作品タイトル不明
【深度200】
十一度目の突入。
だが今回は、数人ではない。
門の前に、二百人以上が並んでいた。
先発隊。本隊。支援隊。補給隊。四つの部隊が、始まりの町の地下に集結している。BCOの歴史上、これだけの人数が深淵に入るのは初めてだろう。
「各部隊、準備は」
「本隊、準備完了」ヴェノムが手を挙げた。
「支援隊、完了」レクトが大剣を背負い直した。
「補給隊、完了だーー!」ダリオが拳を突き上げた。
「先発隊——」トワは後ろを見た。ゼクス、アストレア、ハル、タマキ、カレン。肩にセレス。影にルーナ。ブーツにテン。
「準備完了」
門に手を当てた。
「行くぞ」
門が開いた。冷たい空気が溢れ出し——音が消えた。
全員が一斉に息を呑む音だけが聞こえたが、それも消えた。深淵の無音だ。
「……静かだな」レクトが呟いた。声が残る。三秒。深淵が記憶する。
「喋ると声が残る。手信号を使え」
「了解——」三秒後。「了解——」
レクトが口を閉じた。学習が速い。
◇
沈殿層を二百人が行軍した。
壮観だった。星巡りの靴の光は一つだけだが、二百人の足音が鳴っている。松明やスキルの光を灯しているプレイヤーもいる。暗闇の中に、光の列が伸びていく。
その途中で、問題が起きた。
深度3の歪んだ街並み。
「何あれ……建物が、おかしいよな」
「窓が地面に……扉の取っ手が天井に……」
「うわ……気持ち悪いな……」
初めて深淵に入ったプレイヤーたちが動揺している。トワのパーティはもう慣れたが、二百人の大半は初体験だ。
「騒ぐな。——ここは深淵だ。おかしいのが普通だと思え」ヴェノムが本隊を落ち着かせた。
パン屋のNPCの前を通った。
「いらっしゃい。パンはいかがですか」
二百人が一斉にNPCを見た。エリーに似た、名前のないNPC。同じ台詞を繰り返す記憶の残骸。
「あれ、エリーさんに似てないか——?」
「似てるけど違う。名前がない」
「怖いな……別人かよ」
「さあな、別人なのかどうかすらも分からない」
「えっ……なにそれ」
「それが、深淵という場所の気味の悪さだ」
セレスが手を振った。
「またきたよ。——きょうは、たくさんつれてきたよ」
NPCは反応しなかった。いつも通り。
だがセレスは手を振った。いつも通り。
◇
深度10。捕食者が出た。
二百人の中に悲鳴が走った。頭のない四足の獣。口だけ。歯が三列。
「何だあれ——!?」
「頭がないぞ!?」
「落ち着け!」レクトが叫んだ。「トワさんの攻略情報を読んだだろ! 口の中に核がある! 一撃で倒せ! 長引かせると、データを食われるぞ!」
レクトの部隊の前衛が捕食者に突っ込んだ。だが——口の中に剣を突き刺すタイミングがわからない。トワのように「匂いで核を探す」芸当は、普通のプレイヤーにはできない。
三十秒かかった。その間にスキャンデータが二件食われた。
「データが消えた!?」
「長引いたからだ。——次からは、こうしろ」
トワが二体目の捕食者の前に出た。弓で引きつけ、突進してくる口の中に——剣を突き刺した。一撃。一秒以下。
「口が開いた瞬間に突く。タイミングは突進の直前。口を開けてから加速するまでに零コンマ三秒の隙がある。——見えたか」
「見えました……ほんとうに、僅かですが……!」
「練習しろ、沈殿層の捕食者で慣れてから先に進め」
「了解——!」
支援隊が沈殿層に残って捕食者の討伐訓練を始めた。補給隊がアルヴァの道標の位置を全て記録し、安全地帯のネットワークを構築していく。
先発隊と本隊は——先に進んだ。
◇
沈降門。
「ここから先は、混濁層だ。——初見の奴は覚悟しろ。景色が変わる」
門を越えた。
——星空が広がった。
「空が……上にも、下にも……」
「星だ……星空が……!」
「地面がない——!? 足元が、星だなんて……!」
「これ、進んでいいのか? 踏み出したら、終わりなんじゃ……」
「大丈夫だ! 見えないだけで地面はある!」
あのヴェノムが大声を上げていた。
混乱するプレイヤーたちを落ち着かせながら、逆さまの塔に向かう。塔の中で浸蝕度の蓄積が半減する。ここが、本隊の前線拠点になる。
「ヴェノム。ここを拠点にしろ。塔の中なら浸蝕度の蓄積が遅い。補給物資をここに集めて、先発隊への中継地点にする」
「了解。——塔を確保する」
「忘却の海の島にも、前進拠点を作れる。アルヴァの休息所がある。そこなら浸蝕度の蓄積が止まる」
「二段構えか。——任せろ」
本隊が逆さまの塔に展開し始めた。プレイヤーたちが塔の中で装備を整え、回復薬を補充し、地図を共有する。
「師匠。——すごいですね、これ」
ハルが塔の窓から外を見ていた。星空の中に、プレイヤーたちの灯りが点々と光っている。
「何がだ?」
「深淵って、ずっとトワさんとわたしたちだけの場所でした。静かで、暗くて、怖い場所。——でも今、人がたくさんいる。灯りがある。声がある。深淵に——人が来たんです」
「……ああ」
「門を開けたからですよ。トワさんが。——アルヴァさんが、開けなかった門を」
タマキも言った。
トワは短く頷き、先へ進んだ。
◇
先発隊は本隊と分かれて、混濁層を突き進んだ。
忘却の海。水面を走る。足跡が波紋を作る。
アルヴァの休息所・第三を通過。忘却体の子供たちがいる逆さまの森を通過。セレスが走りながらパンを投げた。子供たちがぽよんと受け止めた。
逆さまの砂漠を突破し、心門を通過。ここから先は——前回到達した、深度130。
さらに先へ。
深度150。
逆さまの砂漠を抜けた先に——また景色が変わった。
空間が——広い。天井が見えない。壁もない。だが暗くない。空気中に——光の粒が浮いている。蛍のような、雪のような、無数の小さな光が……空間を漂っている。
「何だ? これは……」
光の粒に手を伸ばした、その瞬間——映像が浮かび上がった。
一瞬だけ、誰かの記憶……海の記憶、山の記憶、街の記憶、人の顔、声、匂い。
……一瞬で消えた。
「記憶だ。——光の粒が、記憶の断片だ。空気中に漂っている」
「記憶の雨——」ハルが手帳に書いた。
光の粒が——降ってきた。上から。ゆっくりと。雪のように。深淵に雪が降っている——ように見えるが、降っているのは記憶だ。
触れると一瞬だけ誰かの記憶が流れ込んでくる。痛くはない。浸蝕度も上がらない。ただ——情報が多い。次々と触れてしまう。歩くだけで記憶の粒に触れる。
「これがアルヴァの言っていた『知識が流れ込んでくる』か——」
「止められない、と書いていたのは——この場所のことだったのかもしれませんね」
タマキが光の粒を避けようとしたが、密度が高すぎて避けられなかった。
「アルヴァはこの中を一人で歩いた。止めてくれる人がいなかった。記憶が際限なく流れ込んで——溺れた」
「では、わたしたちは?」
「全員で歩く。一人に集中しないように、散開しろ。見る限り、記憶の粒は、近くにいる者に引き寄せられる性質があるようだ。散開すれば、一人あたりの負荷が減る」
散開した。等間隔で。記憶の雨の中を歩く。
光の粒が身体に触れるたびに、一瞬だけ誰かの記憶が見える。
花畑。子供の笑い声。鍛冶の音。波の音。鳥の歌。
全部、きれいな記憶だった。
「驚いた……悪い記憶が一切ない」ゼクスが呟いた。
「お前もそう思うか?」
「ああ、触れた記憶が全部——いい記憶だ。悪いものがないとは、不自然だ」
「……確かに。怖い記憶や、悲しい記憶がない」
「フィルターがかかっているのか。——あるいは、ここに沈殿しているのは『残したい記憶』だけなのかもしれない。大事な記憶ほど、深く沈むのだと――」
その時、カレンが立ち止まった。
「カレン?」
「今……触れた、記憶が——」
カレンの目が潤んでいた。
「師匠の記憶だった。——パンを焼いている記憶。朝早く起きて、窯に火を入れて、生地を捏ねている。——師匠は、パンを焼いていた」
「アルヴァが、パンを……?」
「どうして師匠が、エリーさんの元へ通い詰めていたのか。師匠は……パンが好きだったんじゃない。彼女と、パンを焼くのが好きだったんだ。——知らなかった。千年間、師匠のことを知っていると、思っていたのに……私は何も、知らなかった」
カレンが、記憶の雨の中で泣いていた。
「……行こう。もっと先で、もっと師匠のことがわかるかもしれない」
「ああ……行こう」
◇
深度180。190。
記憶の雨が薄くなっていった。光の粒が減っていく。空間が暗くなっていく。
そして深度200で——何もなくなった。
暗い。広い。何もない。記憶の雨もない。光もない。セレスの月光だけが世界を照らしている。
見聞録の精度——28%。七割以上がノイズ。スキャンしても、ほとんど何も見えない。
「ここが、アルヴァの限界だった場所か……」
「深度200。——千年前に、アルヴァさんが最初に到達した深さですね」
暗闇の中に、小屋があった。
【「アルヴァの休息所・最後」を発見しました】
最後。
これまでの休息所は「第一」「第二」「第三」「第四」と番号がついていた。
これだけは——「最後」。
小屋に入った。壁に日記。——だが、文字が少ない。
【「ここが限界だ。わたしの見聞録は深度200で歪み始めた。この先は、見聞録なしで歩かなければならない。——できるか? わからない。やってみる」】
短い日記だったが、文字は震えていない。きちんと書かれている。一度目の降下の時、アルヴァはまだ正気だった。まだ旅人だった。
もう一つ、壁に文字があった。日記ではない。壁に直接刻まれた、大きな文字。
【「扉はこの先にある。鍵は旅に在る。——歩いた全ての道が、鍵になる」】
「鍵は、旅に在る——」
「トワさん、グランも言っていたんですよね。『既に持っている』と」
「ああ……アルヴァも同じことを書いている。歩いた全ての道が鍵——数千時間の足跡だ」
小屋を出た。暗闇の先に——何かがある。
深読みのスキャン精度は28%。ほとんど使い物にならないが——足の裏が感じている。前方に、巨大な何かがある。空気の流れが変わっている。気温がほんの僅かに下がっている。
歩いた。百メートル。二百メートル。
見えた。
扉だ。
巨大な扉。高さ——三十メートル。黒い石。表面に紋章はない。何も刻まれていない。ただの巨大な、黒い石の扉。
しかし——扉の中央に、手のひらサイズのくぼみがある。手のひらの形をした、鍵穴だ。
「手形認証——カレンのところで見た。アルヴァの私室と同じだ」
「だが、これはアルヴァの手形ではない。——もっと古い」
手を当てた。
何も起きなかった。
「……開かないな」
「鍵は旅に在る。歩いた全ての道が、鍵——」
足跡。
星巡りの靴の足跡。七千時間分の光の道。始まりの町から、ソルシアへ、ルミナリアへ、新大陸へ、エルシオンへ——全ての場所を繋いだ足跡。
「足跡を——ここに、集める」
「集める?」
見聞録を開いた。数千時間分の探索記録。全てのエリアの踏破データ。歩いた道の全てが、見聞録の中に記録されている。
記録を——扉に流し込んだ。
手のひらのくぼみに手を当てたまま、見聞録の全データを扉に送り込む。始まりの町の石畳。ソルシアの森。ルミナリアの光。新大陸の星空。エルシオンの雪原。——そして深淵の石畳。歪んだ街並み。忘却の海。逆さまの森。記憶の雨。
全部。
七千時間分の足跡が——扉に流れ込んだ。
扉が——光った。
黒い石の表面に、光の線が走った。足跡の形。無数の足跡が扉の表面を駆け巡る。数千時間分の光が、扉全体を覆った。
【最後の鍵を認証しました】
【旅人トワの探索記録——9,312時間、全エリア踏破、全ての道を歩いた者】
【原初層への扉を——開放します】
重い音。三十メートルの石が——動いた。
扉が——開いた。
向こうに——何がある。暗い。暗いのではない。何も——ない。光がない。地面がない。壁がない。天井がない。上下左右がない。
ただ——広い。途方もなく広い空間が、扉の向こうに広がっている。
「原初層——」
「ここから先は……誰も歩いたことがない道だ」
カレンが杖を握りしめた。
「師匠は……きっと、この先にいる」
「ああ、いるだろうな」
「行こう、旅人」
「行こう、カレン」
一歩を踏み出した。
原初層に——足を踏み入れた。
足の裏に——何かがある。地面ではないが、足を支えている。トワが「地面だ」と思ったから——地面がある。
セレスの月光が周囲を照らした。照らした範囲にだけ世界がある。照らしていない場所は——存在していない。
月光の範囲が、世界の全て。
「セレス。月光を——消すな。絶対に」
「けさない。ぜったい」
星巡りの靴が光の足跡を残した。原初層の——何もない空間に、トワの足跡だけが光っている。帰り道。この光だけが帰り道。
【浸蝕度:61%】
「深いな……ここまで来るのに、61%も使った」
「わたしたち、帰れますか」タマキが聞いた。
「帰れるだろうが、長くはいられない。今日はここを確認して、帰る」
「待ってくれ、トワ。師匠は——師匠のことは」
「次に来る。——次に来て、アルヴァを見つける。今日は扉を開けただけでも、十分だろう」
「……そうだな。急いて、間に合わなくなっては意味がない」
振り返った。扉が——光っている。帰り道。
「帰ろう」
原初層から足を引いた。扉を越えて、深度200に戻る。
記憶の雨の中を戻る。忘却の海を渡る。逆さまの塔で本隊と合流する。
「トワ——! どうだった!」ヴェノムが駆け寄ってきた。
「扉を開けた。——原初層への道は通った」
「やったのか!?」
「だが、中には入れなかった。浸蝕度が限界だ。——次に来る時に、最後の突入をする」
「何が必要だ?」
「全員の力だ。——原初層の先に、アルヴァがいる。【龍】になったアルヴァが。パーティだけでは手に負えない。……全員で行く」
ヴェノムが頷いた。
「わかった。——全員に伝える。次が、最後の突入だ」
門を出た。光と音が戻った。
【深淵探索を終了します】
【今回の到達深度:200(原初層への扉を開放)】
【最後の鍵を使用しました】
【原初層への道が全プレイヤーに開放されました】
再び全プレイヤーに、システム通知が飛んだ。
【——システムメッセージ——】
【旅人トワが原初層への扉を開放しました】
【深淵の最深部への道が通じました】
フォーラム。
——「トワが原初層の扉を開けたらしいぞ」
——「最後の鍵が、数千時間分のプレイデータだったらしい」
——「数千時間の旅が鍵って——そんなの持ってるの、一人しかいないだろ」
——「トワしかいない」
——「次が最後の突入って、全員で原初層に行くのか。龍になった旅人を助けるために」
——「龍——?」
——「千年前の旅人、アルヴァが龍になったらしい。深淵の知識を取り込みすぎて」
——「今まで戦ってきたレイドボスの龍たちも元は——って話が出てるぞ」
——「マジか……最初のレイドボス【世界の門番】って、まさかそういう?」
——「深淵に来させないための門番だったって説」
——「俺たちが倒してきた龍が、守ってくれてたのか」
——「でも次の突入は、それを止めに行くんだよな」
——「止めるんじゃない。助けに行くんだ」
——「……そうだな。助けに行くんだ」