軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

【声】

八度目の突入。

沈殿層から世界の柱まで。一時間十分。もう地図がいらない。身体が道を覚えている。

世界の柱を通過した。七本目の柱には近づかなかった。あの中にいるものの近くは——まだ早い。

柱の回廊から先に進んだ。黒い海の上を歩く。地図はここまで。深度80のマップの端。

この先は——白紙だ。

「地図がなくなりましたね」ハルが手帳を見ていた。

「ああ……ここからは自分たちの足だけで歩く」

「いつもの台詞ですね」

「いつもの台詞だ」

黒い海の上を歩き続けた。星空の色が——変わっていく。紫から、赤銅色に。夕焼けとも違う。錆びた金属のような色。

足元の水も変わった。黒い水が——濁り始めている。透明でも黒でもない。灰色。何かが混ざっている。

そして——聞こえた。

最初は、自分の足音が反響しているのだと思った。ぴちゃ、ぴちゃ。水面を踏む音。自分の足音。

だが——リズムがずれている。

自分が右足を踏んだ時に、左足の音が聞こえる。自分が止まっても——音が続く。一拍。二拍。三拍遅れて、音が止まる。

「……また【残響】か?」

「違う」ルーナが影の中から言った。「残響は過去の音。これは——今の音。今のわたしたちの音が、遅れて返ってきてる」

「つまり、エコーか?」

「エコーとも違う。深淵が——わたしたちの音をコピーしてる。少し遅れて再生してる」

足音だけではなかった。

「タマキ。浸蝕度を教えてくれ」

「28%です」

——三秒後。

「28%です」

タマキの声が——もう一度聞こえた。同じ声。同じ言い方。三秒遅れて。

「……今の、わたしの声ですよね」タマキが振り返った。

「ああ、お前の声が三秒遅れで再生された」

「再生って——誰が」

「深淵が」

【環境現象「反復」が発生しています】

【このエリアでは発声した音声が一定の遅延を伴い再生されます】

【反復された音声は実際の発話者のものと同一です】

「喋ったことが、三秒後にもう一回聞こえるのか——」

三秒後。「喋ったことが、三秒後にもう一回聞こえるのか——」

自分の声が自分に返ってくる。気持ち悪い。

「極力喋るな。——手信号で行く」

三秒後。「極力喋るな。——手信号で行く」

「……はい」

三秒後。「……はい」

全員が口を閉じた。

手信号だけで進む。トワが前方を指差し、全員が頷いて歩く。声を出さない。出すと三秒後に自分の声が追いかけてくる。

静かだ。足音だけが——ぴちゃ、ぴちゃ。三秒遅れで——ぴちゃ、ぴちゃ。

自分たちの足音と、深淵がコピーした足音。二重の足音で歩いている。

深度85。

灰色の水の上を二十分歩いた。何もない。モンスターもいない。構造物もない。ただ灰色の水と、赤銅色の星空だけが——

前方に壁が見えた。

壁。灰色の水の中から、垂直に伸びている巨大な壁。左右どちらを見ても端が見えない。天から地まで、空間を完全に遮断する壁。

「行き止まり——?」

三秒後。「行き止まり——?」

「壁だ。迂回するか、越えるかだが——」

壁に近づいた。触れてみた。

——柔らかい。

壁が柔らかい。石ではない。金属でもない。押すとへこむ。弾力がある。温度がある。そして——

脈打っている。

「師匠。この壁——」

ハルが手を当てて、すぐに引いた。

「脈打ってます。生きてる」

壁が——生きている。

【環境構造体「回廊の主」を検出しました】

【この壁は生物です。通路そのものが回廊の主の身体の一部です】

【回廊の主は直接攻撃を行いません。環境を変化させることでプレイヤーに干渉します】

「壁が——モンスター——?」

「モンスターじゃない、環境だ。こいつ自体が、通路になっている」

壁の表面が——動いた。壁が左右に裂けるように開いた。通路。壁の向こうに——壁の中に、通路がある。

回廊の主の身体の中を歩く。

「あの……これ、ほんとに入るん、ですか?」

「入る以外に道がない。——行くぞ」

壁の裂け目に足を踏み入れた。

中は——狭かった。左右の壁が近い。二メートル。壁は柔らかく、脈打っている。上を見ると——天井も同じ素材。生きている通路の中を歩いている。

【浸蝕度蓄積速度:回廊の主の内部では2倍】

「蓄積速度が倍——」

長居できない。走る。

通路が——曲がった。左に。走る向きを変える。

また曲がった。右に。その先で——分岐。左と右。

「どっちだ——」

深読みでスキャン。精度が——55%。ノイズだらけ。回廊の主の身体がスキャンを阻害している。

「精度が低すぎる。——足の裏で判断する」

左の通路の床を踏んだ。振動のパターン。——重い。床の下に何かある。

右の通路の床を踏んだ。軽い。空洞。

「右だ、右の方が床が薄い。——薄い方が、出口に近い」

「なんでわかるんですか——!?」

「生き物の身体は外側が薄くて、内側が厚いだろ。だから右の方が、外側に近いはずだ」

走った。右の通路を。

通路が——縮んだ。

壁が近づいてくる。天井が低くなっていく。回廊の主が——身体を縮めている。通路を狭くしている。押しつぶそうとしている。

「狭くなってる——!」

「走れ——! 立ち止まったら潰されるぞ——!」

四つん這いに近い姿勢で走った。天井が背中に触れる。壁が肩に当たる。柔らかいが——圧力がある。じわじわと押してくる。

アストレアの鎧が壁に引っかかった。

「——挟まった——!」

「鎧を——」

「脱ぎません——!」

「今はそんな場合じゃないだろ!」

「でも、脱ぎません——!!」

「ええい、まどろっこしい! だったら――」

ゼクスがアストレアの鎧の隙間に短剣を差し込んで、壁に食い込んでいる装飾を切り落とした。

「装飾だけ切った。本体は無事だ。——走れ!」

「ゼクスさん、ありがとうございます!」

「礼は後だ、いまは走れ!」

走った。壁が迫る。天井が下がる。

前方に——光が見えた。出口。

飛び出した。

全員が回廊の主の身体の外に転がり出た。

後ろで——壁がぴたりと閉じた。入口が消えた。

「……通れました」

「通れたな」

「タマキ。浸蝕度は」

「トワさん36%。ゼクス39%。アストレア42%。ハル35%。わたし34%」

「アストレアが一番高いのは——」

「鎧が引っかかって時間がかかったからです。——すみません」

「鎧のせいだな」

「鎧のせいですね」

全員がアストレアを細めで見つめた。騎士さまの顔は恥じらいで真っ赤になっていた。

回廊の主を抜けた先は——景色が変わっていた。

灰色の水がない。赤銅色の星空もない。

白い空間だった。

逆さまの塔の中と同じ白。だがもっと広い。見渡す限り白い。床が白い。空が白い。遠くに何があるのかわからない。白い光に満ちている。

「白い——」

「白すぎて、目が痛いな」

しばらく目を細めて歩いた。

ここは、深淵なのか。暗くない。無音でもない。微かに——風の音がする。温かい風。

「ここ——深淵ですよね?」ハルが周囲を見回した。

「深淵のはずだ。回廊の主を抜けた先だからな」

「でも……暗くないし、怖くないし……」

「怖くないのが一番怖い」ゼクスが言った。「暗殺者の勘だが——ここは罠だ」

「罠?」

「居心地がいい場所は疑え。——俺たちの仕事の基本だ」

ゼクスの勘は正しかった。

白い空間を歩いていると——声が聞こえた。

反復ではない。遅れてくる自分の声ではない。

別の声。

知っている声。

「——トワ」

振り返った。——誰もいない。パーティの全員が前にいる。後ろには誰もいない。

「今——誰か、俺の名前を呼んだか」

「呼んでないです」ハルが首を振った。

「誰か呼んだか」

全員が首を振った。

「……【深淵の声】か」

また聞こえた。

「——トワ。こっちだ」

誰か知らない声。聞いたことがない声——のはずなのに、どこかで聞いたような気がする。

「トワさん。誰かの声が——」タマキも聞こえているらしい。

「聞こえるか」

「聞こえます。——男の人の声です。トワさんの名前を呼んでる」

「全員に聞こえているのか」

「わたしにも聞こえる」ルーナが影の中から言った。「——この声、知ってる」

「知ってる?」

「千年前に——聞いた声。深淵に堕ちる直前に、この声が聞こえた。『こっちだ』って。——わたしはこの声に引かれて、闇に触れた」

「……ルーナ。この声には二度と従うな、絶対に」

「わかってる。——もう騙されない」

声が——また聞こえた。

「——よい旅を」

よい旅を。

アルヴァの言葉だ。グランの言葉だ。カレンが「師匠に伝えてくれ」と言った言葉だ。

だが——この声はアルヴァなのか。それとも深淵がアルヴァの言葉をコピーしているのか。わからない。反復の延長なのか。それとも——本当に呼んでいるのか。

「……行くぞ。声に従うんじゃない。——声の方角を確認するだけだ」

「師匠。声に近づくのは——」

「近づかない。方角だけ記録する。次の突入で情報として使う」

声が来る方角を——足の裏で測った。振動のパターン。音の反射角。空気の流れ。

下。

声は——下から聞こえている。白い空間の——床の下から。

「下だ。——この白い空間の下に、声の主がいる」

【深度:推定100】

「深度100——アルヴァが一度目の降下で到達した深度だ」

「ここが、アルヴァさんの到達点——」

「一度目の、な。二度目は、もっと深くまで行ったはずだ」

声はまだ聞こえている。だが従わない。方角だけ記録した。下。この白い空間の下。

【浸蝕度:49%】

「49%。——帰るぞ」

今日はここまでだ。声の正体は次に確かめる。

帰り道。回廊の主を戻る必要がある。——入口が消えている。

「入口が——ない」

「……どうやって、戻るんですか」

白い空間の端——回廊の主がいた場所に来たが、壁がない。通路がない。ただ白い空間が続いている。

「回廊の主が動いた。——元の場所にいない」

「帰れない、ってことですか——?」

「帰れないわけじゃない。回廊の主を迂回する方法がある」

深読みでスキャンした。精度55%。だが——回廊の主の位置は読める。生物だから。脈打っているから。振動がある。

「回廊の主は左に五百メートル移動している。——追いかけて、もう一度身体の中を通る」

「また、あの中を……」

「嫌なら別ルートを探すが——時間がない。浸蝕度が49%だ」

「行きます。行きましょう。鎧の装飾は——もうゼクスさんに切ってもらったので引っかかりません」

「そうだな。——走るぞ」

五百メートル走って、回廊の主に追いついた。壁が裂けて入口が開いた。中を走り抜ける。今度は壁が縮む前に通過した。全員が学習している。

忘却の海。世界の柱。逆さまの塔。沈降門。沈殿層。

深度3のパン屋。

「いらっしゃい。パンはいかがですか」

セレスが手を振った。

「……またくるね」

いつもより声が小さかった。セレスも疲れているんだろう。

門を出た。

【深淵探索を終了します】

【今回の到達深度:100(推定)】

【新発見:反復現象、回廊の主、白い空間、深淵の声】

【アルヴァの一度目の到達深度に並びました】

アルヴァの一度目の到達深度——深度100。

千年前の旅人と、同じ場所に立った。