軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第八十六話 皆既日食

「スピリット」

俺が声をかけると、サクライスピリットは、ゆっくりとこっちを向いた。

「爺さんじゃないか、暇なのかい?」

その第一声に、思わず少し笑ってしまう。

「余裕そうじゃないか」

「出産直前に余裕なんかあるかい」

「それもそうか、すまん」

「わかればいいよ」

どうしてこう、うちの牧場の繁殖牝馬は強い馬ばかりなのか。

ストーンを思い出すなぁ。

すぐ横で、皐月が呆れたように言った。

「父さん。見ててもいいけど、どけてて」

「はい」

ごめんなさい。

いい牧場主になったな、と、こういう時にしみじみ思う。

皐月が、スタッフに短く指示を飛ばす。

昔、俺と弥生ちゃんが爺さんに言われて動いていた頃とは、ずいぶん違う。

人がいて、設備があって、経験が積み重なっている。

爺さんが見たら、なんて言っただろう。

鼻を鳴らして、「悪くない」くらいは言ってくれただろうか。

スピリットが、大きく息を吐く。

「……来るよ」

低い声だった。

「皐月」

「わかってる」

皐月は聞こえていない。

でも、見ればわかる。

聞こえなくても、わかることはたくさんある。

外の光が、さらに落ちる。

まるで昼なのに、世界が息を止めたみたいだった。

皆既日食の数分間。

太陽が月に隠されていく。

空の色が、日常から外れていく。

「大丈夫。順調」

皐月が短く言う。

その声が、昔の爺さんに少し似ている気がした。

破水。

そこから先は、さらに早い。

白い膜。

前脚。

鼻先。

正常な形だ。

ズルリ、と。

新しい命が、藁の上に現れた。

「……産まれた」

皐月の声が、静かに落ちた。

スピリットが、荒い息のまま、仔馬へ顔を向ける。

「……どんな面してる」

「生まれたての顔だな」

「役に立たない感想だね」

「昔も同じこと言って怒られたんだが」

「学習しな」

「すまん」

皐月が呼吸を確認して、一息吐く。

「牡馬だ」

その言葉が、妙に静かに馬房へ落ちた。

外は、皆既日食の数分間。

厩舎内は明るいが、外は昼なのに暗い。

そんな中で生まれた牡馬は、濡れた体を震わせながら、じっとしていた。

鳴きもしない。

騒ぎもしない。

生まれたばかりのくせに、妙に落ち着いていた。

スピリットが鼻を伸ばす。

「……変な子だね」

「お前の子だぞ」

軽口を返せるくらいには、まずは山を一つ越えた。

皐月や梅さんたちは必要な確認をしている。

馬の出産は、生まれたら終わりではない。

そんなことは、もう何十年も前から知っている。

だが。

仔馬は周りの喧噪を確かめるかのように、少しだけ首を動かした。

そして、目を開けた。

生まれたばかりの目。

でも。

その仔馬は、見ていた。

母を見る。

人間を見る。

馬たちを見る。

厩舎を見る。

光のない昼を見る。

まるで、この世界の輪郭を一つずつ確認しているようだった。

それから。

俺と、目が合った。

「……」

その瞬間、息を忘れた。

なんだ。

この感じは。

ただ生まれて、そこにいるだけだ。

なのに。

強い。

そう思った。

不意に、ルドルフの生まれた夜を思い出す。

流星群の夜だった。

明るい夜に生まれたルドルフ。

そして、今――暗い昼に生まれたこの仔馬。

何もかもが、正反対みたいだと思った。

「……まさか」

口から勝手に漏れた。

ルドルフ以上。

そう思ってしまった。

そんなはずはない。

でも。

わかる。

こいつは、強い。

ただ、そこにいるだけで、周囲の空気が変わる。

光を放つのではなく。

光を奪う。

そういう強さだった。

「皐月」

「なに?今ちょっと忙しいんだけど」

「こいつは俺が馬主になる」

「……は?」

「馬主の権利。俺が絶対に持つ」

梅さんが、面白がるような顔でこっちを見ている。

どの馬の時のことを思い出しているんだろうか。

皐月は目を丸くしている。

「いや、まだ生まれたばっかりだよ?」

「知ってる」

スピリットが、仔馬を舐めながら、こちらへ少し視線を向けた。

「爺さん、随分と食いつくじゃないか」

「ああ」

「この子、そんなにいいのかい」

「俺が今まで見た中で、一番かもしれん」

スピリットは、疲れているはずなのに、少しだけ得意げに鼻を鳴らした。

「そうかい。なら、ちゃんと大事にしな」

「ああ」

皐月が「言い出したら聞かないんだから」という顔でこちらを見てくる。

……その表情、母さんそっくりだぞ。

「わかったよ。父さん、こういう時だけ牧場主の顔するよね」

「名前も、もう決めた」

皐月が明らかに呆れた顔でため息を吐く。

「早すぎるって」

「早くない」

俺は、もう一度仔馬を見た。

息を一つ吸う。

この名前を、ここで言うために、今日ここに来た気がした。

「エクリプス」

厩舎の中が、ほんの一瞬、静かになった気がした。

「……父さん、それ」

「ああ」

知っている。

もちろん知っている。

「……朔くん、重い名前つけるの好きだねぇ」

梅さんが空気を軽くするように言ってくれる。

「でも、コイツに付けるならこの名前しかない」

言い切った。

自分でもどうかしていると思う。

でも、言葉に迷いはなかった。

スピリットが、仔馬の体を舐めながら低く笑うように鼻を鳴らした。

「エクリプス、ね」

その声は、どこか満足げだった。

「いいじゃないか。昼を暗くして生まれた子には、似合ってる」

「だろ」

仔馬は、反応しなかった。

嬉しそうにもせず、嫌そうにもせず。

ただ、こちらを見ている。

――ああ。

ルドルフ。

お前が見せようとしたのはこいつか?

流星の夜に生まれた、お前と。

日食の昼に生まれた、この馬。

天国で、あのドヤ顔をしているのか。

『朔!俺と同じくらい強い子だぞ!絶対楽しいぞ!』

そして、たぶん、ビールも横で騒いでいる。

『俺様の血も入ってる分、ルドルフより強いぞ!!』

うるさいな、あいつら。

きっと、その横でクラウンもギャーギャー言って、まとめてストーンに怒られてる。

だけど、もし本当にどこかで見ているなら。

見ておけ。

きっと楽しいぞ。

俺は深く息を吸った。

馬の匂い。

寝藁の匂い。

戻ってくる太陽の光。

全部が、胸の中に入ってくる。

「……はは」

笑いが漏れた。

どうしようもなく、楽しくなってしまった。

年を取っても、馬に振り回される。

きっと、最後までそうなんだろう。

爺さんもそうだったのかな。

エクリプスは、こちらを一瞥した。

既に興味を失ったような目をしていた。

生まれたばかりのくせに、なんて生意気な馬だ。

そんな風に浸っていると、皐月がせっせとやることをやりながら声をかけてくる。

「じゃあ、手続きはしとくよ。あと、母さんにも言うからね」

「…………怒るかな?」

「知らないけど、全部言うからね」

「はい」

逃げようかな?と思った時、厩舎の外から、サニーの声がした。

「なあなあ!生まれた!?生まれたのか!?俺の後輩!?俺も見ていい!?」

まだ早い。

お前はうるさいから後だ。