここにいるんですか」
「深淵の住人だ。ここが家みたいなものなんだろう」
「寂しく、ないですかね」
「寂しいかもしれない。——だが、セレスが来るとパンがもらえるから、それなりに満足してるんじゃないか」
「パンで満足。——セレスちゃんと一緒ですね」
「おやつは、せかいのちゅーしん。しんえんでも、げんしょのせかいでも」
「定理がグローバル展開されてる……」
砂漠を越え、心門を通過し、記憶の雨を歩き、深度200を通過。原初層への扉。
扉を越えた。原初層。何もない空間。セレスの月光だけが世界を照らす。
「ここまでは前に来た。——この先だ」
前回——レイドで龍体アルヴァがいた場所を通り過ぎた。
龍はもういない。何もない空間だけがある。
だが——足の裏が感じている。前方に何かがある。空気が変わっている。温度が上がっている。わずかに。
「タマキ。温度を感じるか」
「え——あ、はい。少し、暖かくなってきました。原初層に入ってから初めて」
「よし、前に進むぞ」
歩いた。
百メートル、二百メートル、五百メートル……。
暖かさが増していく。そして——光が見え始めた。
セレスの月光ではない。前方から。地平線の向こうから。——朝日のような光。
「トワ。ひかりが——」
「ああ。——何かがある。光源がある」
走った。光に向かって。
そして——
◇
目が眩んだ。
暗闇から一歩踏み出した瞬間、世界が反転した。
暗い、暗い、暗い、暗い——からの、明るい。
まぶしい。
草原が、広がっていた。
銀色の草原。
どこまでも見渡す限り……地平線が見える。地平線の向こうにも草原がある、終わりがない。
草が光っている。一本一本が銀色の光を放っている。
「……きれい」
タマキが立ち尽くしていた。
トワは空を見上げた。
空があるが——虹色だった。地上の空の青ではない。薄桃色と金色と淡い紫が混ざり合った、名前のない色の空。雲が流れている。雲も光っている。
そして——音がある。
深淵の無音とは正反対。音はあるが、楽器の音じゃない。風の音。草の音。水の音。どこかで水が流れている。全ての音が重なって——音楽になっている。世界そのものが、BGMを奏でているような……そんな幻想的で、綺麗な世界。
「音が——」
「ありますね。深淵にはなかった音が——全部あります」
「全部ある。——全部あるんだ、ここには」
【原初の世界に到達しました】
【このエリアでは従来のルールの一部が変更されています】
【プレイヤーのレベルによるステータス補正が無効化されます】
【属性相性が無効化されます】
【見聞録の自動スキャンが無効化されます。手動スキャンは使用可能です】
【浸蝕度システムは原初の世界では適用されません】
「レベル補正が無効——!?」
タマキが画面を二度見した。
「属性相性も無効。——ここではLv99もLv1も同じだ」
「それって——」
「俺に有利ってことだ」
「トワさん——笑ってますよ」
「笑ってない」
「笑ってます。口元が」
「まあ……少し、笑ってるかもしれない」
レベル補正無効。属性相性無効。見聞録の自動スキャン無効。
高レベルプレイヤーにとっては弱体化。だがトワにとっては——元々Lv1だ。レベル補正などかかっていない。属性相性は万象の構えで全武器を使えるから関係ない。見聞録は手動スキャンが使える。
唯一の変化は——浸蝕度がない。時間制限がない。好きなだけ歩ける。
「浸蝕度がない。——好きなだけいられる」
「深淵の時は、いつも浸蝕度に追われてましたもんね。——これは嬉しい変更です」
「ああ……ゆっくり歩ける」
草原に足を踏み出した。
星巡りの靴が銀色の草を踏む。光の足跡が——草原に残った。
だが、深淵の時と違う。足跡が消えない……原初の世界では、足跡が永続的に残る。
「足跡が消えない」
「永続——」
「ここでは、足跡が世界の一部になるのかもしれない。俺が歩いた場所が——道になるように」
草原を歩いた。
足元の銀色の草は、踏んでも折れない。足を離すと元に戻る。柔らかく、温かい。
何かが飛んでいた。蝶のような——光の粒。五センチほどの大きさで、透明な翅、翅が虹色に光っている。トワの周囲を、くるくると飛んでいる。
「虫——? いや、蝶——?」
見聞録で手動でスキャンした。
【名前:なし】
【レベル:なし】
【HP:なし】
【属性:なし】
【行動パターン:なし】
【備考:この存在にはまだ名前がありません】
「名前がない——?」
「すごいです、全部『なし』ですね。——レベルも、HPも、属性も」
「名前がついていないからだ。名前がつく前のものには、ステータスが定まらないのだろう」
蝶がトワの指に止まった。軽い。ほとんど重さがない。翅がぱたぱた動いている。光の粒が翅から散っている。
「かわいい」セレスが蝶を見つめた。「なまえ、ないの?」
「ない、みたいだな」
「かわいそう。——なまえ、つけてあげたい」
「つけられるかもしれないが、まずは観察だ。名前は、よく知ってからつける」
蝶が指から離れて飛んでいった。草原の向こうへ。
「トワさん。あっちに何か見えます」タマキが草原の先を指差した。
目を凝らした。銀色の草原の向こうに——光が集まっている場所がある。水面の反射のような光。
「水だ。——湖がある」
「湖——行きましょう!」
「落ち着け、急ぐ必要はない。……ここには浸蝕度がないからな」
「あ……そうでした。つい、慌てちゃいました」
「深淵の癖だな」
「深淵の癖です。——でも嬉しいですよね、ゆっくり歩けるの」
「ああ。——ゆっくり行こう」
草原を歩いた。急がずに、銀色の草を踏みながら。
光の蝶が時々飛んでくる。草の音が鳴っている。風が吹いている、温かい風。
深淵の底を抜けた先に——こんな場所があるとは思わなかった。
暗闇の果てに、光がある。
「トワ」セレスが肩の上で角を光らせた。
「何だ?」
「ここ——いいところ」
「ああ……俺もそう思う」
「おやつ、たべていい?」
「……まだ着いてもいないのにか?」
「おやつは、ついてなくても、たべていー」
「じゃあ、俺に確認する意味ないんじゃないか?」
「トワに、いいって、いってほしー」
「……いいぞ」
「えへへ……」
「トワさん、わたしも……わたしも!」
「タマキは……まあ、いいぞ」
「えへへ……」
「わたしも……」
「ルーナもいいぞ」
「やった……えへっ……」
タマキとセレスとルーナが笑った。
ここが『原初の世界』、第一歩だ。
◇
三十分歩いて——湖に着いた。
鏡の湖。
名前はまだないが、そう呼びたくなる湖だった。水面が完全に静止している。波がない。風が吹いても水面が揺れない。鏡のように——空を映している。
だが映っているのは——水面の上の空だけではなかった。
湖底にも空が映っている。水が完全に透明で、底まで見える。底に映っているのは湖底の石ではなく——空。水面に空、湖底にも空。水の中が空。
「忘却の海と似てる——」タマキが水面を覗き込んだ。「でも、こっちは暗くない。明るい……水が光ってます」
「忘却の海の原型かもしれない。ここが元の姿で、深淵に沈んで暗くなったのが……あの海だ」
「元の姿……きれいですね」
水面に手を伸ばした。触れた。
——冷たくない。温かくもない。温度がない。属性がない、ただの水。
でも、透明度がすごい。手を入れると水中の空気の泡が虹色に光る。手を引くと水滴が光の粒になって消える。
「この水——薬の素材になりそうか?」
「薬師の目で見ると……成分が読めません。でも、直感で言うと……これは凄い水です。何にでもなれる水。属性がない分、どんな薬にも合わせられます」
「どんな、薬にも?」
「万能溶媒です。——調合の常識が変わるかもしれない。ちょっと汲んでいいですか」
「ああ、試してみてくれ」
タマキが瓶を取り出して湖の水を汲み始めた。
その間にトワは湖の周囲を歩いた。見聞録の手動スキャンで湖底を調べる。
湖底に——足跡がある。
二人分の足跡。
一つは杖の跡が隣に並んでいる。もう一つは素足。
「タマキ。——湖底に、足跡がある」
「足跡?」
「二人分。杖を持った者と、素足の者」
「壁画の——二人の旅人?」
「たぶん、そうだな」
原初の世界に——二人の旅人が歩いた痕跡がある。千年前のアルヴァではない。
もっと古い……世界が分かれる前の旅人。
「追いかけますか?」
「追いかけたいが……今日はここまでだ。初日に深入りはしたくない」
「深淵の教訓ですね」
「ああ。——帰って、準備して、明日また来る」
タマキが汲んだ水の瓶を鞄に詰め込んだ。ガシャガシャ音がする。
「トワさん。この世界——すごいですね」
「何がだ?」
「浸蝕度がない、時間制限がない、レベル補正がない。——ゆっくり歩いて、好きなだけ探索できる。深淵とは、全然違う……」
「ああ——深淵の先に、こんな場所があるとはな」
「暗闘の果てに光がある。——いい話ですね」
「いい話かどうかはわからないが……悪くはないな」
「悪くない、って。トワさんの最上級の褒め言葉ですよね、それ」
「最上級ではないぞ」
「最上級です。わたし、知ってます」
帰り道。
原初層を抜けて、深淵に戻る。光の世界から暗闇に戻る。
沈殿層を走って門を出た。
【「原初の世界」が星渡りの転送先に登録されました】
【次回以降、始まりの町から直接移動できます】
「次からは深淵を通らなくていいそうだ。システムの転送で、直接行けると」
「それは、助かります。毎回深淵を抜けるのは、さすがにきついですから」
町に到着すると、タマキが一息ついた。
「おかえりなさい、始まりの町……深淵から帰ると、毎回ここが温かく感じますよね」
「だが今日は、原初の世界の方が温かかったな」
「ですね。深淵を越えた先に、一番温かい場所がありますね」
トワとタマキはグランの扉を見た。
また明日、原初の世界に行こう。