軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

日曜日

VRヘルメットを外した。

手が震えていた。

ゲームの中で手は震えていなかった。深淵を走り、流星を避け、門を飛び越えた。その間、手は一度も震えなかった。

ヘルメットを外した瞬間に——震え始めた。遅れてきた恐怖。柱の上から見た、あのうごめくものの残像が、目を閉じても消えない。

時計を見た。午前二時、六時間ログインしていた。

シャワーを浴びた。熱い湯を頭から被った。まだ手が震えている。

布団に入っても——眠れなかった。目を閉じると星空が見える。逆さまの空。忘却の海。黒い水の底でうごめいている何か。

三時間ほど、天井を見つめていた。

朝の五時に——眠った。

日曜日。

昼に起きた。スマホを見ると、宮瀬から三件メッセージが来ていた。

「おはよう」

「今日、何もしないデートの日だよ」

「起きたら連絡して」

返信した。

「起きた」

三秒で電話が来た。

「遅い。もう昼だよ」

「昨日、ちょっと遅かった」

「深淵のことで、悩んでたの?」

「ああ……」

「……声が疲れてる。大丈夫?」

「大丈夫だ」

「嘘——久坂くんの『大丈夫』は、大丈夫じゃない時に出る台詞」

「……少し疲れた」

「でしょ。——今日はゲームの話禁止ね。何もしないデートだから」

一時間後。駅前で合流した。

宮瀬がトワの顔を見て、何も言わなかった。いつもなら「寝癖」とか「目の下のクマ」とか言うのに。何も言わずに、手を繋いだ。

歩いた。

目的地はない。何もしないデートだから。ただ歩く。商店街を抜けて、川沿いの遊歩道に出て、橋を渡って、反対岸の公園に入った。

パン屋があった。

小さな個人経営の店。ガラスのショーケースにパンが並んでいる。クリームパン、あんぱん、メロンパン、食パン。

「買おう」宮瀬が引っ張った。

「何をだ?」

「パン。——買わないと、セレスちゃんに怒られるから」

「セレスは現実にはいないだろ——」

「いなくても、パンは必要だよね」

「……ああ、そうだな」

クリームパンを二つ買った。

公園のベンチに座って食べた。川が流れている。鳥が鳴いている。子供が走り回っている。犬を散歩させている老人がいる。

——音がある。

風の音。水の音。鳥の声。人の声。犬の吠え声。子供の笑い声。

「どうしたの」

「いや——音があるなと思って」

「音?」

「……何でもない」

宮瀬がクリームパンを齧りながら、川を見ていた。

「久坂くん」

「何だ」

「ゲームの話は禁止って言ったけど、一個だけ聞いていい?」

「いいぞ」

「いま、わたしたちはとっても怖いところにいるの?」

「……ああ」

「帰ってこれる?」

「帰ってくる」

「うん。——それだけ聞きたかった」

クリームパンを食べ終わった。手についたクリームを指で拭っていたら、宮瀬がウェットティッシュを差し出した。

「ありがとう」

「薬師のカバンにはね、何でも入ってるの」

「お前は薬師じゃないだろ」

「現実の薬師だよ。——久坂くん専用の」

ベンチに座ったまま、しばらく何もしなかった。

川が流れている。雲が流れている。時間が流れている。

何もしない。何も考えない。何も探さない。

深淵では——常に何かを探していた。道標を。足跡を。核を。弱点を。帰り道を。常に見聞録を回し、常に深読みでスキャンし、常に足の裏で地面を読んでいた。

今は——何も探していない。

隣に宮瀬がいて、手にクリームの匂いが残っていて……それだけだ。

「久坂くん」

「何だ?」

「手、もう震えてないよ」

手を見た。——震えていなかった。いつの間にか止まっていた。

「……ああ、本当だ」

「よかった」

宮瀬が——トワの手に、自分の手を重ねた。

「何もしないって、いいでしょ」

「……ああ、意外だった。こんなにもいいものだとは、思わなかった」

「また来よう。深淵から帰ってきた次の日は、ここに来よう。パンを買って、川を見て、何もしない」

「……そうしよう」

月曜日。

聖都ルクス。カレンに報告した。

大聖堂の書斎。カレンがいつものようにパンを齧りながら聞いている。

「柱の上に登った。世界の全てが見えた——アルヴァが書いた通りだった」

「師匠は——あの柱のことを知っていたのか」

「手記には書いていなかった。だが壁に『登るな』と刻んでいた」

「登るなと書いて——お前は登った」

「ああ」

「師匠と同じだな。あの人も——『行くな』と言われた場所に必ず行く人だった」

カレンがパンを置いた。

「何を見た」

「深淵の全体が見えた。三つの層。沈殿層、混濁層、そして——その下。柱の根元に何かがいる。巨大な【何か】が」

「それが——師匠を飲み込んだものか」

「わからないが、ルーナが言っていた。千年前に自分が闇に堕ちた時と同じものだ、と」

カレンが——目を閉じた。

「ルーナも知っているのか。あの闇を」

「知っている。——体験している」

「なら——ルーナの助言を聞け。あの精霊は、闇から戻ってきた唯一の存在だ。お前の足の裏よりも——あの精霊の経験の方が、この先は頼りになるかもしれない」

「……ああ。そうかもしれない」

「それと——師匠に伝えてくれと言っていたことがある」

「パンのことか。エリーのパンが美味いと」

「それもだが——もう一つ。師匠が好きだった言葉がある」

「何だ?」

「『よい旅を』。——師匠はいつもそう言って送り出してくれた。グランと同じ言葉だ。あの人が最初に教えてくれた挨拶だった」

「……グランと同じか」

「師匠を見つけたら——そう声をかけてくれ。あの人はきっと覚えている。忘れていたとしても——その言葉を聞けば、思い出す。わたしはそう信じている」

「わかった。——伝える」

カレンがまたパンを手に取った。一口齧って——小さく笑った。

「パンが美味い街を見つけたと——必ず伝えてくれ」

「ああ」

準備。

タマキが新しい対策薬を調合していた。

「浸蝕度が急上昇した時に飲む緊急薬です。一回だけ浸蝕度を15%下げられます。——ただし副作用で十分間、見聞録の精度がさらに10%落ちます」

「十分間の精度低下か。——緊急用だな」

「三本作りました。本当に危ない時だけ使ってください」

「ありがたう」

ガルドが新しい装備を作っていた。

「深淵のヒレ——【喰憶者】からドロップした素材で打った。これを見てくれ」

カウンターに置かれたのは——手袋。黒い革の手袋。指先に金属の鋲がついている。

【「深淵の手甲」を入手しました】

【装備効果:素手攻撃の物理ダメージ+30%】

【装備効果:深淵内での接触による浸蝕度上昇を50%軽減】

「接触の浸蝕度軽減——これがあれば、忘却体に触れても……」

「触れる前提で行くのか?」ゼクスが眉を上げた。

「柱の上で……あのうごめくものを見た時、浸蝕度が一気に跳ね上がった。直接触れたわけでもないのにだ。この先は……もっと酷くなるだろう。軽減手段は多い方がいい」

「いや、もう一つある」ガルドが奥から出してきた。

小さな鈴。黒い金属の鈴。振ると——音が出ない。

「音が出ない鈴?」

「振ると、深淵の周波数を打ち消す振動が出る。音としては聞こえないが——浸蝕度の蓄積を、一時的に遅くする。三十秒間だけだ」

【「無音の鈴」を入手しました】

【使用効果:30秒間、浸蝕度の蓄積速度を80%軽減。クールタイム:10分】

「三十秒の猶予。——十分おきに使える。逃げる時間を稼ぐには十分だ」

「ガルド。深淵の素材で、よくここまで作れるな」

「面白い素材だ。属性がない分、純粋な物理の力だけで応える。——鍛冶の原点だと言っただろう。原点に戻れる素材は、鍛冶師にとって宝だ」

準備が整った。

装備一覧。

深淵の腕輪——浸蝕度軽減10%、物理防御+15%。

沈まない靴紐——足跡の持続時間2倍。

深淵の手甲——素手攻撃+30%、接触浸蝕度軽減50%。

無音の鈴——30秒間浸蝕度蓄積80%軽減。

深淵の露——浸蝕度蓄積速度20%抑制。

タマキの緊急薬——浸蝕度15%即時回復×3本。

アルヴァの薬瓶——HP全回復(深淵補正なし)×8本。

「万全だな」

「万全です。——これ以上の準備はないと思います」タマキが頷いた。

「じゃあ行くか」

「師匠。——次は何があると思いますか」

「わからない。深度80以降の地図はない。アルヴァの手記にも、この先の記述はほとんどない」

「未踏、ですね」

「ああ。——本当の意味で、誰も歩いたことのない道だ」

「師匠の好きな言葉ですね、それ」

「好きとは言っていない」

「顔が言ってます」

「……行くぞ」