軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第九十一話 まるで伝説のスーパーカー

朝日杯フューチュリティステークス。

二歳牡馬の頂点を決めるGⅠ。

かつて、テンザンサクラが勝ったレース。

そして、ゴールデンビールが勝ったレース。

いくつもの物語が始まったレース。

そして今日。

馬主席に一緒に座る皐月がレースを眺めながら、少しだけ眉を寄せていた。

「エクリプス、今日は先頭じゃないんだね」

「……あいつ、前回のレース後に聞いたら『先頭を走ったのは、他の馬が遅すぎたから』って言ってたぞ」

「…………聞きたくなかったんだけど、それ」

「俺も言いたくなかったよ」

エクリプスはデビューから、ここまで三戦三勝。

全部、圧勝だった。

圧勝、という言葉では少し足りない。

新馬戦で、後ろの馬が本当に置いていかれているのを見た時は、ちょっと意味がわからなかった。

後ろの馬たちの“勝負”を、途中で無効にしてしまうような強さだった。

そして、今日のエクリプスは珍しく後方にいた、のだが。

『さあ、最終コーナー!!エクリプス!エクリプス外から来た!!』

実況の声が一段跳ね上がる。

騎手は鞭をいれない。

なのに、エクリプスは加速していく。

必死に追っている馬の横を、エクリプスが通り過ぎる。

エクリプスは横を見ない。

相手を見ない。

ただ、自分の走るべき線を走っている。

その姿が、あまりにも冷たく見えた。

『エクリプス!エクリプス一気に先頭!これは強い!!』

他の馬を明らかに置き去りにする。

乗ってるエンジンが違うと言わんばかりの更なる加速。

『エクリプス、さらに突き放す!!これは……これは、ちょっとモノが違うか!!』

ゴール板を、先頭で抜ける。

しかも、力を使い切った感じがない。

……かつて同じ朝日杯でレコードを叩きだし、“スーパーカー”と呼ばれた怪物を思い出した。

『これは強い!エクリプス圧勝です!無敗の二歳王者誕生!!』

阪神競馬場の歓声が妙な雰囲気を孕んでいた。

ざわめき。

驚き。

馬主席の雰囲気もいつもと違う。

とんでもないものを見た時の空気。

皐月が横で、ぽつりと言う。

「……何、今の」

「俺に聞くな」

そう答えるしかなかった。

言ってから、少し怖くなった。

検量室の近くへ向かう間、周囲の空気はいつもより静かだった。

普通、GⅠを勝った後は、もっと熱っぽい。

今日も、もちろん祝福はあった。

「おめでとうございます」

「すごい馬ですね」

「いやあ、強い」

何度も言われた。

頭を下げる。

ありがとうございます、と返す。

それでも、空気の芯にはどこか静けさが残っていた。

たぶん、みんな同じことを思っていたのだ。

強すぎる。

強い馬の勝利は、人を熱くする。

でも、あまりにも差がある勝利は、一瞬、人を黙らせる。

エクリプスの周りには何頭か馬がいた。

その一頭が、おずおずと声をかけた。

「エクリプス、速かったな、おめでとう」

「……」

「……」

終わる。

声をかけた馬が、気まずそうに耳を動かす。

ちがう一頭が、少し勇気を出して声をかける。

「すごかったな。あの最後の脚」

「……」

「……うん」

やっぱり終わる。

おい、せめて何か言ってやれ。

俺の方が気まずい。

「……悪いやつじゃないんだけどな」

「たぶん」

「でも、怖い」

「速すぎるんだよ」

「もう、あいつと走りたくない」

「俺、今日ちょっと自信なくした」

「わかる」

馬たちのひそひそ声が聞こえる。

人間には聞こえていない。

ただ、何となく周囲の馬がエクリプスを遠巻きにしているのは伝わるのだろう。

厩務員さんや関係者たちも、少し妙な顔でその距離感を見ていた。

俺は、ゆっくりエクリプスの前へ行く。

「エクリプス」

呼ぶと、エクリプスがこちらを見る。

周りの馬たちがわずかにほっとした気配を出したのがわかってしまった。

「爺さん」

エクリプスが、ようやくはっきりと目を合わせる。

「お疲れ、おめでとう」

俺は首筋に手を伸ばした。

エクリプスは逃げなかった。

でも、寄ってもこない。

撫でられることを、ただ受け入れている。

「まず、一個目」

エクリプスが静かに言った。

「……一個目?」

「GⅠ」

ああ。

そういう数え方なのか。

ルドルフは、表に出すかはともかく「俺すごいだろ!」だった。

サニーが皐月賞勝った時なんて、ものすごいうるささだった。

……クラウンなんて負けた時の方が騒がしかった気もする。

でも、エクリプスは違う。

ただ、数字が一つ増えた。

その程度の温度だった。

「……すごい勝ち方だったぞ」

「知ってる」

……ここに岡部さんがいたら、どんな顔したかなと思う。

穏やかに笑いながら、でも目の奥だけ少し怖い顔をして、「いやあ、すごいねえ」とか言ったかな。

俺は、さっき声をかけてくれた馬の方をちらっと見た。

「他の馬たちと話さなくていいのか?」

すると、エクリプスは本当に不思議そうな顔をした。

「なんで?」

「なんでって……さっき、おめでとうって言ってくれてたぞ」

「聞こえてた」

「なら返事くらい」

「話すと何かいいことあるの?」

「……」

言葉が詰まった。

話すと何かいいことがあるのか。

いや、わからなくはない。

エクリプスの中では、本気でそうなんだろう。

勝った。

それで終わり。

何を話す必要があるのか。

「うーん……話すと、少しだけ仲良くなれるかもしれない」

「いらない」

「そうか」

「僕は、強くなれればいい」

即答だった。

その返事に、少しだけ胸が冷えた。

エクリプスは、ここまでずっとこの調子だ。

強さだけを見ている。

速さだけを見ている。

自分が勝つことに、迷いも熱もない。

それは、いろんな馬を見てきた側からすると、どこか少しだけ寂しい。

流星の夜に生まれたルドルフが、周囲を巻き込んで光る馬だったなら。

日食の昼に生まれたエクリプスは、周囲の光を飲み込みながら、一頭で彼方へ行く馬だ。

周囲では、まだ他の馬たちが小さく話している。

「あいつ、自分の牧場の人とは喋るんだな」

「……てことは、生まれ牧場にはちゃんと愛着あるんだな」

「じゃあ、やっぱり悪いやつじゃないんだよ」

「でも、あいつ笑わないんだもん」

「勝ったのに」

「怖いよな」

「……でも、なんか寂しいよな」

その声は、悔しさだけではなかった。

恐れ。

諦め。

それに近い何か。

「エクリプス」

「何」

「今日、楽しかったか?」

聞いてから、少しだけ後悔した。

でも、聞かずにはいられなかった。

エクリプスは、しばらく黙っていた。

考えているようにも見えた。

やがて、短く答えた。

「前回までよりは周りがちょっとだけ速かったから、直線までは先頭じゃなかった」

「……そうか」

「うん、だから次までにもっと速くなる」

「……そうか」

人間たちは言う。

「落ち着いている」

「日本競馬史を変える馬だ」

「大物感がある」

「底が見えない」

全部、間違っていない。

でも。

底が見えない。

それは、強さのことだけではない気がした。

二着だった馬がエクリプスを見ていた。

声は出してなかった。

ただ、悔しそうに、でもどこか諦めたような顔で見ていた。

ああいう顔を、俺は何度も見てきた。

強すぎる馬がいる時代の、周囲の馬の顔だ。

今ならわかるが、ルドルフの時代にも、そういう顔はいたんだと思う。

だが、ルドルフにはビールがいた。

グラスカフェや何度負けても向かってくる馬たちがいた。

エクリプスには、誰がいる?