作品タイトル不明
第八十話 グランプリ
年末のグランプリ。
芝二千五百メートル。
GⅠ、有馬記念。
ファン投票で選ばれた優駿だけが集まる特別なレースの一つ。
人間は「総決算」とか「夢のグランプリ」とか好き勝手言ってる。
期待、未練、願い、祈り、意地。
全部ごちゃ混ぜにしたみたいな音が、冬の空気の中に渦巻いていた。
こういうのは嫌いじゃない。
今年、一番強い馬は誰か。
それを、全員が見に来ている。
だったら、見せてやる。
そして……。
「ビール」
俺が短く呼ぶと、ビールは耳をこちらへ向ける。
「クハッ。お前から話しかけてくるのは珍しいな」
今日で引退。
そのくせ、雰囲気は一ミリも湿っていない。
むしろ、いつも以上に得意げだ。
……腹立たしい。
「泣かす」
一言だけ、短く告げる。
ビールは、一瞬だけ目を細めて、それから喉の奥で笑った。
「おうおうおう、やれるもんならやってみろ」
その声に、熱が乗る。
「俺様はこのレースで引退だ」
「知ってる」
「負ける気はねぇ」
「そうでしょうね」
「このレースの主役は俺様だ」
その言い方が、いかにもビールらしくて、俺はほんの少しだけ口元をゆるめた。
「負けて引退なんてかわいそうにね」
「ハッ」
ビールが、鼻を鳴らした。
「俺様に勝ち逃げされて歯噛みしながら生きていきな」
「負けて泣いて謝れば、もう一回くらい走ってあげます」
そこまで言ったところで、別の馬の声が割り込んできた。
「二頭だけで世界を回してんじゃねぇぞ」
気づけば、空気が変わっていた。
「年末の主役は譲らねぇ!!」
「こっちはこの一戦に全部賭けてんだ!!」
「お前らばっか新聞の見出しになるの、そろそろ腹立つんだよ」
「有馬は祭りだろうが!最後に笑うやつぁ、まだ決まってねぇ!」
一気に熱を帯びる。
観客席の歓声とは別の、馬たちだけの熱。
当然だ。
有馬記念に出てくる時点で、全員がそれぞれの道を勝ち抜いてきたやつらだ。
勲章を持ち。
夢を持ち。
陣営の期待を背負い。
馬自身の誇りで、ここに立っている。
全員が勝ちに来ている。
中山競馬場の空気が、一段階さらに持ち上がる。
騎手たちはたぶん、俺たちが何を言っているかはわかってない。
だが、わかるのだろう。
俺たちも燃えているということを。
一頭、また一頭と騎手たちと何か会話しながらゲートに収まっていく。
背中で、クロエが小さく息を吐いたのがわかった。
「いい顔だね、ルドルフくん」
その声は軽い。
だが、伝わる熱からわかることもある。
クロエも今日、勝つ気だ。
すごく悔しがってたの知ってる。
勝とうね。
岡部さんもだ。
いつも心配しすぎじゃないかってくらい心配してくれるけど、調教自体は厳しいんだ、あの人。
そうやって、岡部さんが仕上げてくれたこの身体は、今、ちゃんと元気に走れる状態にある。
岡部さんのところで過ごした時間も、クロエと走る時間も、全部が俺をここまで連れてきた。
朔も見ている。
牧場のみんなも、弥生も、お母さんも、クラウンも、当歳と一歳たちも、たぶんテレビの前で騒いでいる。
爺ちゃんも――きっと見てる。
俺も係員に誘導され、ゲートに収まる。
他の馬たちの気配も全部、勝負の形へと変わっていくのが感じ取れる。
始まってしまう。
楽しみで。
……ちょっとだけ寂しいレースが。
夢と希望とロマンと意地と全部を乗せて。
ガシャンッ!!
ゲートが開いた。
全馬、一斉に飛び出す。
俺はクロエの示す場所へ滑り込む。
中団。
今日はこれでいい。
『さあ始まりました有馬記念!!先頭はスタースカーレット譲らない!!その後ろにゴールデンビール、少し離れてドリームアクター、その内にクロノブライアン!一番人気のサクライルドルフはここにいます!!寄り添うようにグラスカフェ、その後ろにゴールデンローレルと……』
実況がいつもどおり叫んでいる。
観客の歓声がそれに重なる。
一番前で、スタースカーレットが自分を鼓舞するかのように叫んでいる。
「牡馬ども、全員大人しく私の後ろに並んでなさい!!」
「うるさいぞスカーレット!」
「黙れビール、今日勝つのは私よ!!」
牝馬だが、そんなことはどうでもよくなるくらい気の強い馬だ。
逃げても残る。
競られても怯まない。
……前にも思ったけど、少しだけ、お母さんに似てる気がする。
後ろから、ゴールデンローレルの低い声が飛ぶ。
「おい、ガキども。ちゃんと集中して走れよ」
「なんでお前に指図されなきゃならねぇんだ」
ビールが返す。
集中しろって言われてんだろ。
「貴様らが潰れたらつまらん」
ビールと同じゴールドファームの馬だが、こいつはこいつで全然別物だ。
後ろからとんでもない末脚で飛んでくるという意味ではトニーみたいだ。
去年の有馬記念でも一緒に走ったが、正直怖い。
「それは同感だな」
クロノブライアンも会話に乗ってくる。
“今年の”三冠馬だ。
「どうせ勝つなら、強いやつをねじ伏せて勝ちたい」
いいこと言うじゃないか。
こんなに全員が前を向いて、勝つ気しかない空気。
これこそがグランプリだ。
三コーナー。
前が動いた。
ビールが、じわりと圧を上げる。
“ここからだ”と、全員に言ってる脚だ。
「……来たな」
「はっ、待ってたぜ」
「おいおい、勝負は俺も混ぜろよ!」
四コーナー。
ここから先は、嘘がつけない。
――ここで“本物”が残る。
クロエの重心が変わる。
この人は、大事なところで一度も間違えなかった。
だから、信じて合図を待つ。
前のビールが、まず行った。
『ゴールデンビール早くもスタースカーレットに並びかける!!中山の直線は短いぞ!!』
実況の声が爆発する。
俺の横でクロノブライアンが獰猛な笑みを浮かべる。
「世代交代だ、皇帝」
一歳しか違わねぇだろうが、クソガキ。
だが、一緒に走ってみたかったのは事実だし、そういうのは嫌いじゃない。
先頭でスタースカーレットも吠える。
「牝馬を舐めるなァ!!」
ゴールデンローレルが伸びてくる。
「ゴールドファームのエースは俺だ!ビールにでかい顔させてられるか!!」
ドリームアクターが並んでくる。
「皇帝!小さい牧場を背負ってるのはお前だけじゃないんだよ!!」
わかる。
小さな、家族で回している牧場から出てきた馬もいる。
有馬記念の舞台に立つまでに、いろんな道を通ってきたやつらがいる。
俺だけが、何か特別なものを背負っているわけじゃない。
その事実が、むしろ嬉しかった。
グラスカフェが内側から抜けてくる。
「今度こそ!今度こそお前らを倒す!!」
皐月賞の頃からコイツと走るの何回目だろう。
毎回毎回じっとりマークしてくるの結構怖いんだよなぁ。
でも、何回も走れてすごく楽しい。
そこへ、さらに別の声が重なる。
「競馬はお前らだけじゃねぇ!!!」
「俺だって喜ばせたい人がいるんだ!!!」
「若造ども!有馬は譲らん!!」
「私もがんばるよー!」
「……終わりにしよう」
全員が来る。
全員が、前へ出ようとしている。
それでこそだ!!
『大混戦だ!!大混戦だ!!』
この全員に勝ったら、絶対楽しい!
「行くよ、ルドルフくん!!」
クロエの声と鞭が飛ぶ。
俺の中の何かが弾けて、一気に先頭集団に並びかける。
「……いいでしょう!」
俺も叫ぶ。
「全員まとめて!かかってきなさい!!」
ビールが、狂ったように笑う。
「まとめて俺様の脇役だ!!!」
――ハハッ。
楽しい。
たまらなく楽しい。
苦しい。
脚は熱い。
肺は焼ける。
でも、それ以上に楽しい。
全員が本気だ。
全員が譲らない。
だったら。
俺も、全部を出す。
『すごい!!すごい叩き合いだ!!年末のグランプリにふさわしい大激戦!!!』
実況が絶叫する。
ビールの横顔が視界に映る。
こいつ、最後のレースなのにさらに燃えてる。
ふざけるな。
引退するなら静かに引退しろ。
なんで最後が一番強い顔してんだよ。
ビールが吠える。
「おらぁ!引退は勝ってするもんだろうがぁぁぁ!!!」
「それは、あなたの都合でしょう!!」
俺も吠え返す。
今は叫ぶ。
叫んで走る。
これが競馬だ。
『さあ!!横一線!!誰だ!!誰が一着だ!!』
朔。
見てるか。
今日も、楽しいぞ。
めちゃくちゃ苦しいけど。
でも、楽しいぞ。
『これは!!これは!!歴史に残る大激戦だああああああ!!!!』
爺ちゃん。
……ありがとう。
最後の最後。
全員が、首を前へ伸ばす。
全員、譲らない。
最高だ。
「「「「「「負けるもんかぁぁ!!」」」」」」
叫んだのが誰なのか、もうわからない。
たぶん全員だ。
それでも。
俺はサクライルドルフ。
桜井牧場の皇帝。
だから、最後の一歩。
鼻先一つ。
意地一つ。
――前へ。
実況が何かを叫ぶ。
『これは大接戦、大接戦でゴール!!!!』
歓声が爆発し、
世界が、ゴール板に飲み込まれた。