作品タイトル不明
第百九話 凱旋門賞
フランスの空は、少し低く見えた。
ロンシャン競馬場。
凱旋門賞。
芝二千四百メートル。
ここが、世界で一番強い馬を決める場所の一つなのだと、人間たちは言う。
僕にとっては、ただのレース場だ。
でもここで勝った馬の名は、遠い遠い先まで残っていくらしい。
それは、たぶん、悪くない。
そして、周りにいる馬たちも違う。
強い。
それは、すぐにわかった。
前哨戦のフォワ賞にも強い馬はいた。
ただ、あのレースだけで全部わかったとは思っていない。
むしろ、あれは挨拶みたいなものだった。
この国の芝がどういうものなのか。
この競馬場の空気がどういうものなのか。
それを少し触っただけ。
そして今日。
人間たちの空気が、フォワ賞の時より少しだけ尖っている。
騎手の身体も、いつもより静かだ。
静かだけど、熱がある。
こういう時の滝さんは、嫌いじゃない。
その時、横から三頭の馬たちが近づいてきた。
「フフフ、お前がエクリプスか」
その声音には、挑発と、それ以上に楽しさがあった。
「前哨戦のフォワ賞はすんなり勝ってきたようだが」
もう一頭が続ける。
「ただ速いだけでは凱旋門賞は獲れんと教えてやる」
さらにもう一頭。
三つの強い気配が、僕の前に並んでいる。
ダンシングリバー。
レインボーブレイド。
ラムリーフ。
皐月や調教師さんからも聞いていたし、動画も見た。
人間たちは、いろんな言葉でこの馬たちを語っていた。
特に金持の爺さんがうるさかった。
でも、今見ればわかる。
強い。
たぶん、今まで走ったどの馬よりも。
だから僕は言った。
「じゃあ、直線で全員優しく撫でてあげるね」
「……」
「……」
「……」
三頭が、少しだけ黙った。
周りにいた海外馬たちも、少しだけ耳を動かした。
あれ。
何か間違えたかな。
昔、ダンシングトニーという馬がこんなふうに言ったと聞いた。
世界の末脚を見せる時の言葉らしい。
だから、それを少し真似してみたのだが。
ダンシングリバーが、少しだけ笑った。
「……意外と、しっかり返してくれるんだな」
レインボーブレイドも、なぜか感心したように頷いた。
「ああ、ちょっと感動した」
感動。
なぜ。
「?」
僕が見返すと、ラムリーフが低く笑った。
「いや、ジャパンカップに行った馬からな」
「うん」
「『日本のエクリプスには気を付けろ。“誰?”って言われるぞ』と聞いていたんだ」
……。
そういえば、そんなことを言った気がする。
あまり覚えていない。
少し悪いことをした気がする。
「ごめんね?」
僕がそう言うと、ダンシングリバーが一瞬だけ目を丸くした。
「いや、謝る必要はないが」
レインボーブレイドが小さく咳払いのように鼻を鳴らした。
「むしろ、聞いていた話より手強くなっているようで楽しみだ」
ラムリーフが、静かな迫力をそのままに言う。
「ああ。歓迎してやろう」
「うん」
僕は頷いた。
名前も覚えた。
たぶん、前の僕なら、覚える必要もないと思っただろう。
でも今は違う。
名前を知っていると、少しだけ楽しい。
だから、ちゃんと返した。
「全員抜いてあげる」
その瞬間、三頭の目が揃って笑った。
挑発されたから怒るのではなく、返したから喜ぶ顔。
ああ。
この馬たちも、競馬が好きなんだなと思った。
「フフフフフ!」
ダンシングリバーが高らかに笑う。
「思っていたより、ずっといい」
レインボーブレイドも、低く笑う。
「面白い。全力で潰す価値がある」
ラムリーフの息も、さっきより軽くなっている。
「凱旋門賞を教えてやる」
「「「そして、勝つのは我だ」」」
三頭は、そう言ってゲートへ向かった。
他にもいる。
フランスの馬。
イギリスの馬。
アイルランドの馬。
名前も、戦績も、人間たちはたくさん言っていた。
僕は全部を覚えているわけではない。
でも、今ならわかる。
ここにいる馬たちは、ただ参加しに来たわけじゃない。
勝ちに来ている。
当然みたいに。
……楽しくなりそうだ。
そう思った。
本当に。
今までで一番、そう思った。
目の前にいる馬たちは強い。
たぶん、ものすごく強い。
でも、それがいい。
強い馬たちが、僕を待っている。
僕を倒そうとしている。
なら、僕はその全員を見て、全員を抜く。
勝ちたい。
僕は、勝ちたい。
世界最強になるために。
爺さんに言うために。
サニーに言うために。
日本で僕に挑んできた馬たちに、ちゃんと勝ってきたと言うために。
「エクリプス、行こう」
滝さんの声。
僕は前へ進む。
ゲートへ向かう道は、短い。
でも、なんだか長く感じた。
観客席のざわめきが遠くなる。
世界が少しずつ狭くなる。
ゲート係の人間たちが動く。
馬たちが一頭ずつ枠へ収まっていく。
金属の音。
芝の匂い。
人間の息。
馬の熱。
金属の枠の中。
内側の声が言う。
――お前は速い。
知ってる。
――お前は勝つ。
知ってる。
でも、今はそれ以外の声も聞こえる。
――楽しく走ろうぜ!
――無事に帰って来い。
――お前は俺様が倒す!
――日本中が応援してます。
――えくりぷすにーちゃんおみやげー
僕は、前を見た。
ゲートの向こうに、ロンシャンの芝がある。
そこに、世界がある。
僕は、静かに呟いた。
「行ってくる」
誰にも聞こえなくていい。
でも、たぶん届く。
全馬が収まる。
一瞬、世界が止まった。
そして。
――ガシャンッ!!