作品タイトル不明
「日曜日」
VRヘルメットを外した。
手を見た。
震えていなかった。
前回——柱の上から帰った時は、三時間眠れなかった。手が震えて、目を閉じると深淵の残像が消えなかった。
今日は、何もなかった。疲れてはいるが、精神的には疲れていない。長い旅の後に帰ってきた時のような、安心感だけがある。
時計を見た……午後八時。窓の外が暗い、星が見えている。
スマホを手に取った。宮瀬に送った。
『帰ってきた』
三秒でスマホが鳴った。電話だ。
「おかえり」
「アルヴァを助けた」
「知ってる。フォーラムでも話題だったよ。アルヴァさんを初めて見たって人が、たくさんいた」
「もしかして、泣いてるのか」
「うん……だって、エリーさんが。あそこで待ってた人が、ようやく報われたから」
「でも、あれはエリーであってエリーじゃないぞ」
「知ってる。でも、無理だったの」
「……まあでも、そうだな。俺もそう思う」
「少し、ね。——ねえ久坂くん、明日は日曜日だよ」
「そうだったな」
「今日も、何もしないデート」
「ああ。——クリームパンだったな」
「そ、クリームパン。約束だよ」
電話を切った。
布団に入った。目を閉じた。
深淵の残像は——なかった。代わりに浮かんだのは、アルヴァの笑った顔だった。千年ぶりに帰ってきた旅人の顔。壊れた見聞録を握ったまま、カレンの名前を呼んだ時の顔。
眠れた。すぐに。
◇
日曜日。
いつもの駅。いつもの改札。宮瀬が立っていた。
トワの顔を見て、何も言わなかった。
いつもなら「寝癖」とか「目の下」とか言うのに。今日は、ただ手を繋いだ。
歩いた。いつもの道、商店街を抜けて、川沿いの遊歩道に出て、橋を渡って、公園に入った。
パン屋があった。いつもの店。ガラスのショーケースにクリームパンが並んでいる。
「二つ」
「二つですね。——いつもありがとうございます」
ベンチに座った。クリームパンを食べた。川が流れている。鳥が鳴いている。子供が走り回っている。
音がある。全部ある。
「久坂くん」
「何だ」
「手、震えてないね」
「ああ……」
「前は震えてた。深淵から帰ってきた次の日」
「今日は震えていない」
「終わったから?」
「……終わったから、かもしれない。帰ってきたから、かもしれない」
「どっちでもいいよ。——震えてないなら」
クリームパンを食べ終わった。手についたクリームをウェットティッシュで拭いた。宮瀬が差し出してくれた。いつものように。
「久坂くん」
「何だ」
「次は何するの、ゲームで?」
「まだ決めてない」
「珍しい。いつも何か、目標があるのに」
「目標がない時もある。——今はない」
「じゃあ——しばらく何もしない?」
「何もしないか。——悪くないな」
「でしょ。——何もしないの、上手になったね。久坂くん」
「宮瀬に教わったからな」
「わたし、何もしないの得意だから」
「得意というのか、それは?」
「得意だよ。えへへ……何もしない才能があるの」
「それは、才能と言うのか」
「言うよ。大事な、才能だよ」
ベンチに座ったまま、しばらく何もしなかった。川が流れている。雲が流れている。
何もしない日曜日。深淵から帰ってきた次の日曜日だった。
◇
月曜日。ログインした。
始まりの町は、少し変わっていた。
変わったというか——人が多い。深淵レイドの後、プレイヤーの活動が活発になっている。深淵で手に入れた素材で新しい装備を作る者、忘却体と交流する者、記憶の断片を集める者。
深淵が「コンテンツ」として定着し始めていた。もう怖いだけの場所ではない。探索すべき場所になっている。
聖都ルクスに転送した。
大聖堂の前に——二人の旅人が立っていた。
カレンと、アルヴァ。
並んでいた。旅人の服を着た二人が、大聖堂の前の石段に座って——パンを齧っていた。
「おはよう……トワ」
カレンが顔を上げた。目の腫れが残っている、昨日泣きすぎたのだろう。
「おはようカレン。そして――アルヴァ。調子は、どうだ?」
アルヴァがパンを齧りながら答えた。
「悪くない。——千年ぶりに地上にいる。光が眩しい。音がうるさい。風が暖かい。パンが美味い。——何もかもが、悪くない」
「そうか」
「お前のおかげだ、旅人」
「トワだ」
「トワ。——よい名前だな」
アルヴァの見聞録は、まだ完全には回復していなかった。データの大半が失われている。千年間龍の中にいた間に、見聞録の記録が深淵に呑まれてしまった。
しかし、アルヴァはそのことを気にしていなかった。
「記録は消えたが、記憶は残っている。——歩いた道は、足の裏が覚えている」
「同じことを、俺も思う」
「旅人は、皆そうだ。——足の裏で世界を覚えるのさ」
エリーがパンを届けに来た。焼きたてで、湯気が立っている。
「アルヴァさん、今日はくるみパンが焼けましたよ」
アルヴァがエリーを見た。じっと。
「……君は」
「はい?」
「いや。——美味そうなパンだ。ひとつもらおう」
アルヴァはエリーに何かを見たのかもしれない。
深淵の底のパン屋。あのNPC、エリーに似ていた人。
でも、何も言わなかった。パンを受け取って、一口齧った。
「美味い」
「ありがとうございます」
「カレン。——お前が見つけた店か」
「はい。師匠の好みだと思いました」
「当たりだ。——よく知ってるな、弟子は」
カレンがまた泣きそうな顔になった。だが堪えて、パンを齧って誤魔化した。
◇
ナハルの武器屋。
「ガルド。深淵の素材、全部持ってきた」
カウンターに——深淵で拾った全ての素材を並べた。深淵の塵、深淵の牙、深淵の髄、捕食者の喉笛、龍の鱗の断片。
ガルドが——一つ一つ手に取って、重さを確かめた。
「……いい素材だ。これだけあれば——しばらく退屈しない」
「何が作れる?」
「わからん。叩いてみないと。——だが面白い素材ばかりだ。属性がない。純粋な物理の力だけで応える。鍛冶の原点だ」
「原点、か」
「お前も原点に戻ったんじゃないか。——深淵で」
「……かもしれないな」
「旅人と鍛冶師は似ている。歩いて、叩いて、一歩ずつ前に進むんだ」
ガルドが深淵の髄を手に取って、炉の前に置いた。
「次に来る時には——何か、いいものを作っておく」
「頼む」
「行ってこい。——まだ歩く道があるんだろう」
「ああ……そうだな、まだまだある」
◇
別エリアで、タマキが調合小屋にいた。マーサと一緒に新しい薬を作っている。
「トワさん。お疲れ様でした」
「お前もな。——レイドでの回復、助かった」
「薬師の仕事ですから。——あと、深淵の花を覚えてますか? 逆さまの森で摘んだ青い花」
「覚えてるぞ」
「あれ、調べたら面白い性質があって。深淵の素材なのに——地上の薬と組み合わせると、浸蝕度の回復効果がある薬が作れるんです」
「浸蝕度の回復薬?」
「はい。『深淵の露』は蓄積を『抑制』するだけでしたけど、こっちは蓄積した分を『回復』できます。——まだ試作段階ですけど、もしかしたら……アルヴァさんの薬瓶と同じ物を作れるかもしれません」
「それはすごいな。できたら、教えてくれ」
「もちろんです。——次の深淵探索に間に合わせます」
「次があるのか?」
「ありますよ。——深淵はまだ全部を見ていないでしょう? 原初層の奥に何があるか、まだわかっていない。世界の柱の文字も読めていない。——探索は、続きます」
「……そうだな」
「薬師も続きます。——トワさんが歩く限り、わたしは薬を作ります」
◇
酒場にゼクスがいた。カウンターで一人で飲んでいる。
「お疲れ」
「ああ」
隣に座った。何も頼まなかった。ゼクスも何も言わなかった。
しばらく無言だった。
「ゼクス」
「何だ」
「龍の口の中に影潜りで入った時——怖かったか」
「怖くなかった。——口の中は影だらけだ。暗殺者にとっては居心地がいい」
「嘘をつくな」
「……少し怖かった」
「だろうな」
「お前は? 龍の核に、飛び込んだ時」
「怖くなかった」
「嘘をつくな」
「……少し怖かった」
「だろうな」
二人とも同時に笑った。
「次はどうする」ゼクスが聞いた。
「決めてない」
「珍しいな」
「たまには、何もしない日があってもいい」
「お前がそれを言うとはな……」
「宮瀬に教わった」
「現実の方か。——いい師匠を持ったな」
「師匠ではない」
「じゃあ何だ」
「……わからない」
「わからないのか」
「わからない」
ゼクスが鼻で笑った。
「数千時間歩いて、世界の底まで行って、龍を助けて——彼女との関係はわからないのか」
「うるさいな」
「まるで深淵犬みたいだな。恋愛にも鼻が利かないところが」
「深淵犬と呼ぶな」
「でも、セレスがそう言ってたぞ」
「あいつが言ったのは——もういい」
ゼクスがグラスを傾けた。カウンターに置いて、立ち上がった。
「俺はしばらく影潜りの修行をする。深淵で——もっと深い影に潜れるようになりたい」
「次の探索で使うのか」
「使うかもしれない。——お前が歩く限り、俺は影にいる」
ゼクスが酒場を出ていった。
トワは一人でカウンターに座っていた。
セレスがトワの膝の上で丸くなっていた。寝ている。レイドの疲れがまだ残っているのだろう。角の光が弱い。ぽわ、ぽわ、と光っている。寝息のリズムみたいに。
「お疲れ、セレス」
返事はなかった。寝ている。
代わりにルーナが影の中からそっと声を出した。
「セレス、疲れてる。——でも、幸せそうに寝てる」
「ああ……」
「トワも、疲れてるでしょ」
「少し」
「少し、ね。嘘つき」
「……かなり疲れた」
「でしょ。今日はもう寝よう、明日も歩くんでしょ」
「明日は——」
「歩くんでしょ」
「……ああ、歩く」
「じゃあ寝よう。——旅人は、寝ないと歩けないよ」
「お前に言われるとは思わなかったな」
「わたしはずっと影の中にいたから。休むことの大切さは知ってるつもり」
「……そうか」
「おやすみ、トワ」
「おやすみ、ルーナ」
ルーナが影の中に沈んでいった。
トワはセレスを膝に乗せたまま——しばらく酒場にいた。
BGMが流れている。他のプレイヤーが笑い声を上げている。NPCが注文を取っている。グラスの音がする。
音がある場所。人がいる場所。
深淵の底とは——正反対の場所。
ここに帰ってこれた。