軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

「日曜日」

VRヘルメットを外した。

手を見た。

震えていなかった。

前回——柱の上から帰った時は、三時間眠れなかった。手が震えて、目を閉じると深淵の残像が消えなかった。

今日は、何もなかった。疲れてはいるが、精神的には疲れていない。長い旅の後に帰ってきた時のような、安心感だけがある。

時計を見た……午後八時。窓の外が暗い、星が見えている。

スマホを手に取った。宮瀬に送った。

『帰ってきた』

三秒でスマホが鳴った。電話だ。

「おかえり」

「アルヴァを助けた」

「知ってる。フォーラムでも話題だったよ。アルヴァさんを初めて見たって人が、たくさんいた」

「もしかして、泣いてるのか」

「うん……だって、エリーさんが。あそこで待ってた人が、ようやく報われたから」

「でも、あれはエリーであってエリーじゃないぞ」

「知ってる。でも、無理だったの」

「……まあでも、そうだな。俺もそう思う」

「少し、ね。——ねえ久坂くん、明日は日曜日だよ」

「そうだったな」

「今日も、何もしないデート」

「ああ。——クリームパンだったな」

「そ、クリームパン。約束だよ」

電話を切った。

布団に入った。目を閉じた。

深淵の残像は——なかった。代わりに浮かんだのは、アルヴァの笑った顔だった。千年ぶりに帰ってきた旅人の顔。壊れた見聞録を握ったまま、カレンの名前を呼んだ時の顔。

眠れた。すぐに。

日曜日。

いつもの駅。いつもの改札。宮瀬が立っていた。

トワの顔を見て、何も言わなかった。

いつもなら「寝癖」とか「目の下」とか言うのに。今日は、ただ手を繋いだ。

歩いた。いつもの道、商店街を抜けて、川沿いの遊歩道に出て、橋を渡って、公園に入った。

パン屋があった。いつもの店。ガラスのショーケースにクリームパンが並んでいる。

「二つ」

「二つですね。——いつもありがとうございます」

ベンチに座った。クリームパンを食べた。川が流れている。鳥が鳴いている。子供が走り回っている。

音がある。全部ある。

「久坂くん」

「何だ」

「手、震えてないね」

「ああ……」

「前は震えてた。深淵から帰ってきた次の日」

「今日は震えていない」

「終わったから?」

「……終わったから、かもしれない。帰ってきたから、かもしれない」

「どっちでもいいよ。——震えてないなら」

クリームパンを食べ終わった。手についたクリームをウェットティッシュで拭いた。宮瀬が差し出してくれた。いつものように。

「久坂くん」

「何だ」

「次は何するの、ゲームで?」

「まだ決めてない」

「珍しい。いつも何か、目標があるのに」

「目標がない時もある。——今はない」

「じゃあ——しばらく何もしない?」

「何もしないか。——悪くないな」

「でしょ。——何もしないの、上手になったね。久坂くん」

「宮瀬に教わったからな」

「わたし、何もしないの得意だから」

「得意というのか、それは?」

「得意だよ。えへへ……何もしない才能があるの」

「それは、才能と言うのか」

「言うよ。大事な、才能だよ」

ベンチに座ったまま、しばらく何もしなかった。川が流れている。雲が流れている。

何もしない日曜日。深淵から帰ってきた次の日曜日だった。

月曜日。ログインした。

始まりの町は、少し変わっていた。

変わったというか——人が多い。深淵レイドの後、プレイヤーの活動が活発になっている。深淵で手に入れた素材で新しい装備を作る者、忘却体と交流する者、記憶の断片を集める者。

深淵が「コンテンツ」として定着し始めていた。もう怖いだけの場所ではない。探索すべき場所になっている。

聖都ルクスに転送した。

大聖堂の前に——二人の旅人が立っていた。

カレンと、アルヴァ。

並んでいた。旅人の服を着た二人が、大聖堂の前の石段に座って——パンを齧っていた。

「おはよう……トワ」

カレンが顔を上げた。目の腫れが残っている、昨日泣きすぎたのだろう。

「おはようカレン。そして――アルヴァ。調子は、どうだ?」

アルヴァがパンを齧りながら答えた。

「悪くない。——千年ぶりに地上にいる。光が眩しい。音がうるさい。風が暖かい。パンが美味い。——何もかもが、悪くない」

「そうか」

「お前のおかげだ、旅人」

「トワだ」

「トワ。——よい名前だな」

アルヴァの見聞録は、まだ完全には回復していなかった。データの大半が失われている。千年間龍の中にいた間に、見聞録の記録が深淵に呑まれてしまった。

しかし、アルヴァはそのことを気にしていなかった。

「記録は消えたが、記憶は残っている。——歩いた道は、足の裏が覚えている」

「同じことを、俺も思う」

「旅人は、皆そうだ。——足の裏で世界を覚えるのさ」

エリーがパンを届けに来た。焼きたてで、湯気が立っている。

「アルヴァさん、今日はくるみパンが焼けましたよ」

アルヴァがエリーを見た。じっと。

「……君は」

「はい?」

「いや。——美味そうなパンだ。ひとつもらおう」

アルヴァはエリーに何かを見たのかもしれない。

深淵の底のパン屋。あのNPC、エリーに似ていた人。

でも、何も言わなかった。パンを受け取って、一口齧った。

「美味い」

「ありがとうございます」

「カレン。——お前が見つけた店か」

「はい。師匠の好みだと思いました」

「当たりだ。——よく知ってるな、弟子は」

カレンがまた泣きそうな顔になった。だが堪えて、パンを齧って誤魔化した。

ナハルの武器屋。

「ガルド。深淵の素材、全部持ってきた」

カウンターに——深淵で拾った全ての素材を並べた。深淵の塵、深淵の牙、深淵の髄、捕食者の喉笛、龍の鱗の断片。

ガルドが——一つ一つ手に取って、重さを確かめた。

「……いい素材だ。これだけあれば——しばらく退屈しない」

「何が作れる?」

「わからん。叩いてみないと。——だが面白い素材ばかりだ。属性がない。純粋な物理の力だけで応える。鍛冶の原点だ」

「原点、か」

「お前も原点に戻ったんじゃないか。——深淵で」

「……かもしれないな」

「旅人と鍛冶師は似ている。歩いて、叩いて、一歩ずつ前に進むんだ」

ガルドが深淵の髄を手に取って、炉の前に置いた。

「次に来る時には——何か、いいものを作っておく」

「頼む」

「行ってこい。——まだ歩く道があるんだろう」

「ああ……そうだな、まだまだある」

別エリアで、タマキが調合小屋にいた。マーサと一緒に新しい薬を作っている。

「トワさん。お疲れ様でした」

「お前もな。——レイドでの回復、助かった」

「薬師の仕事ですから。——あと、深淵の花を覚えてますか? 逆さまの森で摘んだ青い花」

「覚えてるぞ」

「あれ、調べたら面白い性質があって。深淵の素材なのに——地上の薬と組み合わせると、浸蝕度の回復効果がある薬が作れるんです」

「浸蝕度の回復薬?」

「はい。『深淵の露』は蓄積を『抑制』するだけでしたけど、こっちは蓄積した分を『回復』できます。——まだ試作段階ですけど、もしかしたら……アルヴァさんの薬瓶と同じ物を作れるかもしれません」

「それはすごいな。できたら、教えてくれ」

「もちろんです。——次の深淵探索に間に合わせます」

「次があるのか?」

「ありますよ。——深淵はまだ全部を見ていないでしょう? 原初層の奥に何があるか、まだわかっていない。世界の柱の文字も読めていない。——探索は、続きます」

「……そうだな」

「薬師も続きます。——トワさんが歩く限り、わたしは薬を作ります」

酒場にゼクスがいた。カウンターで一人で飲んでいる。

「お疲れ」

「ああ」

隣に座った。何も頼まなかった。ゼクスも何も言わなかった。

しばらく無言だった。

「ゼクス」

「何だ」

「龍の口の中に影潜りで入った時——怖かったか」

「怖くなかった。——口の中は影だらけだ。暗殺者にとっては居心地がいい」

「嘘をつくな」

「……少し怖かった」

「だろうな」

「お前は? 龍の核に、飛び込んだ時」

「怖くなかった」

「嘘をつくな」

「……少し怖かった」

「だろうな」

二人とも同時に笑った。

「次はどうする」ゼクスが聞いた。

「決めてない」

「珍しいな」

「たまには、何もしない日があってもいい」

「お前がそれを言うとはな……」

「宮瀬に教わった」

「現実の方か。——いい師匠を持ったな」

「師匠ではない」

「じゃあ何だ」

「……わからない」

「わからないのか」

「わからない」

ゼクスが鼻で笑った。

「数千時間歩いて、世界の底まで行って、龍を助けて——彼女との関係はわからないのか」

「うるさいな」

「まるで深淵犬みたいだな。恋愛にも鼻が利かないところが」

「深淵犬と呼ぶな」

「でも、セレスがそう言ってたぞ」

「あいつが言ったのは——もういい」

ゼクスがグラスを傾けた。カウンターに置いて、立ち上がった。

「俺はしばらく影潜りの修行をする。深淵で——もっと深い影に潜れるようになりたい」

「次の探索で使うのか」

「使うかもしれない。——お前が歩く限り、俺は影にいる」

ゼクスが酒場を出ていった。

トワは一人でカウンターに座っていた。

セレスがトワの膝の上で丸くなっていた。寝ている。レイドの疲れがまだ残っているのだろう。角の光が弱い。ぽわ、ぽわ、と光っている。寝息のリズムみたいに。

「お疲れ、セレス」

返事はなかった。寝ている。

代わりにルーナが影の中からそっと声を出した。

「セレス、疲れてる。——でも、幸せそうに寝てる」

「ああ……」

「トワも、疲れてるでしょ」

「少し」

「少し、ね。嘘つき」

「……かなり疲れた」

「でしょ。今日はもう寝よう、明日も歩くんでしょ」

「明日は——」

「歩くんでしょ」

「……ああ、歩く」

「じゃあ寝よう。——旅人は、寝ないと歩けないよ」

「お前に言われるとは思わなかったな」

「わたしはずっと影の中にいたから。休むことの大切さは知ってるつもり」

「……そうか」

「おやすみ、トワ」

「おやすみ、ルーナ」

ルーナが影の中に沈んでいった。

トワはセレスを膝に乗せたまま——しばらく酒場にいた。

BGMが流れている。他のプレイヤーが笑い声を上げている。NPCが注文を取っている。グラスの音がする。

音がある場所。人がいる場所。

深淵の底とは——正反対の場所。

ここに帰ってこれた。