作品タイトル不明
第九十話 ダービーで二着って、十分すごいんだけど、本馬が納得しないと意味がない
――東京競馬場。
ダービーの日。
馬主席は、相変わらず妙な空気をしている。
落ち着いているようで落ち着いていない。
上品そうで、全員中身はだいぶギラついている。
何十年ここに来ても、この空気だけは慣れない。
慣れたくもない。
だって、ここにいる連中、だいたい全員「勝つ気満々」だからな。
そして今、その勝負が終わったところだった。
『ゴールデンワイン!ゴールデンワインだ!!ゴールデンワイン差し切った!!一着ゴールデンワイン!!二着にサニーボーイ!!サニーボーイ無敗の二冠ならず!!』
「見たかねぇ!!!!!?」
実況が響いた瞬間、隣で立ち上がって叫んだジジイがいた。
金持である。
白髪も増えた。
顔の皺も増えた。
でも、勝った時の声量は変わらない。
むしろ元気すぎるだろ。
「ここにいるんだから見てるだろ」
「そうそう何度も無敗の三冠なんてさせないともさ!!」
コイツ、飲むたびにあの頃の話をするんだよな。
楽しいからいいけど。
「何十年それ言うんだよ」
「それだけ悔しかったんだよ!?」
そう言い返してくる顔は、年を取っても昔のままだ。
やたら楽しそうで、たまに素直で、やっぱり癒しだ。
「いやぁ、それにしても最高だったねぇ!」
金持がうっとりした顔で言う。
「最後のあの脚!!見たかい!?見ただろう!?見てたよね!?」
「だから見てるって言ってるだろ」
「サニーボーイの逃げも素晴らしかった!だがしかし!!最後に勝つのはやはり我々ゴールドファーム!!」
「うるせぇ」
だがまあ、実際問題。
サニーは完璧に逃げていた。
誰にも捕まらない形で、最後の直線に入った。
でも。
ゴールデンワインが。
最後の最後で、まとめて全部差し切った。
あれは……強い。
認めるしかない。
「ほら、ワイン迎えに行ってこいよ」
俺が言うと、金持は「そうだった!」と目を見開いた。
「では失礼するよ!!」
「転ぶなよ」
「転ばん!!」
言うだけ言って、金持はものすごい勢いで馬主席を飛び出していった。
見てるこっちがヒヤヒヤするくらいの速度だ。
年齢を考えろよ、とも思うが、たぶん今のあいつにそんなことを言っても無駄だろう。
「……元気だなぁ」
俺が呟くと、近くにいた年配の馬主さんがくすっと笑った。
「桜井さんも、昔は似たような感じだったんじゃありませんか?」
「私はもう少し静かでしたよ」
「そうですか?」
「……たぶん」
にこやかに見られている。
数十年前のあの頃を知る馬主さんたちからは、今でもこういう待遇だ。
決して嫌ではない。
ルドルフが皐月賞を勝った時、俺は馬主席から飛び出した。
有馬記念の時や春古馬の時も、まともだった記憶がない。
人間は、都合の悪い昔を忘れることで生きている。
「……さて」
俺も立ち上がる。
サニーに会いに行く。
勝った馬を称えに行くのは、その陣営の役目だ。
俺が今行くべきは、二着だったうちの馬の方である。
◇
「くそぉぉぉぉぉ!!俺の無敗三冠ロードが一冠で閉じたぁぁぁぁ!!」
うるさい。
思ってた以上に、うるさい。
「うるさい」
俺が近づくなり言うと、サニーがぱっとこっちを見た。
「爺さん!見てたか!?」
「見てたからここにいるんだよ」
金持とテンション一緒か、お前。
サニーは、汗をめいっぱいかきながら、目だけはきらきらしていた。
「いやー!!でも悔しい!!悔しいぞ!!めちゃくちゃ悔しい!!」
「そうだろうな」
「だってあとちょっとだっただろ!?俺、あそこまで完璧だったよな!?直線入った時『これ勝ったな!』って思ったもん!!」
「思ってそうだった」
「だろ!?」
俺も思った。
「でも勝ったアイツも強かっただろ!?」
「そうだな」
素直に答える。
「超楽しかった!」
「それはよかった」
「でも悔しいぃぃぃぃぃ!!」
「感情が忙しいな」
そう返しながら、首筋を撫でる。
サニーの身体はまだ熱かった。
全力で走ってきた馬の熱だ。
こんな熱を持ったまま、「悔しい!」と「楽しかった!」を同時に叫べるの、だいぶ特殊能力だと思う。
少し離れたところで別の馬たちがざわざわしていた。
「サニーの奴、負けたのに元気だな」
「むしろ元気すぎるだろ」
「さっきまで三冠とか言ってなかったか?」
「言ってた」
「まあ、サニーだし」
普段のサニーがどんな扱い受けてるか何となくわかるな。
そこへ、少し離れたところから低い声がした。
「まったく、負けた馬のくせにずいぶん元気だな」
ゴールデンワインだ。
近くでは金持が、いかにも「どうだ!」みたいな顔をしている。
お前はちょっと落ち着け。
サニーが、ぱっとそっちを向いた。
「うるせー!!ダービー勝ったからって調子に乗るなよ!!」
「乗るに決まってるだろう。今日はそういう日だ」
ワインの返しは、ビールより少しだけ静かに感じた。
でも、やっぱりゴールドファームだ。
根っこが煽り文化だ。
「皐月賞ではお前が勝って、今日は俺様が勝った。これで一勝一敗だ。綺麗な話だろう?」
「綺麗にまとめようとすんな!!」
「だが、ダービーを勝ったのは俺様だ」
「うわぁぁぁぁ!!今それ言うのずるい!!」
サニーが本気で悶えている。
その様子に、思わず笑いそうになった。
でも、それでいい。
ワインの騎手が、少し困ったように笑っていた。
サニーの騎手も、苦笑いしながら首筋を撫でてくれている。
みんな、言葉はわからなくともきっとわかっている。
この二頭は、これで終わる縁じゃない。
「よく走ったな」
俺は、少しだけ手に力を込めて首筋を撫でた。
「かっこよかったぞ」
その瞬間、サニーの顔が一瞬だけゆるんだ。
「……へへ」
おいおい、そんな顔すんな。
こっちまで少し緩むだろうが。
「ダービー二着ってすごい?」
「めちゃくちゃすごい」
「でも一着じゃない」
「それもそう」
「だよなあああああ!!」
情緒がジェットコースターである。
金持はゴールデンワインの首筋をぽんと叩きながら、大層満足げに言った。
「いやあ!サニーボーイもさすが皐月賞馬だったが!しかし!最後に勝つのはやはり我々ゴールドファーム!!」
「うるさいぞ」
「悔しいのかね!?」
金持はにやにやしている。
俺も苦笑するしかない。
昔は、こいつに勝たれるとめちゃくちゃ腹が立った。
いや、今も腹は立つ。
でも、それ以上に、なんか懐かしかった。
「次は、うちのサニーが勝つ」
金持が、妙に満足そうにこちらを見た。
「いやあ、いいものだね!!」
「何が」
「若駒たちが未来を争うのは!!」
それは、たしかにそうかもしれない。
「競馬というものはだね、ロマンだよ」
「急にどうした」
「そしてロマンとはだね!」
「話が長い」
「聞きたまえ!!」
後でな。
盛り上がってる二頭を見ながら他の馬たちも苦笑している。
「アイツらマジで元気だな」
「サニーはいつもああだ」
「というかサニーのとこの爺さん普通に会話してない?」
「サクライだぞ」
「ああ、なるほど」
「ワインもけっこう煽るな」
「ゴールドファームの馬だし」
「納得」
好き放題言われてるけど、みんな仲良さそうで何よりだ。
◇
その日の夜。
帰りの飛行機まで少し時間があったので、競馬場の外で金持と少しだけ話した。
今日は勝った側と負けた側なので、普通なら気まずいかもしれない。
でも、俺たちはそういう時期をとっくに通り過ぎている。
「いやあ、ワインは見事だった!」
「何回言うんだよ」
「何回でも言うとも!」
「昔のビールの時もそんな感じだったな」
「ビールの時は、ルドルフに何度も何度も煮え湯を飲まされたからね!」
「ジャパンカップはビールが勝っただろ」
「あれは生涯最高の酒だった」
お互い年を取った。
でも、こういうくだらない会話は変わらない。
金持は少しだけ空を見た。
「しかし、不思議なものだね」
「何が?」
「君のサニーはクラウンの血だったね」
「ああ」
「正直、あのクラウンの血がここまで来るとは思わなかった」
「あの時、金持に相談してよかったよ」
言いながら、少し笑ってしまった。
クラウンが聞いたら絶対怒る。
『俺は最初からすごかった!!』
とか言う。
でも、たぶん最後には嬉しそうに胸を張る。
そういう馬だった。
「あの頃の馬たちが生きていたら、今日はうるさかっただろうね」
「間違いない」
二人で笑った。
金持も、たぶん同じ景色を思い浮かべていた。
遠い。
でも、遠すぎない。
血が続いている限り、あの頃は時々戻ってくる。
「次は負けんぞ」
俺が言うと、金持はにやりと笑った。
「こちらこそ、次も勝つ」
「サニーは強くなるぞ」
「ワインもだ」
「じゃあ楽しみだな」
「うむ。だから競馬は面白い」
その言葉には、ロマンが詰まっていた。