作品タイトル不明
冬の海
現実世界。二月下旬。
土曜日。宮瀬が計画した日帰り旅行の日。
電車で一時間半。海沿いの町に着いた。冬の海。人がほとんどいない。灰色の空。風が冷たい。波の音だけが聞こえてくる。
「寒い……ですね……」
「二月に海は寒いと言っただろう」
「寒いけど、来たかったの。──ほら、見て」
宮瀬が砂浜に立って、水平線を指差した。
「BCOの海とは全然違うでしょ」
「違う。BCOの海はエメラルドで、七属性の光が溶けていて、虹色の魚がいる。現実の冬の海は──灰色だ」
「灰色だけど──きれい。わたしは、灰色の海の方が好き」
「なぜ、そう思う?」
「完璧じゃないから。BCOの海は綺麗すぎて……作り物って感じがする時がある。現実の海は不完全で、荒くて、寒くて……でもね、そこがいいの」
「不完全が好きなのか」
「うん、不完全なのが好き。──久坂くんも、不完全でしょ。七千時間ゲームやってるのに、現実ではりんご飴の食べ方が下手だもん」
「りんご飴の食べ方に、上手いも下手もないだろう」
「あるの。初詣の時、飴が割れて、ズボンに落ちてたよ?」
「……あれは事故だ」
「事故かもしれないね。──でも、やっぱりそこがいいね」
砂浜を歩いた。二人並んで。足跡が砂に残る。波が来て、足跡を消していく。
「久坂くん。足跡、すぐ消えるね」
「砂浜の足跡は消える。──BCOの星巡りの靴は、光る足跡が残るが」
「現実には光る足跡はないけど……記憶には残るよ。わたしの記憶に」
「お前の記憶力は、俺より高いかもしれないな」
「高いよ。──久坂くんのこと、全部覚えてるもん」
堤防に座った。冬の海を見ている。カモメが飛んでいる。
宮瀬が水筒からお茶を注いだ。二人分のカップ。
「自分で淹れてきたの。──ハーブティー。BCOのマーサさんのレシピを参考にした」
「マーサのレシピを現実に持ってくるのか」
「星果実の代わりにゆずを使って、星の粉の代わりにシナモン。──構造は同じ、素材が違うだけ」
飲んだ。温かい。ゆずとシナモンの香りが冬の空気に混ざる。
「美味い」
「ほんと?」
「ほんとうだ。──マーサより美味い」
「マーサさんに勝ったの!? すごいことだよね、それって!」
「マーサはNPCだ。現実の味覚は比較できない」
「比較してたじゃん、今」
「……してたな」
海を見ている。灰色の波。白い泡。カモメ。冬の光。
「久坂くん」
「なんだ」
「BCOでも現実でも、わたしは久坂くんの隣を歩いてる。でもね──時々思うの。わたしが歩いてるのは……久坂くんの隣なのか、トワさんの隣なのかって」
「同じだ。俺はトワで、トワは俺だ」
「わかってる。でも──ゲームの中のトワさんは、七千時間の英雄で、十万人を率いたMVPで。現実の久坂くんは──りんご飴を落とす大学生で」
「どっちも、俺だ」
「うん。どっちも久坂くん。──わたしは、りんご飴を落とす方の久坂くんの方が好き」
「りんご飴を基準にするな」
「する。──だって、りんご飴を落とす久坂くんが、わたしの彼氏だから。十万人のMVPじゃなくて」
「……ああ。俺も、BCOの薬師よりも、ゆずのハーブティーを淹れるお前の方が好きだ」
宮瀬が、カップを両手で包んだまま、しばらく黙った。
「……今の、覚えておく。一生」
「一生は長いぞ」
「長くていいの。全部覚えるから」
冬の海。灰色の波。ゆずの香り。二人の足跡は波に消えたが、この日のことは──消えない。