作品タイトル不明
深淵レイドボス【深淵の龍体Alvah】
——フェーズ1:鱗剥がし——
トワを含めた全員が龍に向かって走っていった。
先頭はレクトだった。大剣を構えて、龍の左前脚に突っ込む。
〈白霧の進軍〉の前衛二十人が続く。
「〈白霧の進軍〉、脚に張りつけ! 奴の弱点――鱗の薄い場所は、トワさんの見聞録で光ってるぞ! 赤いところを狙うんだ!」
セレスの月光の目・拡張モードが全プレイヤーの視界に弱点を映し出している。龍の脚——関節の内側、鱗の重なりの隙間、腱の上。赤い光点が点滅する。
レクトの大剣が関節の隙間に叩き込まれた。
【ダメージ:38,200】
「トワさん、鱗の隙間ならダメージが通ります!」
「ああ……だが、そう簡単にはいかないだろう。ここからだ」
〈白霧の進軍〉が左前脚に群がった。二十人が同時に攻撃する。鱗が一枚——剥がれた。人間の身長ほどある黒い鱗が地面に落ちて——粒子になった。粒子が散乱する。記憶の断片。
【警告:龍の鱗から記憶の断片が散乱しています】
【記憶の断片に触れると浸蝕度が+1%上昇します】
「レイドバトルにも、浸蝕度がある……これは、過去一で難しいレイドバトルになりそうだな」
浸蝕度は100%になった瞬間、深淵から弾き出される。
レイドバトルにおいてもそのルールは変わらない。つまり……浸蝕度の管理も必要になってくる。
浸蝕度が100%になれば、プレイヤーはどんどん脱落し、HPも削れなくなる。
今回のレイドボスは、制限時間以上の難易度がある。
「落ちた龍の鱗に触れるな! 浸蝕度が跳ね上がるぞ!」
記憶の断片が光の粒になって広がっていく。踏めば浸蝕度が上がる。二百人が攻撃しながら避ける必要がある。
しかし——ぽよん。
忘却体の子供たちが飛び出し、光の粒に——飛びついた。
吸収した。記憶の断片を自分の身体に取り込んで、無害化していく。
「忘却体が、回収してる——!?」
「師匠が記憶を返した忘却体たちです! 恩返しに来てくれたんですね!」
忘却体たちが記憶の断片を片付けてくれる。足元を気にせず戦える。
右側面――ヴェノムの本隊五十人が、龍の右後脚を攻撃していた。
「ヴェノム、右後脚の膝裏が薄い! 集中攻撃しろ!」
「見えてる! ——全員、膝裏だ!」
五十人の攻撃が膝裏に集中した。鱗が三枚同時に剥がれた。
【龍体Alvah HP:11,420,000 / 12,000,000】
「トワさん……まだ、5%も削れていません」
「焦るな、鱗を剥がすのが先だ。胸の鱗を剥がさないと、奴の本当の弱点――【核】に届かない」
龍が動いた。
右前脚を持ち上げるが、トワが見聞録でその軌道を読む。
右前脚の振り下ろし――三秒後。
着弾範囲——半径二十メートル。
「右前脚、来るぞ! 着弾範囲から今すぐ離れろ!」
レイドチャットで全員に警告が飛んだ。
プレイヤーが散開する。脚が地面を叩いた。衝撃波。
【広域攻撃――範囲内のプレイヤーに固定ダメージ!】
逃げ遅れた三人が吹き飛ばされた。
「回復だ、タマキ!」
「行きます!」
タマキが走った。アルヴァの薬瓶ではなく通常の回復薬、切り札はまだ温存する。
トワは龍の正面にいた。
【果ての道標】を弓に切り替えた。矢を龍の眉間に向けて放った。
【ダメージ:12,400】
あのHPに比べればほぼノーダメージとも言えるが、目的はダメージではない。
龍の注意をこちらに向けること。
龍の金色の目が——トワを見た。
「そうだ、アルヴァ——俺を見ろ!」
龍がそのあまりに大きな翼を開きかけた。
「ダリオさん——龍の翼を!」
「任せろ!」
ダリオがマリドゥスに号令をかけた。海の獣王が、龍の右翼に体当たりする。原初層の何もない空間を泳ぐ巨大鯨が、龍の翼に絡みつく。
【マリドゥスが龍の右翼を拘束しました! 龍の飛行能力を一時的に制限!】
「翼を押さえた! 飛ばさせるな!」
龍がマリドゥスを振り払おうと身を捩る。
その間に——レクトの前衛部隊が左前脚の鱗をさらに剥がしていく。
トワは龍の正面で、旅人の手記を叩き続けていた。
初心の心得。CTゼロ。手記を叩く。ATKが上がる。もう一度叩く。また上がる。
戦闘中に手記を連打し続ける。移動しながら。旅路の極意で移動距離がATKに加算される。走りながら手記を叩く。二重にATKが積み上がっていく。
【トワのATK:15,200 → 16,800 → 18,400 → 上昇中】
「トワさんのATKが……どんどん上がってます!」
「手記と移動の二重蓄積だ。——時間が経つほど、強くなる」
そうして時間を稼ぐこと、十分。
【龍体HP:8,200,000 / 12,000,000】
「見ろ、三分の一が削れたぞ! トワ、次は!?」
「脚と尾の鱗は、ほぼ剥がれました! 胸はまだ——厚いです!」
「焦るな、胸は後だ。——まずは、龍を弱らせる」
◇
——フェーズ2:深淵の猛撃——
龍が……ゆるりと首を持ち上げた。
高い。月光の範囲を超えて首が伸びていく。暗闇の中に——金色の目が二つ、光っている。
目が、光った。
スキャンの光――龍の……いや、【アルヴァの見聞録】だ。
【警告:深淵の龍体Alvahがプレイヤーをスキャンしています】
【スキャンされたプレイヤーは回避率が30%低下します】
【深淵の龍体Alvahの命中率が急上昇しています】
【深淵の龍体Alvahの見聞録により、プレイヤーに『弱点』が付与されます】
【深淵の龍体Alvahはプレイヤーの『弱点』を攻撃可能です】
【プレイヤーの『弱点』は通常の1.5倍のダメージ補正値が掛かります】
【時間が経つにつれ、プレイヤーの動きが見聞録で解析されます】
「うっそだろ……俺たちも、見聞録で……!?」
「アルヴァは、元々旅人だからな。俺たちが見聞録を使うように、アルヴァもまた使ってくる」
「プレイヤーに『弱点』付与!? ダメージ1.5倍って、ほぼワンパンじゃねえか!?」
「みなさん、注意してください! 動きを見聞録で読まれてます!」
龍の攻撃が精確になった。
スキャンされたプレイヤーの動きを読んで、ピンポイントで当ててくる。回避が間に合わない。
だが、食らえばほぼ即死だ。HPで受けるわけにもいかない。
「トワ、どうするんだ!?」ダリオの声。
「こっちの動きが読まれている。——なら、読ませなくすればいい」
トワが見聞録を起動した。
だが、ただの見聞録ではない。使う能力は――【記憶干渉】。
一戦闘三回制限の、一回目。
「——記憶干渉!」
龍の見聞録に——ノイズを叩き込んだ。
エリーのパン、カレンとの旅路、深淵の発見、自ら建てた休息所、そして別れ……。
【記憶干渉発動! 龍体Alvahの見聞録が10秒間無効化されます!】
龍の目が点滅している。金色の光が乱れ、スキャンが途切れた。
「十秒だ! 今のうちに、陣形を立て直せ——!」
十秒。プレイヤーが散開して立て直す。
前衛が下がり、後衛が入れ替わる。タマキが瀕死の負傷者を回復する。
しかし、十秒が終わった瞬間——龍が咆哮した。
今度は口を大きく開けて——黒いモヤを吐いた。
【深淵の吐息:前方120度に闇属性ダメージ+浸蝕度+8%!】
「ブレスだ、正面から離れろ!」
しかし回避は間に合わず、正面にいた三十人が黒いモヤに呑まれた。
「トワさん!」
「ああ――全員に被ダメージカットをかける!」
トワがアイテムストレージを開いた。
始まりの大盾。チュートリアルの隠し報酬。パーティ全員に被ダメージ90%カット。
【始まりの大盾——守護精霊の力で全プレイヤーに拡張!】
【全プレイヤーに被ダメージ90%カット:20秒間!】
光の盾が、全員を包んだ。
黒い蒸気が盾に阻まれる。浸蝕度は上がるが、HPダメージはほぼゼロ。
「耐えた——!」
「トワの盾だ——! あの盾、グラオザーム戦でも見たやつだぞ!」
「でも、二十秒だけだ! この間に反撃しろ!」
二十秒……盾が持つ間に攻撃を叩き込む。
レクトが龍の左脚に飛びついた。剥がれた鱗の隙間から——内部の筋肉に大剣を叩き込む。
【クリティカルダメージ:92,000】
「内側は柔らかい……鱗さえ剥がれてれば——!」
ヴェノムの本隊が右側面から集中攻撃。ゼクスが影潜りで龍の背中に取り付き、首の付け根に短剣を突き立てた。
【弱点クリティカルダメージ:128,000!】
「首の付け根——大ダメージです!」
トワが旅人の広域煙幕を投げた。白い煙が龍の顔面を覆う。龍の視界が遮断される。
その隙に——アストレアが走った。
「いきます……聖騎士の矜持にかけて!」
聖剣ルミナスを構えて——龍の胸に向かって跳んだ。
「光断・連——!」
三連の光の斬撃が龍の胸の鱗に叩き込まれた。
【光断・連! ダメージ:45,000 × 3 = 135,000!】
胸の鱗が三枚、同時に剥がれた。
「胸に穴が……少しだけど見えます、中に……!」
「まだ足りない、もっと剥がす。——だが今は下がれ、盾が切れるぞ!」
二十秒が過ぎ、光の盾が消える。
【龍体HP:5,800,000 / 12,000,000】
半分、切った。
◇
——フェーズ3:深淵の露出——
龍の姿が……変わった。
鱗の色が黒から——赤黒く変わった。身体から蒸気が上がっている。目が完全に黒く染まった。金色が消えた。アルヴァの意識が——深淵の奥底に押し込まれている。
【龍体の深淵が覚醒しました】
【全ステータスが上昇! 攻撃力・防御力・行動速度1.5倍】
【龍の鱗が再生を開始しました。剥がした鱗が時間経過で復活します】
「鱗が——再生する!?」
さっき剥がした脚の鱗が——再生し始めた。黒い結晶が脚の表面を這うように広がっていく。
「せっかく、頑張って剥がしたのに!」
「再生速度は——約30秒で一枚。胸の鱗を全部剥がすには——集中攻撃で、一気にやるしかない」
「一気にって——胸の鱗は何枚あるんだ!?」
見聞録でスキャン。胸の鱗——残り四十枚以上。一枚剥がすのに全員の攻撃で約五秒。四十枚で約二百秒。だが、三十秒ごとに一枚再生する。再生と剥がしの追いかけっこだ。
「ダメです、追いつきません! 再生が、速すぎる……!」
「だったら、再生を止めるまでだ」
記憶干渉。二回目。
龍の再生パターンにノイズを叩き込んだ。
【記憶干渉! 龍の鱗再生が15秒間停止します!】
「十五秒——十五秒で、胸の鱗を全て剥がせ!」
「無理だよトワ、四十枚を十五秒じゃ——!」
「無理じゃない、俺も行く!」
トワがセレスを見た。
「セレス。【覚醒形態】を頼む」
「わかった!」
セレスが【覚醒形態】になり、その背中にトワが飛び乗った。
【セレスが覚醒形態に変身しました】
【銀月の疾走:移動速度3倍】
「走れ、セレス——!」
銀色の鹿が——龍の身体を駆け上がった。
脚を蹴って、鱗の隙間に蹄をかけて、腹を走り、胸に向かって一直線に。
三倍速の閃光――月光の軌跡が龍の身体に銀色の線を引いていく。
「見ろ……トワが、龍を登ってるぞ!」
直ぐに胸まで到達した。チャンスは、再生が止まっている今だけだ。
【果ての道標】を——切り替えた。
白銀ではない。
【影銀形態】。
刃が暗い銀色に変わった。影の残滓が目覚める。影属性。龍の鱗には……【記憶の光】のエネルギーが含まれていた——影銀形態は、光に特効。
つまり、あの時に得た力は全て、この時のために――。
【果ての道標・影銀形態:光属性への特効ダメージ×3.0、光属性防御50%無視】
「影銀形態——!」
一閃、胸の鱗を斬った。
【特効クリティカル! ダメージ:210,000!】
鱗が五枚同時に吹き飛んだ。影銀の刃が光の鱗を切り裂く。影が光を食う。
二閃。三閃。四閃。セレスの背中で立ち上がり、龍の胸を斬り続ける。初心の心得でCTゼロ。連続攻撃。影銀の軌跡が胸に刻まれていく。
【ダメージ:210,000! 195,000! 220,000! 188,000!】
「バカな……一人で、百万近くも——!?」
だが、龍が身を捩った、胸を庇うように。
トワとセレス、が振り落とされかける。
「ルーナ——!」
「やる!」
ルーナが影の力を解き放った。龍の影——巨大な影が原初層に引きずり込まれる。
その影を使って、龍の動きを鈍らせる。
【ルーナの夜帳が龍の動きを1秒間遅延させました!】
一秒。その間に——もう一度切り替えた。
影銀ではない。
【夜銀形態】
刃の色が変わった。紺色の銀。夜空の色。星の光が刃の中をちらちらと流れている。影銀の上位互換。闇に特効。
【果ての道標・夜銀形態:闇属性への特効ダメージ。影銀形態の上位互換】
龍の鱗は光のエネルギーと、闇のエネルギーの二重構造だった。
外側がかつての記憶の光――内側が深淵の闇。
影銀で外側を剥がし、夜銀で内側を斬る。
【特効クリティカルダメージ:340,000!】
「三十四万——!?」
胸の鱗が、一気に剥がれた。
十枚。二十枚。
影銀と夜銀の二段斬りが、龍の胸を抉っていく。
「カレン、今だ! 全力で、呼びかけろ!」
カレンが龍の足元で、張り叫ぶ
「師匠——聞こえますか!!」
龍の目が一瞬、黒から金色に戻った。
「カレン——」
その一瞬、龍の動きが止まった。
カレンの声に反応して。アルヴァの意識が表面に出てきた。
その隙に——オルグレンが現れた。
ダリオの獣王召喚。白い巨狼が龍の首に噛みついた。マリドゥスが尾に絡みついている。二体の獣王が龍を押さえている。
【オルグレンが龍の首を拘束!】
【マリドゥスが龍の尾を拘束!】
「獣王二体で押さえてる——!」
「今だ、全員で胸を攻撃しろ!!」
二百人が龍の胸に集中した。
鱗が剥がれた部分に攻撃が集中する。
【龍体HP:2,800,000 → 2,200,000 → 1,800,000——!】
十五秒が終わった。鱗の再生が再開する。
だが——もう遅い。胸の鱗は、ほとんど剥がれている。
胸の中央に……金色の光が見えた。
【核】だ。
金色に光る球体。直径三メートルほど。
その中に——うっすらと人影が見える。
旅人の服。杖を握っている。目を閉じている。
――アルヴァだ。
「核が見えた……中に、人がいるぞ!」
【龍の核が露出しました!】
【核にダメージを与えるとアルヴァの記憶が損傷します】
【核にアルヴァの記憶を返すことで、龍体を解除できます】
「攻撃するな! 核を攻撃したら、アルヴァが壊れる!」
「じゃあ、どうするんだよ!?」
「記憶を返すんだ。——俺が行く」
◇
——フェーズ4:落ちた記憶——
龍が暴走した。
核が露出したことで、龍体が本能的に防衛に入った。
尾が振り回され、爪が空間を裂き、口からブレスが連続で放たれる。
【龍が暴走しています。全方位に広域攻撃開始】
【全プレイヤーの浸蝕度が急上昇中!】
「浸蝕度が、毎分5%に上がったぞ——!」
「あと五分、持つかどうかだ! 頼む……トワ!」
トワは無音の鈴を振った。音の出ない鈴、深淵の無音を打ち消す振動。
【無音の鈴:30秒間、浸蝕度の蓄積速度を80%軽減!】
「三十秒。——この間に、核に辿り着く」
セレスの覚醒形態はまだ持っている。だが限界が近い、あと二分。
「セレス。——最後の走りだ、核まで行くぞ」
「うん、いく!」
銀色の鹿が——駆けた。龍の胸に向かって。
龍の爪が迫った。トワが砂時計のレンズで——三秒前の軌道を巻き戻して読んだ。爪の軌道が見える。未来ではなく過去を見て、パターンを予測する。
【砂時計のレンズ:龍の攻撃パターンを解析——回避ルートを算出】
「右——!」
セレスが右に跳んだ。爪が左を通過した。
「下——!」
伏せた。ブレスが頭上を通過した。
「真っ直ぐだ——!」
核まであと十メートル。
龍が——最後の咆哮を放った。
全方位の衝撃波。避けられない。
「記憶干渉——!」
三回目。最後の一回。
龍の行動パターンに——全力のノイズを叩き込んだ。
【記憶干渉! 龍の全行動が5秒間完全停止!】
龍が止まった。
咆哮が途切れた。爪が止まった。ブレスが消えた。
百メートルの巨体が、凍りついたように動かなくなった。
五秒。
トワがセレスの背から——飛んだ。
核に向かって。
深淵の手甲、黒い革の手袋、接触による浸蝕度上昇を50%軽減する。
冒険のお守り。被ダメージ60%軽減。道具通で効果倍増。
星巡りの靴が——龍の胸の上で光の足跡を残した。龍の内側に光の道が伸びていく。帰り道。
「タマキ――アルヴァの薬瓶を!」
「投げます!」
タマキが用意していたアルヴァの薬瓶を全部投げた。
トワが空中でキャッチして飲んだ。
HPと浸蝕度が即時回復。これでまだ、戦える。
トワは核に——手を当てた。
金色の光。温かい。中にアルヴァがいる。
壊れた見聞録を握ったまま座っている。目を閉じている。
周囲にデータの断片が浮遊している。
「アルヴァ」
声をかけた、返事はない。
「お前のことは、よく知らない。会ったこともない。——だが、旅人であることは同じだ」
見聞録を開いた。精度は低下しているが、記憶のデータは残っている。数千時間分の全ての記録。
流し込んだ。
始まりの町のBGM。グランの扉。石畳の道。噴水広場の水音。
セレスとの出会い。肩の上に乗ってきた日。最初の「おやつ」。
タマキが調合した最初の回復薬。ハルが書いた最初の手帳のページ。ゼクスと戦った夜。アストレアの矜持。
ルーナを闇から救った日。ダリオと海を渡った日。ヴェノムと並んで歩いた日。
エリーのパン。ガルドの鍛冶の音。マーサのレシピ。
エルシオンの雪原。獣王たちの咆哮。星空の下の焚き火。
七千時間の旅の全て。一歩一歩が記憶になっている。その全てを——アルヴァに渡した。
「お前の旅も、こんな風だったんだろう。——歩いて、道を覚えて、世界を見て」
アルヴァの指が——動いた。壊れた見聞録を握る手が、僅かに力を込めた。
「思い出せ……俺の記憶じゃない、自分自身の記憶を。お前にも、旅をしてきた記憶があったはずだろ。違うか、アルヴァ」
核の外側から、声が聞こえた。
「師匠——!」
カレンの声だった。
「師匠……覚えていますか! あなたが通っていた、パンが美味しいお店を! エリーというパン屋の——朝焼きたてのパンが——彼女と焼くパンが、あなたを笑顔にさせていたことを!」
アルヴァの目が、開いた。
——温かい、人間の目だ。
「カレン……」
「はい……私は、ここにいます」
「エリーの、パンか……」
「はい……彼女のパンです。また師匠に食べてほしくて——千年間探してました!」
「千年間……も?」
「千年間です。——とても、長かったんです」
アルヴァが笑った。
壊れた見聞録を握ったまま。龍の核の中で、千年ぶりに。
「千年間か……長い旅だったな、カレン」
「ええ……でも、それも今日で終わります」
二人の言葉が終わったところで、トワは最後の言葉を送った。
「よい旅を」
アルヴァもまた、口にする言葉は決まっていた。
「よい旅を——」
グランと同じ言葉。アルヴァ自身がカレンに教えた挨拶。
旅人が旅人に贈る、最も古い言葉。
「よい旅を——か。——ああ……思い出した。そうか……私、は——」
核が——光った。
金色。銀色。星の色。月の色。夜の色。全ての色が混ざり合って——白い光になった。
【アルヴァの記憶が復元されています——】
【深淵の龍体の制御権がアルヴァに戻りました——】
【龍体解除シーケンスを開始します——】
龍が——咆哮した。
だが今度は、暴走ではなかった。
アルヴァの咆哮。千年間龍の中に閉じ込められていた旅人の、最初の叫び。
鱗が——剥がれ始めた。一枚ずつではない。全身の鱗が同時に粒子になって散っていく。黒い鱗が光の粒に変わる。記憶の断片が——空に昇っていく。
脚が消えた。尾が消えた。翼が消えた。首が消えた。
百メートルの龍が——崩壊していく。
忘却体たちが——散乱する記憶の断片を回収していく。ぽよぽよと跳ねながら。子供たちも。海の大きなのも、全員で。
光の粒が雪のように降っている。この場のプレイヤーの頭上に、原初層全体に。
龍がいた場所に——人が立っていた。
旅人の服。杖を持っている。
見聞録を——握っている。壊れていた見聞録が、光を取り戻していた。
アルヴァが——立っていた。
【深淵の龍「知識の龍アルヴァ」——討伐ではなく、救出に成功しました】
【千年前の旅人アルヴァが解放されました】
【深淵の闇が大幅に弱まりました】
【全プレイヤーの浸蝕度が0%にリセットされます】
アルヴァが周囲を見回した。二百人のプレイヤー。忘却体たち。獣王たち。精霊たち。
「こんなに……人がいる、のか」
「いる。——全員で、お前を助けに来た」
「助けに。——わたしを」
「ああ……お前を」
カレンが走ってきた。旅人の服で、杖を握って。
アルヴァの前で——止まった。
「師匠」
「カレン……」
「さあ……帰りましょう」
「——ああ、帰ろう」
カレンが泣いた。千年ぶりに師匠の前で、旅人の服を着た弟子が、旅人の服を着た師匠の前で。
セレスが小さな姿に戻って、トワの肩に戻った。
角の光が弱い、疲れている。でも——笑っていた。
「トワ。——おわった?」
「終わった」
「よかった。——おなかすいた」
「まったく……お前は、本当に——だが、今日はいいぞ」
「きょうは、いいの?」
「ああ、好きなだけ食っていい」
「きょうのおやつは、いつもよりおいしそう」
「ああ……そうだな」
トワとセレスのように、カレンとアルヴァもまた笑っていた。
◇
帰り道。
全員が——光の道を辿って帰った。星巡りの靴の足跡が原初層に伸びている。その上を全員が歩く。
原初層から深度200へ。記憶の雨の中を歩く。砂漠を越える。森を通る。子供たちが、ぽよぽよ跳ねて見送ってくれた。忘却の海を渡る。逆さまの塔を通過する。沈降門を越える。
沈殿層を走った。深度3のパン屋。
「いらっしゃい。パンはいかがですか」
アルヴァが——足を止めた。
パン屋のNPCを見つめていた。エリーに似た、名前のないNPC。
「……この人は——」
「記憶だ。——地上のパン屋の記憶が、深淵に沈んでいる」
「そうか。——でも、パンを焼いている」
「ああ、ずっと焼いている。俺たちが来るたびに」
アルヴァが——NPCに手を伸ばした。NPCの手に触れた。
NPCが——反応した。
初めて。
「……いらっしゃい。パンは——」
いつもの台詞が途切れた。
「——お久しぶりですね。旅人さん」
セレスが目を見開いた。トワも、カレンも。
「久しぶり——?」
「はい。——千年ぶりです、お元気でしたか」
アルヴァが泣きながら笑った。
「元気では、なかった。……でも、今は元気だ」
「よかった。——パン、焼きたてがありますよ」
「もらおう。——千年ぶりのパンだ」
深淵の底のパン屋で、千年ぶりにパンを買った旅人がいた。
セレスが手を振った。
「また、くるね」
「いいえ……」
NPCが微笑んだ。
「あちらで、お待ちしています」
エリーによく似たNPCは、光の粒となって消えていった。
彼女は幻想――アルヴァの深層心理が生んだ、『エリー』の幻だったのだろう。
アルヴァが解放されたいま、彼女もここを留まる理由がない。
だから、本当の自分で待つ。あちら――聖王国のパン屋で。
「いなくなっちゃった……」
「いなくなったんじゃない、帰ったんだ」
「トワ。それ、いいことなの?」
「ああ……とても、いいことだ」
トワは、門を出た。
光が戻った、音が戻った、始まりの町のBGM、噴水の水音、人々の声、風の音。
グランが門の前で待っていた。
「おかえり」
「ただいま。――約束通り、連れて帰ってきたぞ」
グランがアルヴァを見た。アルヴァがグランを見た。
「グラン……久しぶりだな」
「千年ぶりだ。——よい旅だったか」
「よい旅では……なかった」
「そうか……」
「でも——帰ってこられた。だから……よい旅……だったのかもしれない」
グランが笑った。いつもの飄々とした笑みではなかった。
「よい旅を。——アルヴァ」
【——深淵レイドボス「千年の旅人」——クリア——】
【全プレイヤーに称号「深淵の踏破者」が付与されます】
【深淵の闇が弱まり、世界全体の環境が改善されます】
【千年前の旅人アルヴァが、BCOの世界に帰還しました】