軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第八十九話 静かなる出立

歳を取ると、時間が経つ速度が一気に早くなる。

いや、速度は一定なんだろうけど、気付いたら一年が経っていたりする。

「緊張してないか?」

エクリプスに何気なく聞いてみた。

すると、エクリプスは本当に不思議そうに首を少し傾けた。

「緊張……?」

知らない単語を聞いたみたいな顔だった。

「……そうか」

聞いたこっちがちょっと笑う。

サニーが入厩して早くも一年ちょっとが経ち、今日はエクリプスの入厩の日である。

入る奴の反応がこんなに薄い入厩日はさすがに初めてかもしれない。

「そういえば、先日、サニーが皐月賞勝ったぞ」

何気なく言う。

エクリプスの反応を、少しだけ見たくて。

「……誰だっけ?」

――その返し、ほんとにお前は……。

忘れている。

あいつを。

あれだけ毎日話しかけてきたサニーを。

「牧場でいつもお前に話しかけてた奴だよ」

「……ああ、あのうるさいやつ」

エクリプスは、そこでようやく記憶の棚から引っ張り出したらしい。

「へえ、速かったんだ」

「速かったぞ」

思い出す。

脚質はクラウンという感じではなく、比較的クレバーな逃げ馬という感じだ。

けど、勝った時のうるささはやっぱりクラウンそっくりだった。

「『このままダービーと菊花賞も勝って、無敗の三冠馬になるぜ!』って言ってたぞ」

「ふうん……」

エクリプスは、興味があるのかないのか分からない顔で呟いた。

サニーが聞いたら、たぶん「反応薄っ!」って叫ぶだろう。

そして、少しだけ間を置いてから言った。

「ねえ、爺さん」

「ん?」

「爺さんの知る最強の馬ってサニーボーイなの?」

「サクライルドルフだ」

即答だった。

それだけは揺らがない。

どれだけ時代が流れても。

どれだけ新しい名馬が出ても。

どれだけ人々の口からその名が少なくなっても。

俺にとって、最強はサクライルドルフだった。

それでいて、牧場では甘えん坊で、わがままで、りんごをねだって、すぐ調子に乗った。

強さと面倒くささと優しさが、全部ひとつになったような馬だった。

エクリプスは、その返事を聞いても別に悔しそうな顔はしなかった。

「……わかった」

それから、ほんの少しだけ目を細める。

「じゃあ、そいつを越えたら僕が最強ね」

その言い方が、あまりにも当たり前で。

叫びでもなく、決意表明でもなく、ただ予定を確認するみたいに自然で。

俺は、思わず笑ってしまった。

「……ハハハハハ!」

久しぶりに、腹の底から声が出た。

皐月が少し離れたところで振り向く。

梅さんも目を丸くしている。

エクリプスは不思議そうにこちらを見ていた。

何がおかしいのかわからない。

そういう顔だ。

「いいだろう」

俺は笑いながら、エクリプスの首筋を軽く叩いた。

「でも、その前に怪我するなよ」

「うん」

あっさりと頷く。

「体調管理もできない馬と一緒にしないで」

その一言に、また笑いそうになった。

誰のことを言ってるんだろうな。

たぶん、直接は知らないはずなのに。

「あと」

俺は少しだけ言葉を選んだ。

「爺のわがままだが、出来れば楽しく走ってくれると嬉しい」

その言葉に、エクリプスは本当に意味がわからないという顔をした。

「?」

「たぶん楽しく走る方が速いぞ」

エクリプスはしばらく黙っていた。

風が吹く。

遠くの当歳たちが、「ごはーん!」とか「ねむーい!」とか相変わらず平和なことを言っている。

その声も、今は少し遠かった。

やがて、エクリプスが言った。

「……大丈夫」

「ん?」

「楽しくなくても僕が一番速い」

静かな声だった。

でも、その言葉の奥には、揺るぎがなかった。

絶対の確信。

たぶん今は、それでもいい。

「……うん、今はそれでもいいのかもな」

そう言って、首筋に手を伸ばした。

エクリプスは、逃げなかった。

馬運車が来る。

サニーの時と同じ音。

同じ流れ。

でも、空気は全然違う。

あの時は、騒がしくて、笑っていて、みんなが見送った。

今は、静かだ。

当歳たちも、少しだけ声を潜めている。

「エクリプスにーちゃん、いくの?」

「つよくなってねー」

「でもちょっとこわーい」

「でもすごーい」

一歳馬たちは、黙って見ている。

何かを感じているのかもしれない。

スピリットも、何か考えがあるのだろう。

静かにエクリプスを見ている。

古参の牝馬たちでさえ、ひそひそと小さな声で話しているだけだ。

「行くんだねえ」

「行くねえ」

「あの子は、最初から少し遠いから」

「そうだね」

「でも、ちゃんと帰ってくるよ」

エクリプスは一度、放牧地の方を見た。

見送りに来ている馬たちはいる。

だが、誰も大声では何も言わない。

ただ、それぞれの場所で、こっちを見ている。

「……これでいい」

エクリプスがぽつりと言った。

「そうか」

「騒がしいの、好きじゃないし」

その言葉は本心なんだろう。

でも、ほんの少しだけ、その声がいつもより低く感じたのは、たぶん気のせいじゃない。

「なあ、エクリプス」

エクリプスが振り返る。

「ひとつだけ」

「うん」

「お前がどれだけ強くても、ひとりで走ってるわけじゃない」

エクリプスは、じっと俺を見る。

「背中に乗る人がいる。仕上げる人がいる。世話する人がいる。牧場で待つ人がいる」

「うん」

「見てるやつはちゃんといる。忘れるなよ」

牧場の当歳に一歳、牝馬たちにスピリットも、皐月や働いているスタッフのみんなも。

それに、たぶん。

天国のうるさい連中も。

エクリプスは、少しだけ目を細めた。

「……わかった」

本当にわかったかは、わからない。

でも、エクリプスは頷いた。

それでいい。

今は、それで十分だ。

そこで終わるかと思ったら、エクリプスは一歩踏み出しかけて、ふと止まった。

そして、こちらを見た。

「爺さん」

「ん?」

「ルドルフを越えたら、ちゃんと最強って言って」

思わず、息が漏れた。

ああ。

そうか。

こいつ、本気でそこだけを見てるんだな。

「いいぞ」

即答した。

「でも、その前に無事で帰ってこい」

「それは当然」

「なら、約束だ」

エクリプスは、小さく頷いた。

それから、なんの躊躇もなく馬運車へ向かった。

中で静かに立つ。

暴れない。

騒がない。

まるで、そこが自分の進むべき通路だと最初から知っていたみたいに。

扉が閉まる。

音がする。

ひとつ、区切りがつく。

馬運車がゆっくり動き出した。

誰も騒がない。

ただ、見送る。

それが、エクリプスに合っている気がした。

俺は、見えなくなるまで立っていた。

寒かった。

北海道の四月の寒さ舐めんなよ。