作品タイトル不明
【見てはいけないもの】
七度目の突入。
沈殿層を二十分。沈降門を五分。逆さまの塔で三分の休憩。忘却の海を三十分。世界の柱に到着。
合計、一時間。
七度目にもなると、深度75までが「入口」になる。問題はここから先だ。
七本目の柱。扉の前。
壁に刻まれたアルヴァの文字を、もう一度読んだ。
【「柱の上に登った。世界の全てが見えた。——登るな。見てはいけないものがある」】
「登るなって書いてあるのに、登るんですよね」ハルが手帳を構えていた。準備万端だ。
「ああ、登るさ」
「でしょうね。師匠なら、そう言うと思っていました」
「アルヴァは『登るな』と書いたが、理由は書いていない。『見てはいけないもの』が何かも書いていない。——見ないと、判断できない」
「理屈としてはそうですけど、千年前の旅人が『登るな』って書くくらいですよ。相当やばいんじゃ——」
「やばいかもしれない。だから、全員で行く必要はない」
トワは全員を見回した。
「俺とセレスとルーナで登る。他は、柱の下で待機してくれ」
「トワさん、それは——」
「理由はちゃんとある。何かあった時に、全滅するリスクを減らせるからだ」
ゼクスが腕を組んだ。
「妥当だな。——何かあったら呼べ。直ぐに登る」
「頼む。——タマキ、浸蝕度は」
「全員30%前後です。まだ余裕はありますけど——柱の内部で蓄積速度がどうなるかは、入ってみないと」
「ああ。入ってみないとわからない。——行こう」
扉を開けた。
◇
柱の内部は——空洞だった。
外から見た時は巨大な石の柱に見えていたが、中は空っぽだ。壁に螺旋階段が張り付いているだけだ。上に向かって、延々と。
上を見た。
暗い……螺旋階段がぐるぐると壁に沿って登っていき、途中で暗闇に消えている。上端が見えない。
「まったく、どれくらい高いんだここは」
【深読み】でスキャンした。——測定不能。上端がスキャン範囲の外にある。
「測れない。——登るしかない」
【浸蝕度蓄積速度:柱内部では外部と同等】
「蓄積速度は変わらないか。——助かった」
螺旋階段を登り始めた。石の段。一段ずつ。足音が柱の内部に反響する。こん、こん、こん。規則的な足音。
セレスが肩の上で角を光らせている。月光が壁を照らす。壁には——あの読めない文字がびっしりと刻まれている。外側と同じだ。だが内側の文字は——光っている。微かに。セレスの月光に反応して、文字が淡く発光している。
「文字が光ってる——」
「セレスの月光に反応しているのか」
「セレスのげっこうが、もじをおこしてる?」
「起こしている、のかもしれない。——月光が、何かのキーになっている」
十分登った。高さは——百メートル以上は来ているはずだ。壁の文字はずっと続いている。同じ文字。同じパターン。
二十分。窓があった。柱の壁に開いた小さな窓。外を見た。
——遠い。
黒い海が遥か下に見える。七本の柱の他の六本が、横に並んでいるのが見える。下から見上げていた時とは全然違う。上から見ると——
六本の柱が——円を描いている。均等な間隔で。そして七本目——今いるこの柱が、円の中心にある。
六本の柱に囲まれた、中心の一本。
何かに、似ている。
「……花だ」
「はな?」セレスが首を傾げた。
「六本の柱が花弁で、七本目が中心。上から見ると——花の形をしている」
「おはな。——きれい?」
「きれいかどうかはわからない、が——意図的に配置されている。誰かが、花の形に柱を建てた」
誰が、なぜ。——答えはまだない。
登り続けた。
三十分。四十分。
足が——重い。VRMMOなのに足が重い。浸蝕度の影響か。
【浸蝕度:41%】
まだ大丈夫だが、確実に削られている。
壁の文字が——変わった。
読めない文字の中に、ぽつぽつと読める文字が混じり始めた。BCOの古代語。アルヴァが刻んだものではない。最初から、柱に刻まれていた文字だ。
見聞録で翻訳した。
断片的。文脈がない。単語だけ。
「『別れ』」
少し上に。
「『痛み』」
さらに上に。
「『覚えている』」
もっと上に。
「『帰りたい』」
壁に刻まれた言葉が——あの残影と同じことを言っている。帰りたい。覚えていたい。忘れたくない。
深淵が——喋っている。柱の文字を通して。
「トワ。もじが——ないてる」
「泣いている?」
「うん。もじが。——かえりたいって。おぼえてるって。わすれたくないって。もじがないてる」
セレスの角の光が——強くなった。月光が壁の文字を照らす。文字が光に反応して発光する。発光が強くなっていく。壁全体が淡い光に包まれた。
光の中で——文字が動いた。
読めなかった文字が——並び変わった。渦を巻くように。壁の表面を文字が流れていく。そして——一つの文に集まった。
【「ここにいたものたちは、帰る場所を探している」】
柱の文字が伝えてきた。ここにいたものたち——深淵に沈んでいるものたち。残影。忘却体。全て。
帰る場所を探している。
「……ルーナ。お前も——帰る場所を探していたか」
影の中から、小さな声が返ってきた。
「……うん。千年間——ずっと。でも、もう見つけた」
「どこだ」
「トワの影の中」
「……そうか」
登り続けた。
◇
一時間。
階段が——終わった。
最後の段を上がると、平らな場所に出た。柱の頂上。
円形の床。直径五十メートル。柱の断面と同じ大きさ。柵はない。端に行けば——落ちる。
そして。
頭上に、空があった。
逆さまの空ではない。正しい空。上に空がある。星空ではない。——青い空。
深淵の底に——青い空がある。
「——空だ」
空があった。白い雲が流れている。太陽がある。深淵にはないはずの太陽が、頭上に。
暖かい……光が。
セレスの角が、太陽の光に反応して、虹色に輝いた。
「トワ、まぶしい!」
「太陽……深淵に太陽があるのか……?」
足元を見た。
柱の頂上から——世界が見えた。
見下ろすと。
七本の柱が花の形に並んでいる。その周囲に——黒い海。忘却の海。海の向こうに——逆さまの星空。さらに向こうに——暗い空洞。沈殿層。
全部が——見えた。
深淵の全体が。上から。
沈殿層は——小さかった。暗い通路の集まり。歪んだ街並み。ここから見ると、箱庭のように小さい。
混濁層は——広かった。星空と海が広がる巨大な空間。世界の柱が立つ場所。
そしてその下に——
見えた。
柱の根元。黒い海の底。さらに下に——もう一つの層がある。
暗い。黒い。何もないように見えるが——何もないのではない。
うごめいている。
黒い海の底で、何かが——うごめいている。巨大な。途方もなく巨大な何かが。柱の根元に絡みついて——いや、柱を支えているのか。あるいは——引きずり込もうとしているのか。
見えた。その何かの輪郭が——
「—— 見(・) る(・) な(・) 」
ルーナの声だった。いつもと違う。険しい、命令口調。
「トワ、そこから下を見るな。——目を閉じて」
「いったい何が——」
「いいから、目を閉じて」
目を閉じた、反射的に。ルーナがあんなに強い口調で言われたのは初めてだった。
目を閉じた瞬間——足元が揺れた。柱が。
揺れた、のではない。何かが——柱を掴んだ。下から。黒い海の底から。
【警告:原初層の存在が反応しています】
【警告:浸蝕度が急速に上昇しています】
【浸蝕度:48%→55%→62%——】
「まずい、降りるぞ——直ぐに来た道を戻るんだ!」
目を閉じたまま、階段に向かった。
旅人のトワなら、目を閉じたまま走る程度は造作もない。登った階段を——駆け下りる。
「ルーナ……いまのは何だ! ……いったい、何が起きた!?」
「 見(・) ら(・) れ(・) た(・) 。——下にいるものに。こっちが下を見た時に——向こうもこっちを見た」
ルーナが影の中からささやきかけた。
「あれは、見ちゃダメ。——見たらダメ。あれに見られたら——引っ張られる。下に」
「アルヴァが『見てはいけないもの』って書いたのは——」
「あれだ、あれのことだ。柱の下にいるもの——【原初層】のもの」
駆け下りた。十分で柱の底まで戻った。
扉を開けて外に出た。
ゼクスたちが待っていた。
「おいトワ、いったい何があった。お前の浸蝕度が、跳ね上がったのが見えたぞ!」
「柱の上に登った。——アルヴァが【登るな】と言った理由がわかった」
「何を……見たんだ?」
「深淵の全体と——柱の下にいるもの」
「下に、いるもの?」
「わからない……見えたのは一瞬だ。ルーナが止めてくれなかったら——浸蝕度が100%に達していたかもしれない」
ルーナが影の中から、小さな声で言った。
「あれは——千年前に、わたしが闇に堕ちた時に感じたものと同じ。あれに触れたら——自分が自分じゃなくなる。アルヴァも——【あれ】を見たんだと思う」
アルヴァは柱の上に登って、下を見た。そして「登るな」と書いた。——だがアルヴァ自身は、もう見てしまった後だった。
それが——二度目の降下で帰ってこなかった理由の一つかもしれない。
【あれ】を見たから。【あれ】に見られたから。
「帰ろう。——今日はもう十分だ」
【浸蝕度:68%】
68%。画面の端がちらついている。視界が僅かに歪んでいる。急がないと——まずい。
「全速で帰還する。——走れ!」
走った。柱の回廊から忘却の海へ。水面を走る。止まったら沈む。止まれない。走り続ける。
逆さまの塔を通過。流星が降ってきた。避ける。走りながら避ける。穴を跳び越える。
沈降門を通過。沈殿層に入った。ここからは道を覚えている、最短ルートで。
深度3のパン屋。通過。今日はセレスも、手を振る余裕がなかった。
門が見えた。光が見えた。
飛び込んだ。
【深淵探索を終了します】
【浸蝕度:73%(帰還によりリセット)】
「73%——ギリギリだった」
タマキが全員の浸蝕度を確認して——座り込んだ。
「二度とやりたくないです、あの帰り方……」
「ああ……同感だ」
トワもベンチに座った。足が震えている。VRMMOなのに、ゲームなのに。
だが、得たものは大きい。
深淵の全体が見えた。三つの層の構造。沈殿層。混濁層。そして——原初層。柱の下。あの、うごめいているもの。
アルヴァが見たもの、アルヴァが帰ってこなかった理由。
まだ足りない。まだわからないことがあるが——一歩ずつ、近づいている。
セレスがトワの膝の上で丸くなった。角の光が弱い、疲れているのだろう。
「トワ。——きょうは、こわかった」
「ああ……怖かったな」
「でも、かえってこれた」
「帰ってこれた」
「それでも、またいく?」
「また行く」
「……うん。セレスも、いく。トワといっしょなら」