作品タイトル不明
第九十五話 サニーボーイ
『さあ宝塚記念、スタートしました!好スタートを切ったのはサニーボーイ!サニーボーイが行きます!』
実況の声が遠くで弾む。
そうだ。
「よっしゃあああああ!!」
叫ぶ。
横から一頭、前へ行きたそうな馬がちらっと来た。
「譲れ、サニー!」
「嫌だ!!」
「即答かよ!」
「逃げるのは俺の仕事だ!!」
無理はしない。
でも、譲らない。
騎手もわかってくれている。
行くべき時に行かせてくれる。
いい人だ。
好きだ。
こういう人間は、すごく好きだ。
「大丈夫だ、サニー。楽しく行こう」
おう。
任せろ。
楽しく行って、勝つ。
最高じゃないか。
向こう正面。
観客席の歓声が横を流れていく。
まだ最初なのに、もう熱い。
人間たちも、今日のレースがただの一戦じゃないとわかっているんだろう。
『サニーボーイ、快調に飛ばしていきます!後続との差は二馬身ほど!ゴールデンワインは三番手の外!エクリプスは中団やや後ろ、落ち着いています!』
春のグランプリ。
古馬も混ざるGⅠ。
そこに、無敗の三歳馬エクリプスが来ている。
ダービーまで全部圧勝してきた化け物が、ここにいる。
人間たちは、きっとそれを見に来ている。
でも。
ここにいるのは、エクリプスだけじゃない。
ワインもいる。
俺もいる。
他の馬たちもいる。
全員、自分のために走りに来た。
誰かの伝説を飾るために来たんじゃない。
「今日の主役は俺だ!」
俺は叫ぶ。
他の馬たちが後ろで笑う気配がした。
馬鹿にする笑いじゃない。
全員「主役は自分だ」って思ってる気配だ。
いいよな、こういうの。
三コーナー。
騎手の手綱が変わる。
合図。
ここからだ。
ここからが、本当の勝負だ。
「行くぞ、サニー!」
背中の声が、いつもより熱い。
「おう!!」
俺は答えた。
人間には聞こえないだろうけど。
たぶん、伝わっている。
『さあ四コーナーを回って直線へ!先頭はサニーボーイ!ゴールデンワインが並びかける!二冠馬とダービー馬がここで激突だ!』
ワインが来る。
横に並ぶ。
息が聞こえる。
脚音が重なる。
俺も譲らない。
「ここからだああああ!!」
叫ぶ。
身体の奥に残していたものを前へ押し出す。
ワインの声が低く響く。
「勝負だ、サニー」
「勝負だ、ワイン!」
直線。
ゴール板が見える。
短いようで、長い。
逃げ馬にとっては、永遠みたいに感じる場所。
――勝負だ!!
『サニーボーイ先頭!ゴールデンワイン並んだ!二頭の叩き合い!!』
脚の回転を上げる。
お互いの熱がぶつかる。
これだ。
これが楽しい。
先頭で一頭だけ走るのも楽しい。
でも、こうやって横に強いやつが来るのはもっと楽しい。
抜かせたくない。
負けたくない。
でも、来てくれて嬉しい。
変な気持ちだ。
でも、それが競馬なんだと思う。
並ぶ。
横一線。
観客席が爆発する。
たぶん、人間たちは今、俺たちの名前を叫んでいる。
サニー。
ワイン。
逃げる二冠馬。
迫るダービー馬。
カッコいいじゃないか!
楽しいじゃないか!!
「勝つぞ、サニー!」
「俺がな!」
「俺様だ!」
「俺だ!」
だが。
その瞬間。
外から。
何かが来た。
――速い。
違う。
速いって言葉じゃ足りない。
まるで、俺とワインの叩き合いがスローモーションみたいになる。
『外から来た!!エクリプス!!エクリプス一気に来た!!』
実況が叫ぶ。
歓声が、悲鳴に近くなる。
「……っ!」
ワインが、珍しく声にならない息を漏らした。
俺も同じだ。
だが、届かない。
並ばせてもくれない。
俺たちの勝負なんて関係ない。
――俺たちを一瞬も見ない。
そのまま、“世界ごと置いていった”みたいにゴールへ飛んでいく。
『エクリプス!!エクリプス先頭!!』
実況が壊れた声になる。
ワインが食らいつこうとする。
「待てコラ!!」
俺も脚を伸ばす。
「まだだ!!」
でも。
前に出たエクリプスは。
俺とワインを置いて。
さらに加速した。
「嘘だろ……」
ワインの声が漏れる。
俺も、同じ気持ちだった。
まだ伸びるのか。
まだ。
まだ、先へ行くのか。
『エクリプス圧勝!!これはすごい!!』
ゴール板。
エクリプスが先頭で抜けた。
『なんと三歳馬史上初の宝塚記念勝利!!そして未だ無敗!!これは皇帝を超えたか!?』
実況が叫ぶ。
観客の歓声が、また一段上がる。
俺は、その後ろでゴールした。
ワインとほとんど並ぶように。
でも、前には遠い影があった。
勝負にならなかった。
そう言いたくなるくらいの差だった。
エクリプスは、ずっと遠くにいた。
「……強ぇな」
ワインが、荒い息のまま呟いた。
その声には、悔しさがあった。
でも、それ以上に、認めざるを得ない重さがあった。
「強いな」
俺も答えた。
それしか言えなかった。
俺は、遠くにいるエクリプスを見た。
観客席から、ものすごい歓声が降っている。
エクリプス!
エクリプス!!
エクリプス!!!
勝った馬なのに。
歓声の中心にいるはずなのに。
あいつは、静かだった。
誇るでもなく。
喜ぶでもなく。
ただ、勝ったという事実を受け入れているようだった。
ワインが少しだけこちらを見る。
「……あいつ、危ないな」
たぶん、同じことを感じていた。
エクリプスは強い。
圧倒的に強い。
でも。
このままじゃ、あいつが壊れてしまいそうに感じた。
「ったく、ウイスキの奴、何してんだ馬鹿が」
ワインが八つ当たりするように言った。
……ウイスキ?
◇
検量室へ向かう道は、やけに長かった。
「よく走った」
乗ってくれた騎手の声は、そう言っていた。
わかっている。
俺はよく走った。
でも。
胸の奥が、すっきりしない。
とぼとぼ。
「サニー、お疲れ」
聞き慣れた声がした。
朔だ。
俺の爺さん。
――いや、厳密には種族すら違うけど、俺や牧場の馬たちにとってはもう「爺さん」なんだ。
爺さんが、俺の首筋に手を置く。
「……爺さん」
俺は、思わず声が落ちた。
人間にはただの嘶きに聞こえるだろう。
でも爺さんには、ちゃんと届く。
「……あいつ、やっぱりこのままじゃダメだぞ」
爺さんは、小さく息を吐いた。
「知ってる」
その一言は、重かった。
「……強すぎるからか?」
それが答えなのかはわからない。
でも、そう思った。
強すぎるから。
誰も横にいないから。
「かもしれん」
その返事が、妙に重かった。
強すぎる。
それは俺たち馬にとっては祝福だ。
本能が「走れ」と言ってくる俺たちにとって羨ましがられることだ。
でも、同時に呪いにもなっている。
誰にも並ばれず。
誰にも追いつかれず。
誰も見ずに。
ただ勝って、勝って、勝って。
それで、いつか。
本当に一人きりになっちゃうんじゃないか?
「……わかった」
俺が、牧場の後輩を一人にする?
桜井牧場に生まれた馬が、桜井牧場に生まれた馬を孤独にする?
――そんなの絶対にダメだ。
うちの牧場の馬はそんなことは教わってない。
そうだろ、クラウンの曽爺ちゃん?
「……頼むぞ」
爺さんの声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
その瞬間、胸の奥が少し軽くなった。
勝った負けたよりも、今はそれでよかった。
そのまま爺さんが最後に首筋をぽん、と叩いてくれる。
「よく走った。かっこよかったぞ」
……ああ。
その一言は、ずるい。
悔しいのに、少しだけ笑ってしまった。
「へへ」
人間にはただの鼻息にしか聞こえないだろうけど。
でも、たぶん伝わってる。
「よし、じゃあ俺はエクリプスも褒めに行ってくるな」
「うん、あ、爺さん!」
「ん?」
これだけは言っておかねば。
「俺がエクリプスに『楽しい』って言わせたら銅像建ててくれよな!?」
「……いいぞ」
「本当か!?本当だな!!約束だぞ!!」
爺さんが初めて銅像の許可出した!?
俺がんばるぜ!!