作品タイトル不明
[七百メートル]
踏破率100%を達成した翌日。
トワは大湖アルケオンの湖畔に立っていた。対岸は見えない。もはや内海と呼ぶべき広さだ。
隣にいるのは、セレス。ルーナ。ゼクス。アストレア。タマキ、ダリオ。
「全チーム集合の指示を出したが、心臓に行くのは七人でいい。大人数で深度七百メートルに潜る方法はないし、心臓に触れるのは俺だけでいい」
「残りのメンバーは、どうしますか?」タマキが聞いた。
「湖畔で待機、万が一何かあった時の予備戦力だ。ハルに全チームの指揮を任せてある」
チャットがちょうど届いた。
ハル:「師匠。こちらは大丈夫です。湖畔に全チーム配置完了しました。お気をつけて!」
トワ:「ああ。留守を頼む」
ハル:「留守番は導師の本業です。いえ……本業は、師匠の弟子です」
トワ:「弟子ではないと、何度言えば」
ハル:「何度でも、言いますよ。わたしは、師匠の弟子ですから!」
トワはふっと鼻で笑った。悪くなさそうな表情。
ゼクスが腕を組んだ。
「行くか」
「行く。──ダリオ、マリドゥスを」
ダリオが口笛を吹いた。湖面が揺れる。深い場所から、碧い光が浮かび上がってきた。
水面が割れた。
淵鯨のマリドゥス。四十メートルの巨体が半透明の水をまとって浮上する。碧い光を放つ鯨。第三位階の獣王。
「マリドゥス。今日は深度七百メートルまで潜る。鯨タクシーで全員を運んでくれ」
「鯨タクシーではないが……七百メートルは、わたしの通常活動域の限界だ」
「無理ということか?」
「無理ではないが、体内の気泡の維持が難しくなる。深度五百を超えると水圧が気泡を圧縮する。六百を超えると、一人分の気泡しか維持できない」
「七人を一度に運べないということか」
「二往復する。一度目に四人、二度目に三人。それが限界だ」
タマキが手を上げた。
「深潜薬があります。深度五百メートルまでの水圧に耐えられる薬です。これを飲めばマリドゥスさんの気泡の負担が減るのでは」
「深潜薬を飲んだ状態なら、気泡なしでも五百メートルまでは生存できる。つまり、五百から七百の二百メートル分だけ、気泡が必要になる」
「二百メートル分の気泡なら、全員分を一度に維持できるか」
マリドゥスが考えた。鯨が考えると湖面全体が揺れる。
「できる。全員が深潜薬を飲んでいれば、七人分の気泡を七百メートルまで維持できる」
「決まりだ。タマキ、全員分の深潜薬を」
「はい。七人分。──あ、トワさん、マリドゥスの分は要りませんよね。鯨ですから」
「鯨に薬を飲ませる方法があるなら聞きたい」
「口を開けてもらって、上から投げ込むんです!」
「やめろ」マリドゥスが言った。「第三位階に薬を投擲するな」
「冗談ですよ。──はい、七人分」
タマキが全員に深潜薬を配った。碧い液体。飲むと皮膚が微かに光る。水圧への耐性が身体を覆う。
セレスがトワの肩の上で薬を飲んだ。小さな瓶を両手で持って、ごくっと一口。
「にがい」
「良薬は口に苦い」
「くすりはにがくていー。おかしはあまくていー。まぜたら、だめ」
「ああ、混ぜないさ」
アストレアも薬を飲んだ。
「聖騎士の鎧は、水中でも脱ぎません」
「鎧のまま、七百メートルに潜るつもりか?」ゼクスが呆れた。
「ええ、これも矜持です」
「矜持で溺れるなよ」
「聖騎士は溺れません」
「なら泳げるのか?」
「泳げません。ですが沈みます、鎧の重さで」
「それは潜水ではなく沈没だ」
「沈没も潜水の一形態です」
「違う」
ルーナが影の中から声を出した。
「わたしは影で移動できるから、気泡は要らない。水中の影を伝って、降りる」
「深度七百メートルに影はあるのか」
「光がある限り、影はある。マリドゥスの身体が発光しているから、鯨の影を伝えば底まで降りられる」
「合理的だな」
「夜の精霊は合理的。──月も星も、無駄に光らない」
全員の準備が整った。マリドゥスの身体に乗る。鯨の背中は広い。四十メートル。パーティ全員が余裕で立てる。
「潜る。全員、覚悟はいいか」
「覚悟は常にできています」アストレアが言った。
「おれは覚悟とか考えない。面白そうだから潜るだけだよ」ダリオが気さくに笑った。
「ああ、同感だ。覚悟は必要ない」ゼクスが言った。「お前についていくだけだ」
「わたしも」ルーナが言った。
「セレスもいく。トワといっしょ」
「薬は十分です。行きましょう、トワさん」
「マリドゥス。潜れ」
鯨が沈み始めた。
◇
深度五十メートル。
水が青い。湖の表層。太陽光が水中に差し込んで、青と緑の光の柱が揺れている。魚の群れが横を通り過ぎた。銀色の鱗。
「綺麗だな」ダリオが言った。「何度潜っても、アルケオンの水は綺麗だ」
「水質が特殊だ。七属性の気脈が大湖の底で合流している。不純物が属性エネルギーで浄化されている」
「トワさん、水中でも解説するんですね」
「情報は常に有用だからな」
深度百メートル。
太陽光が弱くなる。水の色が濃い青に変わる。マリドゥスの身体が発光を始めた。碧い光が水中を照らす。鯨の光。
セレスがトワの肩の上で目を輝かせた。
「マリドゥスひかってる。きれい」
「お前も光っているぞ。月光が漏れているのではないか」
「もれてない。これはおしゃれ」
「月光をおしゃれに使うな」
深度二百メートル。
光がほとんど届かない。暗い。マリドゥスの発光と、セレスの月光だけが世界を照らしている。ルーナが鯨の影の中を泳いでいる。
水圧が強くなってきた。深潜薬の効果で身体は平気だが、耳に圧力を感じる。
「全員、状態を報告してくれ」
「問題なし」ゼクス。
「問題ありません。鎧が少しきしみますが、聖騎士の鎧は七百メートルでも壊れません」アストレア。
「大丈夫です。薬の効果は安定してます」タマキ。
「影の中は水圧がない。快適」ルーナ。
「へいきー」セレス。
「俺も大丈夫だ。航海士は水の中が仕事場だからな!」ダリオ。
深度三百メートル。
古代の水中都市の上層が見えてきた。建物の輪郭。屋根。壁。踏破作戦中にダリオの航海士チームが発見した都市だ。
「ここが水中都市か。踏破の時はデータだけ見ていたが、実際に見ると──でかいな」
「百棟以上の建物が並んでる。調和の里の前身。古代の長老たちが大湖の中に作った水中拠点だ」
「ここを通り抜けて、さらに下に潜る」
「ああ。都市の最深部に下降路がある。そこから七百メートルまで一直線だ」
水中都市を通過した。建物の壁に七属性の紋章が浮かんでいる。調和の里と同じ様式。千年以上前の建造物。
深度四百メートル。
水圧がさらに増す。マリドゥスの気泡が全員を包み始めた。深潜薬だけでは限界の領域に近づいている。
「ここから先は、気泡の中にいろ。全員、マリドゥスの体内に入るぞ」
マリドゥスの身体が透明になり、内部に空間が開いた。一人ずつ鯨の体内に入る。
セレスがトワの肩から降りて、気泡の中をふわふわ漂った。
「マリドゥスのなか、あったかい」
「鯨の体温だ。第三位階の獣王の身体は属性エネルギーで温められている」
「くじらのおなかのなか。ピノキオみたい」
「ピノキオは木の人形だが、お前は精霊だろ」
「せーれーのピノキオ」
「意味がわからない」
「だめ。わからないと、だめ」
「……そうか」
深度五百メートル。
ここから先は完全な暗闇。太陽光が一切届かない。マリドゥスの発光だけが世界。
壁に何かが刻まれていた。下降路の壁。古代文字。見聞録で翻訳。
【「この先、大陸の心臓。世界を知る者のみ、触れることを許される」】
「踏破率100%の条件は、ここに書いてあったのか」
深度六百メートル。
心臓の鼓動が聞こえ始めた。
どくん。
二十九秒周期。速い。正常の六十秒の半分。大陸獣の心臓が速く打ちすぎている。
セレスが耳を押さえた。
「おおきー。どくどくいってる」
「心臓が近い。精霊は属性エネルギーに敏感だから、鼓動を直接感じるんだろう」
ルーナも反応していた
「引っ張られる。心臓の方に。精霊の身体が──引力を感じる」
「でしたらこれを! このために、用意しておきました!」
タマキが小さな瓶を取り出した。琥珀色の液体。
「属性安定薬です。精霊の属性エネルギーの揺れを抑えます。セレスちゃん、ルーナちゃん、飲んでください」
「にがい?」
「甘いです。セレスちゃん用に蜂蜜を入れました!」
「タマキ、やさしい」
セレスとルーナが薬を飲んだ。引力が弱まる。
「タマキ。こんな薬、いつ作ったんだ」
「昨日の夜です。精霊が心臓の近くで属性引力を受ける可能性は高いと思っていたので。蠍殺しの団子の応用で、属性エネルギーの流れを遮断する成分を使いました」
「相変わらず優秀だな」
「薬師ですから。──トワさんのパーティの薬師ですから」
深度七百メートル。
マリドゥスが止まった。
「ここだ」
鯨の体内から外を見た。
暗闇の中に、巨大な光が脈打っていた。
赤い光。橙の光。黄色の光。緑の光。青い光。藍の光。紫の光。七色の光が順番に脈打っている。二十九秒周期で。
大陸獣エルシオンの【心臓】。
それは──岩ではなく、金属でもなく、結晶でもなかった。
巨大な球体。直径二十メートル。七色に光る球体が、暗い湖底で脈打っている。球体の表面を光の波が走り、波が通過するたびに色が変わる。赤。橙。黄。緑。青。藍。紫。七つの属性が順番に表面を流れている。
球体の周囲の水が、鼓動に合わせて揺れている。どくん、と打つたびに水が押し出される。心臓のポンプ。この鼓動が大陸の川を流し、気脈にエネルギーを送り、七つのエリアに属性を供給している。
「これが──【心臓】」
アストレアが呟いた。
「美しいですね……」
ゼクスが言った。
「でかいな」
ダリオが言った。
「こいつが、俺たちが歩いてた大地の心臓か」
セレスがトワの肩に戻って、心臓を見つめた。
「どくどくいってる。──はやい。くるしそう」
「苦しそうか」
「うん。いきがはやいひとみたい。はしったあとみたい」
「走った後か。──そうだな。調律者がいなくなって、ペースメーカーを失った心臓が自力で拍動を維持しようとしている。だから速い。頑張りすぎている」
「がんばりすぎてる」
「だから、俺たちが来た。これ以上、大陸獣が頑張らなくていいように」
臍(へそ) の結晶を取り出した。手のひらサイズの七色の結晶。心臓と同じリズムで脈打っている。二十九秒。
「マリドゥス。【心臓】の前まで寄せてくれ」
鯨が【心臓】に近づいた。七色の光が気泡の中に差し込む。
「トワ。わたしはこれ以上近づけない。心臓の属性エネルギーが強すぎて、身体が分解される」
「ここでいい。ここから俺が泳ぐ」
「トワさん、七百メートルの水中で泳ぐんですか?」
「深潜薬がある。あとは──足で歩く」
「水中で……歩くんですか?」
「水底を歩く。いつもと同じだ、足で歩く」
気泡から出た。深潜薬が身体を守っている。水圧は感じるが、動ける。
水底に足をつけた。泥。冷たい。だが足の裏に感触がある。七千時間歩いた足。水の中でも歩ける。
心臓に向かって歩いた。
一歩ごとに光が強くなる。臍の結晶が共鳴して震えている。
心臓の前に立った。二十メートルの球体。目の前で脈打っている。
どくん。どくん。どくん。どくん。
手を伸ばした。
臍の結晶を持った手が、【心臓】に触れた。
──世界が、白くなった。