軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

【忘却の海】

五度目の突入。沈殿層は三十分で通過した。

道を覚えている。道標の位置を覚えている。捕食者の倒し方を覚えている。六度も七度も潜れば、いずれ十分で抜けられるようになるだろう。

沈降門を越えた。

星空が広がった。逆さまの空。上にも下にも星がある。見えない地面の上を歩く。もう、足が震えなかった。

そして逆さまの塔を通過。塔の中で浸蝕度の蓄積が半減するので、ここで小休止を入れた。タマキが、全員のステータスを確認する。

「浸蝕度、全員25%以下。——前回よりだいぶ余裕があります。『深淵の腕輪』と『深淵の露』の効果が効いてますね」

「よし。——忘却の海に向かう」

地図を開いた。逆さまの塔から先。星空のフィールドを南——コンパスが使えないので、便宜的に塔の扉と反対側を「南」と呼んでいる——に進むと、忘却の海がある。

星空の間を歩いた。

流星が降ってきた。三発、全弾避けた。穴の位置を覚える。帰り道に踏まないように。

「師匠、星空の色が変わってきました!」

ハルの言う通り、紫だった星空が——青に変わっていく。

そして、足元の感触が変わった。

硬い地面だったのが——柔らかくなった。ぬるい。温度がある。

「トワさん、足元が——」

「水だ」

見えない地面の上に——水が張っていた。数ミリ。足首にも届かない浅い水。だが水面に星空が映っている。上の星空と、水面に映る星空。三枚の星空に挟まれている。

「三重の星空——」

水の深さが……少しずつ増していく。足首。脛。膝。

「深くなってる——」

「止まるな。歩き続けろ。【沈降現象】がここでも起きる可能性がある」

歩き続けた。水がくるぶしを超えた辺りで——止まった。これ以上、深くならない。

そして前方に見えた。

水平線。

星空の下に、水の地平線が広がっている。波がない。風がない。鏡のように静かな水面が——どこまでも続いている。

水面に星が映っている。上の星と下の星の区別がつかない。

【「忘却の海」に到達しました】

【深度:63】

【このエリアは水上を移動します。水中に沈むと、浸蝕度が急速に上昇します】

「水上を移動——沈んだらアウトか」

「泳ぎますか?」タマキが聞いた。

「泳ぐ必要はない。水面を歩ける」

「歩ける——?」

足を踏み出した。水面の上に——立てた。沈まない。星巡りの靴が淡く光っている。

【忘却の海の水面は、移動し続ける者を支えます】

【ここでは水上歩行が可能です。ただし、立ち止まると沈降が始まります】

「また、止まったら沈むシステムか」

「歩き続ければいいだけだろ。何より、お前は旅人なんだから」ゼクスが言った。

「ああ、もちろんそのつもりだ」

忘却の海の上を歩き始めた。

辺りは静かだった。完全な無音ではない。水の音がする。自分の足が水面を踏む、微かなぴちゃぴちゃという音。

「静かですね」ハルが囁いた。

「ああ」

「でも、深淵の無音とは違う静けさですよね」

「ああ、穏やかだな」

「はい……穏やかで、怖くない静けさです」

海は穏やかだった。波がない。風がない。冷たくもない。温度がない、属性がない、ただの水。

何も映らないはずの水面に、星空だけが映っている。

忘却の海を歩いて二十分。

何もなかった。モンスターもいない。建物もない。ただ海が広がっている。

「師匠……ここには、何もないですね」

「そのようだな」

「何もないエリアってあるんですか? MMO的に」

「あまりない。——だが、深淵はMMOの常識が通じない場所だ」

「何もないことが不気味、ってことですか」

「そうだ。——何かがあるはずなのに、ない。それが一番不気味だ」

突然、足元の水が大きく揺れた。

水面の下で……何かが動いている。

「全員、止まれ」

「でも、止まったら沈みます!」

「足踏みでいい。移動するな」

全員がその場で足踏みした。水面がぴちゃぴちゃ鳴る。

水の下に——影がある。大きな影。十メートル以上。ゆっくりと、足元を通過していく。

「……でかいな」ゼクスが見下ろしていた。

「何ですか、あれ——?」

「わからない、スキャンする」

【深読み】でスキャンした。

——反応がおかしい。

モンスター反応ではない。NPC反応でもない。環境反応でもない。スキャンの『結果』自体が——不規則になっている。一瞬ごとに結果が変わる。魚に見えたり、鯨に見えたり、建物に見えたり、人間に見えたり。

「スキャンが安定しない……一瞬ごとに、結果が変わる」

「形が変わってるんですか?」

「形が変わっている。——あるいは、 形(・) が(・) 定(・) ま(・) っ(・) て(・) い(・) な(・) い(・) 」

【未知の存在を検出しました】

【分類:忘却体】

【レベル・HP・属性:測定不能】

【忘却体は形状が不定です。攻撃的な個体と非攻撃的な個体が存在します】

「【忘却体】——」

水の下の影が浮上してきた。

水面が盛り上がり、水が割れる。——何かが、顔を出した。

顔、ではない。「面」だ。表面と言うべきか。半透明の、ゼリーのような塊が水面から突き出ている。形が定まらない……球だったのが、次の瞬間には柱になり、その次には花のように広がった。

そして——目が開いた。

正確には、「目のようなもの」が、塊の表面にいくつも浮かんでは消えた。三つ開いて、二つ閉じて、別の場所に四つ開く。

「……気持ち悪いですね」タマキが正直に言った。

「ああ、気持ち悪いな」トワも正直に言った。

忘却体は、攻撃してこなかった。

水面からこちらを見ている。目のようなものが、全員を順番に見ていく。じっと、値踏みするように。あるいは——思い出そうとするように。

「攻撃してきませんね」

「システムメッセージに『攻撃的な個体と非攻撃的な個体がいる』と書いてあった。——こいつは非攻撃的な方だろう」

忘却体が声を出した。水面を震わせて、音を発生させている。低い音……言語ではない——それでも、何かを伝えようとしている。

「何か、言ってる——?」

「みたいだな。見聞録で、音声パターンを解析してみる」

スキャンした。ノイズが多い。精度62%。だが音声パターンの断片が——拾えた。

「……『覚えていない』」

「え?」

「こいつが発している音のパターンを翻訳すると——『覚えていない。何も。自分が何だったか、覚えていない』」

忘却体。忘れられた存在が深淵で融合したもの。自分が何だったかを——忘れている。

「かなしい」セレスが呟いた。

「ああ」

「たすけられる?」

「わからないが、試してみる」

見聞録で忘却体の構造を読んだ。精度が低いが、忘却体が発する音のパターンの中に、断片的な情報がある。

獣の記憶。山の記憶。雪の記憶。

「こいつの中に——『雪山の獣』の記憶がある。恐らくそれは、エルシオンの——」

「エルシオンの獣——?」

「断片的だからわからないが……雪山だ。白い毛で、四足歩行で、大きい」

「それって——オルグレンですか?」ハルが目を丸くした。

「オルグレンかどうかはわからない。だがオルグレンと同種の——雪山の獣王の記憶が、こいつの中に眠っているようだ」

見聞録に蓄積されたエルシオンのスキャンデータ。獣王たちのデータ。オルグレンの体毛のパターン、足跡のリズム、吠え声の周波数。

「見聞録のデータを——投影してみる」

見聞録から、エルシオンの獣王のスキャンデータを取り出した。オルグレンの映像。雪原を走る白い狼。吹雪の中で吠える声。

そのデータを、忘却体に向けて投影した。光の映像が、水面の上に浮かんだ。

忘却体の目が——全て、映像に向いた。

十個。二十個。全ての目が——オルグレンの映像を見ている。

そして——忘却体の形が変わった。

ゼリーのような不定形が——四足の獣の形を取り始めた。ゆっくりと、不完全に。

左前脚が大きすぎて、右後脚が小さすぎる。尻尾が三本ある。だが——獣の形だ。

忘却体が——吠えた。

水面が震えた。波が広がった。低い声で、オルグレンの咆哮に……少しだけ似ている声。

「思い出して——る?」

「ああ、完全にではないが……自分が『獣だった』ことを思い出しかけている」

忘却体の形が——安定していく。三本だった尻尾が一本になった。前脚の大きさが均等になった。

そして——忘却体が、トワを見た。

目のようなもの全てが、トワを見ている。

音が出た。水面が震えた。

「……『ありがとう』」

忘却体が——水中に沈んでいった。ゆっくりと水面が閉じて——波紋だけが残った。

後に、小さな光の粒が浮かんでいた。

【忘却体が安定しました】

【「記憶の断片」を入手しました】

【断片の内容:かつて世界に存在した獣の種族の記憶。雪山を駆け、風と共に吠えた者たちの記憶】

【戦闘を行わずに忘却体を鎮めました。称号「記憶の返却者」を取得しました】

【称号効果:忘却体との遭遇時、敵対確率がかなり低下します】

「戦闘なしで……称号が出たぞ」

「しかも、忘却体との敵対確率が低下する——これ、すごくないですか」

「すごい。——深淵では『倒す』以外の解決法があるようだな」

「かつての記憶を思い出させることで、忘却体が自分を思い出すようですね」

「データを食われるのが捕食者なら、データを渡すのが忘却体への対処法か。——対称的だな」

「師匠の知識は、奪われもするし、救いにもなりますね!」

「大げさだ」

「大げさじゃないです! 今日のことも、全部メモしますから!」

「恥ずかしい、メモするな」

忘却の海をさらに進んだ。

二体目の忘却体が水の下を通り過ぎた。こちらは浮上せず、そのまま去っていった。称号効果かもしれない。敵対確率が低下している。

そして……海の向こうに、何かが見えた。

島だ。

忘却の海の中に、小さな島が浮かんでいる。白い砂浜。——砂浜の上に、小屋が一軒。

「アルヴァの休息所——?」

島に上がった。水面から砂浜に足を移す。久しぶりの固い地面。足裏が安心している。

小屋の扉を開けた。

【「アルヴァの休息所・第三」を発見しました】

中は——今までの休息所とは違った。

壁に日記が刻まれているのは同じだ。だが量が違う。壁一面に文字が刻まれている。びっしりと。

「これ——全部アルヴァの日記ですか」

「読む」

見聞録で壁の文字を一括スキャンした。

【「一度目の降下、二十一日目。忘却の海に到達した。美しい場所だ。星空と水と、静けさ。ここに住みたいと思った。——だが住んではいけない。深淵は美しいが、ここにいるものたちは忘れられた存在だ。美しさに騙されてはいけない。」】

【「二十三日目。忘却体と出会った。最初は怖かった。形が変わる。何だかわからない。だが——話しかけてみた。すると反応した。こいつらは敵ではない。忘れた自分を探しているだけだ。——わたしの記憶を見せたら、少し落ち着いた。記憶を返すことができるのかもしれない。」】

「——アルヴァも同じことをしていたのか」

「記憶を見せて、忘却体を鎮めた。——千年前の旅人も、同じ答えに辿り着いていたんですね」

【「二十五日目。忘却の海の先に、何かがある。大きな構造物。だが——遠い。海を越えなければ辿り着けない。明日、向かう。」】

【「二十八日目。到達した。」】

二十八日目の記述は——それだけだった。「到達した」の一言。何に到達したのか、書いていない。

「いったい、何に到達したんだ——?」

「この続きはないんでしょうか」

「ない。——この壁には、ここまでしか刻まれていない」

「もしかしたら……次の休息所に、続きがあるのかもしれませんね」

次の休息所。忘却の海の先。アルヴァが「大きな構造物」と書いたもの。

地図を開いた。深度41〜80のマップ。忘却の海の先に——確かに何かがある。マップには名前が書かれていない。ただ大きな影が描かれているだけ。

「名前がない構造物——」

「行ってみないとわかりませんね」

「ああ。——だが今日はここまでだ」

【浸蝕度:44%】

「余裕はあるが——忘却の海を戻る時間を考えると、これ以上は危険だ」

「帰り道も海ですもんね。止まったら沈むし」

「帰ろう」

休息所を出た。砂浜から水面に戻る。

帰り道。足跡の光が水面に波紋を作っている。行きの足跡と帰りの足跡が交差して、水面に格子模様の足跡がきらきらと光っていた。

「きれい——」セレスが見つめた。

「ああ、きれいだな」

「しんえんって——こわいけど、きれいなところもある」

「俺もそう思う」

「こわいのと、きれいのは、いっしょにそんざいできの?」

「おそらく、ここではそうだな。いや——たぶん、どっちかだけじゃ存在できない」

「ふうん。セレスのてーりに、ついか」

「何を追加するんだ?」

「こわいものと、きれいなものは、いっしょにいる。てーり」

「……悪くない定理だな」

「でしょ」

沈降門を通過。沈殿層を抜けて、門から出た。

光と音。始まりの町。BGM。

音があるだけで——帰ってきた、と思える。

【深淵探索を終了します】

【今回の到達深度:忘却の海の島(深度70相当)】

【新発見:忘却の海、忘却体(非戦闘解決)、アルヴァの休息所・第三】

【称号「記憶の返却者」を取得済み】