作品タイトル不明
第八十一話 未来
有馬記念から一週間。
世間はまだ、あのレースの余韻の中にいた。
新聞を見てもネットを覗いても、
『有馬記念の大激闘を分析!!』
『ゴールデンビールは引退!』
『サクライルドルフ、来年は世界へ!?凱旋門賞挑戦も視野か』
『ルドルフ陣営、来年は古馬王道完全制覇を宣言!?』
『ノウハウ無しの海外挑戦は無謀!』
みたいな見出しが、当たり前みたいな顔で並んでいる。
いやはや、好き勝手言ってくれるものである。
何も宣言しとらん。
岡部さんは穏やかな顔で「ルドルフはたくさん夢を見せてくれたよ」と言ってくれた。
クロエさんは笑いながら「僕としてはもっと乗りたいけどねー」と肩をすくめていた。
そして最後に、二人とも「任せる」と言ってくれた。
ありがたい。
すごくありがたい。
……重たいなぁ、その決定権。
でも、目の前の現実は、
「朔ー、ブラッシングしてー」
「はいはい」
ルドルフが、いかにも当然ですみたいな顔でこっちを見ている。
こいつ、新聞やテレビでどう扱われていようが、牧場では相変わらずだな。
世間の『最強馬』『皇帝』『世界へ羽ばたく』と、現実のこのの落差、どうにかならんのか。
素直にリクエストに応えてブラッシングをしていると、満足そうに「ぶひぶひ」言ってる。
……年末年始帰宅した子どもみたいだな。
そんなことを考えていると、ルドルフの母親から声がかかる。
「坊主」
「ん?」
「甘やかしすぎだよ」
ストーンに怒られた。
でも、だってさあ。
「いや、ルドルフがんばったし……」
「そうやって坊主や弥生が甘やかすからつけあがるんだよ」
「お母さんキビシー」
ルドルフがごろ寝したまま苦情を言っているが、無駄だろうな。
「頑張ったのは立派だよ。でも、だからって調子に乗ると碌なことにならない」
「調子に乗ってないもん」
「乗ってる」
「ちょっとしか」
「十分だよ」
ほら、負けた。
さすが母親である。
ルドルフがどれだけ外で『皇帝』とか『最強馬』とか言われていようが、ここでは普通に叱る。
「ストーン、あんたも重賞勝った時似たようなもんだったじゃない」
「そうだよ、朔と爺さんに散々甘えたじゃない」
「似たもの親子じゃないの」
「生まれてすぐの生意気具合も似たようなもんだったしね」
「それ今言う必要ないだろ!?」
焦るストーンの反論に馬たちに笑いが広がる。
母親になったストーンも、古参の繁殖牝馬たちにかかればこんなもんである。
そしてそのすぐ横から、聞き慣れた大きい声が割り込んできた。
「俺も頑張ったからブラッシングしてくれ、朔!」
クラウンだった。
「はいはい、ルドルフの次な」
「扱いが雑!!」
クラウンが本気でショックを受けた顔をした。
「なぜだ!?俺は先輩だぞ!?ルドルフの教育係でもあるんだぞ!?」
「余計な教育ばかりした先輩だろ」
さらに、その後ろから当歳と一歳たちまでわらわら寄ってくる。
「朔ー、ぼくもー!」
「さくー、おやつー!」
「さくー、ねむいー!」
「おれもブラッシングー!」
「りんごっておいしいのー!?」
「ルドルフにーちゃんばっかずるーい!」
「さくー、さむーい!」
「でもげんきー!」
「要求が多い」
長靴をつつかれる。
上着を引っ張られる。
片袖を甘噛みされる。
これ、最強馬の牧場というか、ただの託児所では?
つい一週間前、有馬記念をテレビで見ながら全員でわーわー騒いでいたのに、今やもう完全にいつもの牧場である。
馬たちは相変わらずうるさくて、賑やかで、腹が減って、眠いらしい。
◇
ひととおり騒ぎが落ち着いた頃、ルドルフが、やけにのんびりした声で言った。
「朔ー」
「ん?」
「来年も走った方がいい?」
ルドルフは特に深刻そうでもなく、ただ純粋に聞いている顔だった。
もっとこう、「俺はもっと勝つ!」みたいな流れで来るかと思ってた。
「んー……」
少し考えてから、ルドルフの鼻先を少し撫でつつ答える。
「凱旋門賞とか走りたいか?」
「えー、行った方がいい?」
「いや、ルドルフが行きたいかどうかを聞いてる」
「えー……海外ってどうやって行くの?」
「さあ?」
本気でわからなかった。
飛行機に乗るのか?
検疫とかどうするんだ?
岡部さんやクロエさんと相談して、天山さんとか金持に助けを求めるのか?
考えれば考えるほど、世界って広いなと思う。
「じゃあ、来年こそ国内全部勝とうか?」
「本当にやれそうで怖い」
こいつが言うと冗談に聞こえない。
ルドルフは、しばらく黙っていた。
冬の空気の中で、白い息だけがゆっくり上がる。
「朔と爺ちゃんが喜ぶ方でいいよ」
ルドルフを撫でる手が、一瞬だけ止まった。
「……そっか」
「うん」
ルドルフは、ほんとうにさっぱりした顔で答えた。
「種牡馬になろうか?その方が稼げるらしいし」
「稼げるって……そんなこと気にするなよ」
思わず強めに返してしまった。
だが、ルドルフはきょとんとしている。
「なんで?」
「なんでって……」
「俺の目標は、爺ちゃんとお母さんを喜ばせることと」
ストーンがふん、と鼻を鳴らした。
「ついでに、朔の発言力だったもん」
発言力。
そうだ。
ストーンも、クラウンも、ルドルフも、なんだかんだでずっとそこを気にしてくれていた。
自分が勝てば、朔の言うことを聞く人間が増える。
牧場が少し楽になる。
みんなが美味いもんを食える。
困ってることを変えられる。
そういうことを、馬のくせに、気にしていた。
「発言力なら……もう、もらったよ」
それは、嘘じゃなかった。
俺は、もう最初みたいな“何も知らない若造”ではない。
少なくとも、少しは話を聞いてもらえる立場にはなった。
ルドルフだけじゃない。
牧場みんなの頑張り全部で、ようやくもらえたものだ。
「じゃー、俺はもう走らなくていいやー」
あまりにもあっさりとルドルフが言った。
「ビールも種牡馬勝負だって言ってたしー」
「なんだそれ」
馬たちの感性は未だによくわからんところがある。
「ビールの親父が『俺たちの世界は、ありがたいことに子どもたちに繋げる世界になってる』って言ってたんだって」
「へぇ、良いこと言うじゃん」
俺は素直に感心した。
「その親父、お前の親父でもあるけどな」
「そうだった」
カスタード、アイツたまにはいいこと言うんだな。
「だから、有馬のゴール後に『子どもたちで勝負だ』ってビールが」
「そういうもんなのか?」
「いっぱい勝負出来て楽しそうだよね」
ルドルフは、あっけらかんと答える。
「……走る未練はないのか?」
ルドルフは少しだけ考えるような顔をしたあと、すごく穏やかに言った。
「走るのは好きだよ」
「うん」
「強いやつに勝つのも好きだし、ビールとかトニーとか、ああいう変なやつらと走るのも楽しい」
「楽しそうだったもんな」
「でも、最後にビールにも勝ったし」
「言うなあ」
「だからもういいや。牧場でゴロゴロしたいし」
ルドルフは、たぶん、今がちょうどいいのだ。
走りたくても走れなくなる馬もいる。
届かなかったまま終わる馬も山ほどいる。
勝って。
無事で。
やり切った顔で。
牧場に帰ってきて。
それで「もういいや」と言える。
それはきっと、すごく幸せな引退なんだろう。
「お疲れ、ルドルフ」
その一言に、ルドルフはほんの少しだけ、目を細めた。
柔らかい顔だった。
「うん」
その返事は、小さかった。
「いっぱい勝ってくれてありがとう」
「うん」
「楽しかったか?」
「うん、すごく」
その返事が、何よりだった。
それならもう、十分だ。
「……じゃあ引退な」
俺がそう言うと、ルドルフは間を置かずに、
「わーい」
と、ものすごく軽い声を出した。
現役最強馬の引退決定のリアクションが軽すぎる。
でも、その「わーい」が妙にこいつらしくて、俺は少し笑ってしまった。
当歳たちはとりあえずノリで盛り上がっていた。
「いんたいー!」
「いんたいってなーにー?」
「いっぱいねることー?」
「それならぼく、もうしてるー!」
一歳馬は、もう少しだけわかっていた。
「え、ルドルフにーちゃん引退すんの?」
「じゃあレースもう見れないの?」
「でも種牡馬になって、子どもいっぱいできるんだろ」
「うわ、性格引き継がれたらやだな」
「それはちょっとある」
相変わらず好き放題だが、まあ、いつもの牧場って感じでもある。
クラウンが、少しだけ口元を上げる。
「牧場に帰ってきたら、でかい面はさせねぇぞ」
「意味わかんない」
「こっちは先輩だからな」
「実績で言うと俺の方が上だけど」
「てめぇ!!」
ストーンはそのやり取りを見ながら、やれやれという顔をしていた。
さて、こいつらは放っておいて、弥生ちゃんと岡部さんとクロエさんに報告しないと。
◇
夜、見回りを終えて部屋に戻る。
電気を消す前に壁際に目を向ける。
クロエさんのサインとターコイズSの時の写真、クラウンがオープン戦勝った時の写真。
そして、先週の有馬記念の表彰式写真が並んでいる。
ルドルフの上で、クロエさんが指を九本も高々と掲げている。
「……ありがとう」
明日も牧場の朝は早い。