作品タイトル不明
第八十八話 行ってこい、太陽の子
「ふっ」
サニーが朝っぱらからポーズを取ってる。
そして、いきなり「ふっ」って言った。
嫌な予感しかしない。
「おはよう、サニー」
「フフフ…ハハハ…ワーハッハッハッハー!」
うるさい。
その笑い方が似合うのは、どっかのソリッドビジョン作る会社の社長だけだ。
「ここから始まる……俺のビクトリーロード!!」
「うわ、言った」
やめろ、マジで。
……よし、決めた。俺も死んだらクラウン叱りに行こう。
「爺さん!」
「なんだ」
「ついにこの日が来たな!」
「来たなぁ」
今日、サニーボーイは入厩する。
二歳の春。競走馬としての本格的なスタートだ。
「なあ、爺さん」
サニーがふと真面目な声を出した。
「ん?」
「お願いした通りの入厩先か?」
「ああ」
実は、サニーから入厩先についてお願いをされていたのだ。
“エクリプスと違う調教師さんのところになるようにしてほしい”と。
正直、意外だった。
なんなら逆に「同じ厩舎にしてほしい」と頼まれると思ってたくらいだ。
でも、サニーは、「ちゃんと別の場所から、別の道で、正面からぶつかりたい」と俺に言った。
こいつがそう言うなら、それは必要なことなんだろう。
「……来年、エクリプスは東のトレセンに入れる」
岡部さんはもういない。
あの人の穏やかな声も、笑った時の少し困った顔も、今は記憶の中だ。
でも、その厩舎は後継者さんが引き継いでいる。
エクリプスは、そこへ行かせるつもりだった。
そして、今の桜井牧場は岡部さんに頼ってばかりだった頃とは違った。
何十年も、何頭も馬を育ててきた。
世話になった調教師さんも、騎手さんも、厩務員さんも増えた。
「お前は、西の方のトレセンだ」
付き合いの長い、面倒見のいい、明るい調教師さんのところだ。
サニーには、たぶん合っている。
その返事を聞いたサニーの顔が、ぱっと明るくなった。
「ありがとう!爺さん!」
その声が、あまりにも嬉しそうで、少し笑ってしまう。
「別に大したことじゃない」
「ふっ。東に闇の天才エクリプス。西に太陽の俺。そういうことだな!」
「お前、どこでそういう言葉覚えてくるんだ」
いや、マジで。
馬房にテレビを増やしてネトフリも契約した俺が悪いかもしれない。
サニーは、ぐいっと近づいて鼻息荒く宣言してくる。
「俺、ちゃんと強くなるからな!」
「おう」
「爺さんの大好きな無敗の三冠馬くらい勝つ!」
「まずは怪我せずに楽しくやってこい」
「任せとけ!」
そこでサニーは、なぜか一拍置いて、朝日に向き直る。
「俺は!!」
やめろ。
「無敗の三冠馬になって!!」
やめろって。
「凱旋門賞も勝って!!」
話が飛ぶなぁ。
「世界最強になって!!」
止まらない。
「牧場に金の銅像を建てる!!」
そこに着地するな。
柵の向こうで、当歳たちが「わーい!」って盛り上がった。
「どうぞうー!」
「きんぴかー!」
「おやつのどうぞうー!」
違う、食うな。
一歳馬たちは、少し離れたところで醒めた目をしていた。
「ああ、ついに行くのか」
「静かになるね」
「でもちょっと寂しい」
「いや、静かになるのは普通にありがたい」
「それはそう」
どっちだよ。
古参の牝馬たちも、なんだかんだでサニーを見る目は優しかった。
「サニー、怪我しないんだよ」
「ちゃんと走って、ちゃんと食べて、ちゃんと寝な」
「調子に乗るのは勝ってからにしな」
「いや、勝つ前から調子に乗るのがサニーじゃない?」
「それもそうだねえ」
「姐さんたちまでひどい!」
サニーが抗議する。
でも、その顔は嬉しそうだった。
馬たちが、次々に好き勝手な言葉を投げる。
でも、どれもどこか嬉しそうだった。
サニーは人気がある。
うるさい、大人しくしてろと毎日のように言われている。
なのに、好かれている。
「みんなー!」
声がでかい。
「行ってくるぜー!!」
「うるさーい!」
「聞こえてるよー!」
「頑張れー!」
「無敗の三冠馬になってから帰ってこーい!」
馬運車に乗り込んだあと、一度だけこちらを振り向いた。
俺と、皐月と、牧場のみんなを見て、それから晴れやかな顔で言った。
「待ってろよー!俺、めちゃくちゃ勝って帰ってくるからなー!!」
ぱたん、と扉が閉まる。
エンジン音。
少しずつ遠くなる馬運車。
昔、ルドルフを見送った日を思い出す。
あいつは馬運車に乗る前、爺さんに撫でてもらいたがっていた。
サニーは、誰かに撫でてもらうよりも、みんなに見送られて出ていく方が似合っていた。
同じ旅立ちでも、馬によって全然違う。
だから、何十年やっても飽きないのかもしれない。
当歳たちは「いってらっしゃーい!」と騒いでいたが、すぐ別のことに興味が移ったらしい。
「ごはーん?」
「まだー?」
「おなかすいたー」
「サニーにーちゃんのぶん、ぼくがもらえる?」
切り替えが早い。
一歳馬たちは、その少し後ろから、だいぶ醒めた顔で見ていた。
「まあ、三冠馬はともかくサニーにーちゃんなら結構やれるんじゃない?」
「うちの二歳の中では速いもんね」
「それに、いなくなると、なんだかんだちょっと寂しくなるよね」
「たしかに」
「……エクリプス、平気かな」
その一言で、自然と視線がそっちへ向く。
放牧地の奥に、エクリプスはいた。
一頭で。
サニーの見送りには近寄ってきていなかった。
見送り後のざわつきから離れ、ゆっくり近づくと、エクリプスが顔を上げる。
「爺さん」
相変わらず、落ち着いた声だ。
まだ一歳なのに。
「サニーがいなくなって、寂しいか?」
何でもない調子を装って聞くと、エクリプスは少しだけ目を細めた。
「別に?」
「そうか……」
「うるさかったし」
即答。
まあ、そうだろうなとも思う。
サニーは毎日話しかけて。
毎日エクリプスの周りを太陽みたいにぐるぐるしていた。
エクリプスは、それをずっと「うるさい」と切り捨てていた。
それでも、いつもサニーがいたあたりの空気が、ほんのわずかに静かすぎる気がした。
「それより」
「ん?」
「一歳から出来る練習、もっと教えて欲しい」
「……」
俺は少しだけ黙った。
エクリプスは真剣だった。
サニーがいなくなったことよりも。
牧場が少し静かになったことよりも。
自分がこれから何を積めるか。
それだけを考えている。
「……わかった」
エクリプスが、静かにこちらを見る。
「教えてくれるの?」
「ああ。ただし、しっかり食べて、しっかり休むこと」
「それが走るために必要なことならやる」
その目は、どこまでも静かだった。
エクリプスの道は、たぶん声がしない。
歓声もない。
足音だけがある。
黙々と、速さへ向かって進む道。
サニーが朝日に向かって叫んだ「ビクトリーロード」とは、まるで違う。
俺は、エクリプスの首筋に手を伸ばした。
少しだけ撫でる。
エクリプスは逃げない。
だが、甘えるわけでもない。
撫でられている事実だけを受け入れているような顔だ。
「……速くなりたいか」
「うん」
「どうして?」
「僕は速いから」
答えになっているようで、なっていない。
でも、エクリプスにとってはきっと答えなのだ。
速いから、走る。
速いから、勝つ。
そんな、静かな道。
その道が、サニーの道と交わる日が来るのだろうか。
そして、交わったとき、何かが起きるか。
これにワクワクできるのが牧場主兼馬主の特権だよなぁ。