軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

【名前のない場所】

六度目の突入。

沈殿層を二十五分で通過。沈降門を越え、逆さまの塔で小休止。忘却の海に入った。

水面を歩く。足跡が波紋を作る。穏やかな海。前回の足跡はもう消えている——が、地図がある。島の方角はわかっている。

アルヴァの休息所・第三を通過。壁の日記を改めて確認した。

【「忘却の海の先に、何かがある。大きな構造物。」】

【「到達した。」】

到達した、の一言。その先は書かれていない。

「今日はそこに行く」

島を出た。忘却の海の「先」へ。地図に名前のない場所。

歩いた、三十分。水面の向こうに——海の色が変わる境界が見えた。

透明だった水が——黒くなっている。墨を落としたように。境界線がはっきり見える。ここから先の水は——暗い。

「水の色が、変わっているな」

「入りますか?」ハルが地図を見ながら聞いた。

「構造物はこの先にある。——入るぞ」

黒い水の上を歩き始めた。足裏の感触が変わった。透明な水は硬い床のようだったが、黒い水は——弾力がある。踏むとほんの少し沈んで、戻る。前に感じた脈打つ床と似ている。

「ルーナ。この水、どう感じる?」

「……重い。透明な水は軽かった。この水は——何かを含んでる。記憶が溶けてる、たくさんの。薄めた墨汁みたいに——記憶が水に溶け出して、黒くなってる」

「記憶が溶けた水……か」

「踏んでて大丈夫なんですか、それ」タマキの声が不安そうだ。

「分からない。大丈夫かどうかは、実際にやってみるしか——」

その時、足元から、声が聞こえた。

水の中から。

複数の声。重なっている。何を言っているかはわからない。囁き声が水面を通して響いてくる。ぼそぼそ、ぼそぼそ。

「なんか……聞こえるな」

「聞こえますね」

「足元から、何かが——」

「踏んでる。【記憶】の上を踏んでる。——声が聞こえるのは、そういうことだろう」

立ち止まれない。声が聞こえても、歩き続ける。

十分歩いた。

黒い海の真ん中に——それが見えた。

最初に思ったのは——大きい、だった。

構造物ではなかった。建物でもなかった。

柱だ。

黒い水の中から、巨大な柱が天に向かって伸びている。直径——五十メートル以上。高さは見えない。上の星空に向かって伸びて、星空の中に消えている。どこまで伸びているのかわからない。

一本ではない。

奥にもう一本。その奥にもう一本。数えられる範囲で——七本。

黒い海の中から、七本の巨大な柱が天を突いている。

「……でかい、な」

ゼクスが珍しく、感嘆とも畏怖ともつかない声を漏らした。

「何ですか、あれ——」ハルが手帳を持つ手を止めていた。記録を忘れるほどの光景だった。

柱の表面は——滑らかではなかった。近づいてみると、文字が刻まれている。びっしりと。柱の全面に上から下まで、読めない文字。見聞録で翻訳しても——該当なし。BCOの既知の言語ではない。

「翻訳できない。——どの言語にも該当しない」

「アルヴァの手記は、読めたのにですか?」

「アルヴァはBCOの言語で書いていた。これは——違う。もっと古い言語か、あるいは言語ですらないのかもしれない」

柱の根元——黒い水の中から突き出ている部分に、足場があった。柱の周囲を巡る回廊のような石の道。水面より少し高い。

回廊に上がった。足元が固い。ここなら——止まっても沈まない。

「ここは沈降しない。——休めるな」

タマキが膝から崩れた。

「ありがたいですね——ずっと歩き続けるの、精神的にきつかったです」

「贅沢言うな。旅人は歩くものだぞ」

「トワさんは旅人ですけど、わたしは薬師です。足の耐久力が違います」

「……すまん」

「謝らなくていいです。ただ、座らせてください。……三分間だけ」

座った。全員が、柱の根元に。

柱を見上げた。途方もなく高い。星空に消えている。上端が見えない。

「師匠。この柱——何だと思いますか」

「わからない。だがアルヴァは『到達した』とだけ書いて、説明を書かなかった。説明できなかったんだろう。——俺も、これを説明できない」

「説明できないものに出会ったのは、初めてですか」

「いや……セレスに初めて会った時もそうだった」

「セレス?」セレスが肩の上で首を傾げた。

「お前に会った時、俺は何も説明できなかった。精霊が肩に乗ってきて、名前を教えて、おやつを要求した。——説明する暇がなかった」

「おやつはだいじ」

「今その話はしていないぞ」

「だめ。セレスのはなしは、いつもだいじ」

柱の回廊を歩いた。柱の周囲を一周できる。一周すると——別の柱に続く石の橋があった。柱と柱が橋で繋がっている。七本の柱が、回廊と橋で結ばれた巨大な構造物。

「この構造——上から見たら、何かの形をしているのかもしれない」

「でも、上から見る方法はないですよね?」

「ないが、地図に記録すれば、後でわかる」

ハルが地図に柱の位置を記録していく。七本の柱の配置。

「師匠……七本の柱——ちょっと気になる配置です」

「何がだ?」

「七本……七属性と同じ数です。まあ……ただの偶然かもしれませんけど……」

七属性。火、水、地、雷、風、光、影。BCOの世界を構成する七つの属性。

「いや、偶然じゃないかもしれないな」

三本目の柱に移動した。橋を渡る。黒い水の上を横切る。下から声が聞こえる。

三本目の柱の回廊で——トワは足を止めた。

柱の表面に刻まれた文字の中に——一箇所だけ、読める文字があった。

見聞録で翻訳できる。BCOの古代語。アルヴァの手記と同じ言語。

誰かが——柱の文字の上に、後から刻んだものだ。元の文字を上書きするように。

【「ここは世界の柱だ。これが折れたら、全部終わる」——アルヴァ】

「世界の柱……」

「折れたら、全部終わる……ですか」

全員が柱を見上げた。星空に消える巨大な柱。七本。世界を支えている——のだろうか。

「アルヴァはここに来て、これを見て——何を思ったんだろう」

「手記には書いてなかった。『到達した』とだけで」

「書けなかったんじゃないですか。——これを見て、何を書けばいいかわからなかった」

「……そうかもしれない」

四本目の柱に向かう橋を渡っている時——水面が揺れた。

忘却の海の時とは違う揺れ。大きい。水柱が上がった。黒い水が跳ねる。

「来た——」

水の中から——忘却体が浮上した。

だが、前回の忘却体とは違う。

でかい。三十メートル以上。黒い水を纏って、水面から身体を持ち上げている。形は——半分が魚で、半分が鳥。翼のようなヒレが水面を叩く。目が——ない。目のようなものすら、ない。

【忘却体(攻撃型)を検出しました】

【この個体は高い敵対性を示しています】

【称号「記憶の返却者」の効果が適用されません——敵対性が閾値を超えています】

「称号が効かない!?」

「こいつは、非攻撃型じゃないのか」

忘却体が——翼のヒレを振り下ろした。

黒い水が波となって押し寄せてくる。

「全員、橋から落ちるな——!」

トワが全員の前に出た。【果ての道標】を白銀形態——いや。

属性が通じない。深淵のモンスターには属性ダメージが乗らない。形態を変えても意味がない。

なら――素の物理で受ける。

【果ての道標】を盾に持ち変えて——水の壁を受け止めた。

衝撃が腕に来た。重い。ゲームの中なのに——腕が痺れる。

【ダメージ:0(ガード成功)】

【浸蝕度 +4%(黒水との接触)】

「ダメージはゼロ——だが、浸蝕度が上がる! 黒い水に直接触れると、浸蝕度が跳ぶぞ!」

「触れずに、どうやって戦うんですか——!?」

忘却体が二撃目を振ってきた。黒い水の壁が迫る。

今度は、ガードしなかった。

代わりに、走った。

橋の上を走って、忘却体のヒレの下を潜り抜けた。ヒレが橋を叩く。石が砕ける。橋が崩れかける。

「橋が——!」

「全員、渡り切れ! 柱まで走れ!」

全員が走った。崩れかけの橋を駆け抜けて、四本目の柱の回廊に飛び移った。

橋が——落ちた。黒い水に沈んでいく。帰り道が一つ消えた。

「橋が、落ちました……わたしたちは、もう帰れないのでしょうか……」

「いや、別の橋がある。柱は七本ある、迂回すればいい。——今は、こいつをどうにかする」

忘却体が柱に向かってきた。巨体が水を割って接近する。

「ハル。こいつの中に、何の【記憶】があるかスキャンしろ」

「やってます! でも、ノイズが多くて——断片的にしか——!」

「断片でもいい、スキャンで何が出た?」

「水の記憶。海の記憶。——あと、怒りの記憶。何かに怒ってます、ずっと!」

「怒り?」

「忘れたことに怒ってるんじゃないですか。自分が何だったかわからなくて——それが怒りになってる」

忘れた自分を取り戻せない苛立ち。前回の忘却体は穏やかだった。こいつは——怒っている。

「見聞録のデータを見せても、鎮まらないか——」

「やってみないとわかりませんけど、怒ってる相手に【記憶】を投影しても——受け取る余裕がないかもしれません」

忘却体が柱に体当たりしてきた。柱が——揺れた。

揺れた。

世界の柱が。

「——まずい」

アルヴァが書いていた。「折れたら全部終わる」。こいつが柱を壊す可能性がある。

「なら……止めてやる」

トワが回廊の縁に立った。柱と忘却体の間。

「師匠、何をする気ですか——!?」

「引きつける。——柱から離す」

弓に切り替えた。忘却体の身体に向けて矢を放つ。

【ダメージ:28】

蚊に刺された程度だが、忘却体の注意がこちらに向いた。目がない顔が——トワに向いている。

「こっちだ、デカブツ!」

回廊を走った。柱から離れる方向に、忘却体が追ってくる、水面を割りながら。

柱からは離れたが——回廊の先は行き止まりだ。橋は落ちた、他の柱に渡れない。

回廊の端、黒い水、忘却体が正面から迫る。

「トワ——!」セレスが叫んだ。

「ルーナ。影でこいつの動きを——」

「やる!」

ルーナの影が水面を走った。忘却体の身体に影が絡みつく。——だがでかすぎる。三十メートルの身体を止めるには影が足りない。

「だめ、止まらない!」

「止めなくていい、時間を稼げ! 一秒でいい!」

ルーナの影が忘却体のヒレに絡みついた。ヒレの動きが一瞬だけ鈍る。

その一秒で——トワは回廊の縁から跳んだ。

黒い水に向かってではない。忘却体の身体に向かって。

「トワさん、何を——!?」

【果ての道標】を槍に切り替えた。空中で、忘却体の身体に——突き刺した。柄が半分まで沈む。

忘却体の身体はゼリーのような質感だった。刺さって、それが足場になる。

槍の柄に足をかけた。忘却体の身体の上に——立った。

【浸蝕度 +6%(忘却体との直接接触)】

浸蝕度が跳ね上がる。長くは持たない。

「ハル! こいつの怒りの記憶の中に、何か別のものがないか! 怒りの他に——!」

「全力で探します!」

ハルが導師スキャンの出力を上げた。忘却体の記憶を掘り下げる。怒りの層を突き抜けて——その下にあるもの。

「ありました——! 怒りの下に——悲しみ。海の記憶。広い海を泳いでいた記憶。——仲間がいた。たくさんの仲間と一緒に泳いでいた。仲間がいなくなった。だから怒ってる——寂しくて、怒ってるんです!」

「なるほど……寂しさ、か……」

見聞録を開いた。海の記憶。トワの見聞録に蓄積された海のデータ。

ダリオの航海。マリドゥスの背に乗って渡った海。海底洞窟。海神の水晶。星珊瑚の夜景。波の音。潮の匂い。

全部出した。

忘却体の身体の上から——見聞録の海の記憶を、全方位に投影した。

海が——広がった。

黒い水の上に、青い海が重なった。波が立った。太陽の光が水面を照らした。——深淵にはないはずの太陽の光が。

忘却体の動きが——止まった。

翼のヒレが止まった。身体が弛緩した。怒りが——溶けていく。

「トワさん……まさか、【泳いでいた記憶】を見せたんですか」

「ああ、泳いでいた海を見せた。——一人じゃなかった頃の海を」

忘却体の身体が——震えた。怒りではない、別の震えだ。

その時、水面が共鳴した。低い音が、前回の忘却体と同じような——声ではない音。

泣いている。

忘却体が——泣いている。

セレスが月光を放った。銀色の光が忘却体を包む。

「だいじょーぶ。もう、おこらなくていーよ」

そして忘却体が、黒い水の中にゆっくりと沈んでいった。

最後に——水面が一瞬だけ光った。

【忘却体(攻撃型)が安定しました】

【「記憶の断片」を入手しました】

【断片の内容:かつて世界の海を泳いでいた巨大な生き物たちの記憶。仲間と共に泳ぎ、歌い、潜った者たちの記憶】

トワが水面に着地した。忘却体の身体がなくなったので、足元は黒い水だ。歩き続ける。止まれない。

【浸蝕度:58%】

「58%——」

「戻りましょうか」

「いや……柱の遺構を、もう少し調べたい」

崩れた橋の代わりに、別のルートで三本目の柱に戻った。五本目、六本目の柱を回った。それぞれの柱に——同じ読めない文字がびっしりと刻まれている。

七本目の柱。最後の柱。

ここだけ——他の柱と違った。

柱の根元に、扉があった。

小さな扉。柱の中に入れる。

「入りますか」

【浸蝕度:64%】

64%。画面の端にノイズがちらつき始めている。

「……入る。——短時間で終わらせる」

扉を開けた。

柱の内部は——空洞だった。螺旋階段が上に向かって伸びている。逆さまの塔の逆——今度は上に昇る。

だが、昇る時間はない。

階段の入口に——アルヴァの文字が刻まれていた。

【「柱の上に登った。世界の全てが見えた。——登るな。見てはいけないものがある」】

「見てはいけないもの——」

「登るな、って書いてありますね」

「ああ。——今日は登らない。浸蝕度も限界だ。次に来る」

柱の扉を閉めた。

「帰ろう」

帰り道。

別ルートで橋を渡り、忘却の海を戻り、逆さまの塔を通過し、沈降門を越え、沈殿層を抜けた。

深度3のパン屋。

「いらっしゃい。パンはいかがですか」

セレスが手を振った。

「またね。きょうは、おおきいのが、ないてたよ」

NPCは反応しなかった。

門から出た。光と音が戻った。

【深淵探索を終了します】

【今回の到達深度:世界の柱(深度75相当)】

【新発見:世界の柱(七本柱)、忘却体(攻撃型)の鎮静化】

【記憶の断片:3/5】

「記憶の断片が三つになった。あと二つで——ステータス補正が入る」

「次は——柱の上ですか」

「アルヴァは登るなと書いていた」

「登りますよね」

「……登る」

「ですよね」