作品タイトル不明
水族館と深い森
日曜日。九月の半ば。
水族館は涼しかった。外はまだ残暑が厳しいが、館内は冷房が効いている。青い照明。水槽のゆらめき。
冬夜と宮瀬が、大水槽の前に立っていた。
「きれい──」宮瀬がガラスに顔を近づけた。「エイがゆっくり泳いでる。BCOの星海鯨みたい」
「星海鯨は、もっと大きいぞ」
「そりゃそうだけど、雰囲気が似てるの。ゆったりしてて、光が透けて……」
大水槽の中を、マンタが悠然と泳いでいく。青い光の中を。──確かに、星海鯨に似ていた。スケールは違うが……雰囲気が。
「ねえ、久坂くん」
「なんだ」
「久坂くんってさ、ゲームの中では七千時間歩いてるけど、リアルではどれくらい歩いてるの?」
「数えたことはない」
「じゃあ、これからは数えてみない? わたしと一緒に歩いた距離」
「歩いた距離を、数えるのか?」
「うん。今日の水族館もカウントするの。──デートの累計歩数。いつか七千時間に追いつくかもよ」
「リアルで七千時間歩くには……一日八時間歩いても、三年近くかかるぞ」
「じゃあ、三年歩こう。毎日じゃなくていいから。週末だけでも」
「三年後に、まだ一緒にいる前提か」
「当然でしょ。ずっとって、言ったじゃん」
「……ああ。言った」
クラゲの水槽の前に来た。半透明の身体が、青い光の中でゆらゆら揺れている。
「久坂くん。──あのクラゲ、星水母に似てる」
「星水母はもっと光る。それに感電する」
「リアルのクラゲも刺すよ」
「そうだな。同じか」
「ゲームも現実も、クラゲは危ないんだね」
「クラゲの普遍性だな」
「何その哲学。──クラゲの普遍性って」
二人で笑った。冬夜が声を出して笑ったのを、宮瀬は見逃さなかった。
「久坂くん──今笑った。声に出して」
「笑ってない」
「笑った! わたし聞いたもん、レア度SSSS!」
「Sが一つ増えているぞ」
「だって、図書館で笑った時よりレアだもん。水族館で笑った久坂くんは、新種の久坂くん」
「新種とは何だ……?」
「BCO風に言うと──【水族館の久坂(レア度:伝説)】」
「やめろ」
宮瀬が楽しそうに笑っている。冬夜は、その笑顔を見て、もう一度口元が緩んだ。今度は隠さなかった。
◇
月曜日。ログイン。
南の星峰に向けて出発した。ルートは──オルテリアから南西。途中に「深星の森」と呼ばれる深い森を抜ける必要がある。
【深星の森に入りました】
【アストラム踏破率:28.6%】
森は深かった。木の高さが五十メートル以上ある。地面に光がほとんど届かない。だが、暗くはない。木々の幹に星の苔が生えていて、自ら淡い光を放っている。無数の小さな星が、森の中に浮かんでいるような景色。
「きれい……」タマキが見上げた。「苔が光ってる、プラネタリウムみたい」
「プラネタリウムって何?」リーリアが聞いた。リーリアはオルテリアから同行していた。「南の星峰の道案内をする」と言って。
「星を映す──えっと、機械? リーリアちゃんの世界には、ないよね」
「ないけど、星を映すものなら、ここにあるよ。この苔が、夜空を映してるの。上を見て」
見上げると……木々の隙間から空は見えないが、苔の配列が、夜空の星座と同じパターンを描いていた。
「苔が──星座を映している!?」
「この森は、星の力が特に強い場所。地面の星が空の星と呼応して、同じ形になるの」
「天然のプラネタリウムか」ゼクスが見上げた。「悪くない景色だ」
テンがブーツの上で触覚を動かしている。光っていない。闇の気配はなし。この森は安全らしい。
「テン……ここは大丈夫そうだな」
テンが一回だけ光った。嬉しい時の光。テンも、この森が好きらしい。
森のモンスターが出現した。
【 星灯蛍(せいとうほたる) Lv85 HP:65,000 ×300体以上 ──群れ・非敵対】
「蛍──! ものすごい数──!」
光る蛍が──数百匹、森の中を飛んでいる。星の光を帯びた蛍。非敵対。攻撃してこない。
「非敵対の群れか。攻撃の必要はないな」
「攻撃しなくていいモンスターって、新大陸多いですよね」ハルが蛍を見つめた。
「この大陸のモンスターは、半分が非敵対だ。星の循環の一部として存在していて、人を襲う理由がない」
「表の世界のモンスターとは、根本的に違うんですね」
「ああ……この大陸は、人とモンスターが共存している。それが、星の文化だ」
タマキが蛍の一匹に手を伸ばした。蛍がタマキの指先に止まった。
「わ──止まった! 見て、かわいい!」
「タマキさん、好かれてますね」ハルが笑った。
「薬師だからかな。生き物って、薬師の匂いがわかるのかも」
「薬師の匂いってあるんですか?」
「あるよ。マーサさんも言ってた。薬師は調合の匂いが身体に染みつくって。それが、生き物に安心感を与えるんだって」
「タマキのにおい……たしかに、あまいにおいがする」セレスが鼻をくんくんさせた。
「それは、昨日作った星果実のジャムの匂いです」
「ジャムのにおい。──いいにおい」
「セレスちゃんにも、あげようか?」
「ほしい!」
「はいどうぞ。──あ、エリーのパンに塗ると美味しいよ」
「エリーのパンにジャム! さいきょーのくみあわせ!」
セレスがジャム付きパンを齧りながら、蛍の群れの中をトワの肩の上で通過していく。光る蛍に囲まれた妖精が、パンを食べている。
深星の森を抜けると視界が開けた。南の方角に、なだらかな山が見える。南の星峰。標高四千メートル。
「あれが……最後の山か」
「最後の山。終わりの山」リーリアが呟いた。「北は始まり、東は試し、南は終わり。あなたの旅も、ここで一つの区切りがつく」
「区切りか。終わりではないが」
「うん。区切り。終わりじゃなくて、次の始まりのための区切り」