軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

まだ歩く

レイドから一週間後。

深淵は——閉じなかった。

アルヴァを救出し、龍体が消えたことで、深淵から漏れ出す闇は大幅に弱まった。聖都の地下に開いていた穴からの瘴気が消え、各地の闇の浸蝕が止まった。

だが、深淵そのものは残っている。沈殿層も、混濁層も、原初層も。

世界の柱も、忘却の海も、そのままだ。

深淵は世界の一部だ。世界が分かれた時に生まれた記憶の層。消すことはできない、消す必要もない。

プレイヤーたちは——深淵に通い始めていた。

探索エリアとして。忘却体と交流し、記憶の断片を集め、深淵の素材で装備を作る。逆さまの森で花を摘み、忘却の海で星空を眺め、記憶の雨の中を歩く。

深淵は怖い場所から、不思議な場所に変わりつつあった。

始まりの町。裏路地。グランの扉の前。

アルヴァがいた。

グランの扉の前の石畳に座っている。杖を膝に乗せて、壁にもたれている。目を閉じている。——寝ているのかと思ったが、トワが近づくと目を開けた。

「トワか」

「ここで、何をしているんだ?」

「座っている。——千年ぶりに、何もせずに座るということをしているのさ」

「まあ……何となく、気持ちはわかるな」

「ふふっ……お前もか。——旅人は歩いていないと落ち着かない。だが時々、座ることも覚えなければならんのでな」

アルヴァの隣に座った。石畳が冷たい。背中の壁がざらざらしている。

「ひとつ……聞きたいことがある」

「ああ、何でも聞いてくれ」

「【龍】のことだ。お前は【龍】になったが……他の【龍】もそうなのか? 元は旅人だったはずだが」

アルヴァは長く考えた末に、首を振った。

「わからない——千年前、【龍】と話した時、【龍】はわたしに名前を教えてくれなかった。ただ——『帰れ』と言った。『ここに来てはいけない。わたしたちのようになる』と」

「わたしたちのように——」

「【龍】は——深淵に触れた者の成れの果てだ。かつては別の何かだったのかもしれない。旅人だったのかもしれない。獣だったのかもしれない。——わからない。千年の間に忘れてしまったのだろう。自分が何であったかを……」

「忘却体と、同じなのか」

「同じだ。深淵に長くいると、自分を忘れる。忘れた自分が形を成すと、忘却体になる。忘却体がさらに力を蓄えると——【龍】になる」

「【龍】がかつて、『世界の門番』として、俺たちの前に現れたのは——」

「自分たちの二の舞を作らないためだ。深淵に来る者を追い返すために、地上に出た。戦いたくて戦っていたのではない。——帰れ、と言っていた」

レイドボスとして戦ってきた【龍】たち。プレイヤーが称号と報酬のために倒してきた巨大な敵。

あれは——敵ではなく門番だった、守護者だった。

「……俺たちは、知らずに門番を壊していたのか」

「知らなかったのは……仕方がなかろう。【龍】は言葉を失っている。『帰れ』しか言えない。言葉の代わりに爪と牙で語るしかない。ああ——そうなのだ。伝わらないのは、当然のことだ」

「でも、お前は俺たちに伝えられた。【龍】のまま、言葉を使って」

「旅人だからな。私には——見聞録があった。龍の言葉を翻訳できた。お前もまたそうだろう。見聞録があるから……忘却体の言葉が、わかった」

「ああ……」

「見聞録は——便利な道具だ。だがしかし、危険でもある。全てがわかるということは——全てを知りたくなるということだ。わたしはそれで……失敗した。大きな、大きな……失敗、だった」

「知りたくなりすぎた……か」

「知りすぎた。——世界の全てを知ろうとした。深淵が応えて、全ての知識を一度に流し込んできた。そして……溺れた。自分を見失って、【龍】になった」

「お前は——その時のことを、後悔しているか」

アルヴァが空を見上げた。

「後悔はしていない。——深淵に行ったことを後悔すれば、旅人であることを後悔することになる。旅人は歩く。歩けば知る。知れば変わる。——それが旅だ」

「だが、龍になった」

「龍になったが、帰ってこられた。……お前たちが、来てくれたから」

「……ああ、そうだな」

「トワ——一つだけ忠告がある」

「何だ?」

「深淵にはまだ……『先』がある。原初層の奥……お前はまだ、そこには行っていない」

「まだ、行っていないな」

「行くつもりだろう」

「……ああ」

「行くなとは言わない。旅人に行くなと言っても無駄だ。——だが、どうか一人で行くな。わたしのようになってしまうからな」

「一人では行かない。いや——最初から、俺は一人じゃなかった」

「そうだ……お前にはセレスがいる。ルーナも、仲間もいる。——わたしにはいなかった。カレンを連れていけばよかったが……一人で行きたかった。全部、自分で見たかった。——旅人の悪い癖だ」

「十分に、わかっている」

「わかっているのなら——大丈夫だな」

アルヴァが杖を地面について立ち上がった。

「さて——エリーの店に行く。朝のパンが、そろそろ焼き上がる頃だ」

「あれから、毎朝行ってるのか?」

「毎朝、行っている。——千年分の朝を取り戻さなければならないのでな」

「ふっ……千年分は、ちょっと多いな」

「多いともさ。——だがな、急がないのだ。なぜなら、パンは毎日焼けるのだから」

アルヴァが裏路地を歩いていった。旅人の服。杖。見聞録。

噴水広場。

ベンチに座った。セレスが肩の上にいる。ルーナが影の中にいる。

特に目的はなかった。

あえて、何もしない日だ。ゲームの中でも、何もしない日を作れるようになった。

「トワ」

「何だ」

「つぎは、どこいく?」

「……決めてない」

「きめてないの? めずらしい」

「たまにはいいだろ」

「じゃあ、セレスがきめていい?」

「なに……お前が?」

「うん。——おやつがおいしいところ」

「目的地が、おやつなのか」

「めいびー、おやつはだいじ」

「わかったわかった、お前が決めろ」

「えーと、えーと——わかんない」

「おいおい、決めるんじゃなかったのかよ」

「わかんないけど——あるく。あるいてたら、みつかる」

「……そうだな。歩いてたら、見つかる」

「トワのてーり」

「俺の定理じゃない」

「セレスのてーり。でも、トワもおなじこといってた。『いってみないとわからない。それがたび』って」

「言った……ような、言ってないような……」

「いった。いちばんさいしょのひに」

一番最初の日。セレスと出会った日。肩に乗ってきた日。あの時——そんなことを言った気がする。

「覚えてるのか」

「おぼえてる、ぜんぶ。——トワがいったこと、ぜんぶ、おぼえてる」

「全部は多いな」

「おおい。——でも、だいじ。ぜんぶ、だいじ」

ルーナが影の中から声を出した。

「わたしも覚えてるよ。——トワが闇からわたしを出してくれた日のことを、全部」

「お前もなのか」

「うん——暗かった影の中が、急に明るくなった。トワの声が聞こえて——『出てこい』って」

「そんなこと、言ったか」

「言った。ぶっきらぼうに」

「……すまん」

「謝らなくていいよ。——あの声で、わたしは助かったんだから」

セレスとルーナに感化されて、トワは立ち上がった。

「じゃあ……歩くか」

「セレスも、あるく」

「わたしは、どこに?」

「わかんない。あるいてたら、みつかる」

「そうなの?」

「ああ……きっと、そうだ」

トワはまた歩き始めた。

グランの扉の前を通りかかった。

扉が開いていた、グランが椅子に座っている。

「グラン」

「ん。——今度は、どこに行くつもりだ?」

「わからない」

「わからない、か。いや……いいな、わからない方がいい。行き先が決まっている旅はつまらない」

「お前も、そう思うのか?」

「わしは千年、ここに座っていた。——行き先がないことの贅沢さは知っているつもりよ」

「千年は……長いな」

「長いが、退屈ではなかったぞ? お前が来ると、思っていたからな」

「俺が……か?」

「いつの日か、旅人が来ると。深淵に行って帰ってくる旅人が。ははっ……待った甲斐があった」

「……ありがとう、グラン」

「礼はいらん。——よい旅を、トワ」

「ああ。——よい旅を」

始まりの町の門を出た。

草原が広がっている。風が吹いている。空が青い。道が続いている。

数千時間歩いた。深淵の底まで行って帰ってきた。千年前の旅人を助けた。龍を止めた。門番の真実を知った。

だが、まだ——歩いていない道はある。

原初層の奥。世界の柱の文字。龍たちの本当の起源。深淵の問いの答え——「お前は何者だ」に、最奥でもう一度答える日。

全部——まだ先にある。

「トワ」

「何だ?」

「まだ、あるく?」

「まだ歩く」

「どこまで?」

「全部、歩くまで」

「ぜんぶって——おわり、あるの?」

「ないかもしれない」

「ないかもしれないのに、あるくの?」

「ああ。——終わりがないなら、ずっと歩ける。それは、悪いことじゃない」

「そっか。——じゃあ、セレスもずっといっしょにあるく」

「ああ」

「ルーナも、だよ」

「うん、わたしもずっと——影の中から」

三人で歩き始めた。草原の道を、光の足跡を残しながら。

遠くに山が見えている。空に雲が流れている。

人がいる世界。パンが焼ける世界。

深淵の底から——帰ってきた世界を、また歩く。

まだ歩く。

フォーラムの片隅に、一つの投稿があった。

タイトル:「深淵レイドを終えて」

投稿者:匿名

——「BCOを三年やってきた。始まりの町で剣を振って、ギルドに入って、レイドに参加して、強い装備を手に入れて、ランキングを競って。それがゲームの全てだと思っていたんだ」

——「でもトワを見てると、そうじゃないんだと気づいた。だって、あいつはLv1なんだ。ランキングには載らない。強い装備も持ってない。旅人っていう、誰も選ばない職業で、ただ歩いてる」

——「歩いて、見て、知って、記録して、それだけのことを数千時間やって、深淵の底まで行って、千年前の旅人を助けて帰ってきた」

——「俺たちがレイドボスだと思って倒してきた龍が、実は門番だったって話を聞いた時、ちょっと泣いた。龍は俺たちを殺したかったんじゃなくて、帰れって言ってたんだよ」

——「忘却体も同じだ。敵じゃなかったし、忘れた自分を探してるだけだった。トワは戦わずに記憶を返して、仲間にした。深淵の子供たちと遊んで、パンを分けて、最後にはレイドで一緒に戦った」

——「BCOって、そういうゲームだったんだ。倒すゲームじゃなくて、歩くゲームで、知るゲームで、返すゲーム」

——「トワの旅はまだ続くらしい。原初層の奥があるって、そして世界の柱の謎があるんだ。まだ歩いてない道もあるとか何とか」

——「だから、俺も歩こうと思う。Lv1には戻れないけど、歩くことはできる。旅人じゃなくても、歩けるしな」

——「BCOの旅は終わらないんだよ」

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