作品タイトル不明
第百七話 太陽が零したもの
中山競馬場の歓声は、まだ鳴り止まなかった。
エクリプスのウイニングランが続いているからだ。
観客席全体が揺れているみたいな歓声。
拍手。
叫び。
俺は検量室の近くで、その音を聞いていた。
……すごいな。
何度経験しても、GⅠの勝利直後の空気には慣れない。
まして有馬記念だ。
昔、ルドルフが勝った時も、そうだった。
あの時も、世界が壊れたみたいな歓声だった。
ルドルフは当然みたいな顔で戻ってきて、それでも撫でると少し嬉しそうで。
俺は、何を言えばいいのかわからなくなりながら、ただ首筋を撫でた。
エクリプスはまだウイニングラン中だ。
場内の歓声は、あちらへ向かっている。
けれど、こちらにも、別の熱が近づいてきていた。
サニーボーイだ。
「爺さあああああああああん!!」
うるさい。
戻ってきた瞬間にうるさい。
疲れてるんじゃないのか、お前。
でも、よかった。
ほんとうによかった。
俺は一歩前へ出て、サニーの首筋に手を伸ばした。
「お疲れ、サニー。今日もかっこよかったぞ」
そう言うと、サニーは鼻を鳴らして、いかにも得意げに胸を張った。
「当然だろ!最後まで太陽みたいに走るって決めてたからな!」
「自分で太陽って言うんだな」
「言わなきゃ誰が言うんだよ!」
「月刊最北競馬の記者さんとか」
「それは言ってくれそう!」
サニーは嬉しそうに鼻を鳴らした。
あの記者さんなら書く。
絶対書く。
『太陽は最後まで輝いた』
とか書く。
目に浮かぶ。
サニーは、少しだけ目を細めた。
「……なあ、爺さん」
「ん?」
「エクリプス強いだろ、俺の弟分なんだよ?」
その声は、明るかった。
いつも通りのサニーの声だった。
胸を張って。
得意げで。
自慢するように。
「ああ」
俺は頷いた。
エクリプスは強い。
そしてサニーは、誰よりも早く、誰よりもしつこく、あの孤独な馬に話しかけた。
エクリプスを弟分だと言っていい馬がいるなら、それはサニーだ。
サニーは、少しだけ鼻を鳴らした。
誇らしそうだった。
けれど。
「……爺さん」
「ん」
サニーの声が、ほんの少しだけ小さくなった。
周りは相変わらず騒がしい。
遠くからは、ウイニングラン中のエクリプスへの歓声が聞こえる。
近くには関係者の足音や声。
それでも、その小さな声だけが、俺の耳にちゃんと届いた。
「ちょっとだけ、悔しい」
サニーは笑っていた。
でも、その声は、泣きそうなくらい素直だった。
ちょっとだけ。
そんなわけがない。
有馬記念。
ラストラン。
しかも相手は、ずっと話しかけ続けてきた後輩で。
独りにしたくなかった弟分で。
そのエクリプスに、自分は届かなかった。
悔しくないはずがない。
羨ましくないはずがない。
「……ああ、わかってるよ」
俺がそう言うと、サニーは何も返さなかった。
ただ、小さく鼻を鳴らした。
「わかってる」
もう一度言った。
――その瞬間。
ほんの一瞬。
本当に、ほんの一瞬だけ。
俺の頭の中に、別の馬の顔が浮かんだ。
ミスタークラウン。
大声で笑って。
調子に乗って。
最後まで、うちの牧場を明るくしてくれた馬。
クラウンは、ルドルフのことを誇っていた。
後輩だと胸を張っていた。
ルドルフが三冠を取った時も、有馬を勝った時も、誰よりうるさく喜んでいた。
でも。
本当に、それだけだったのだろうか。
ルドルフがどんどん遠くへ行って。
自分が届かなかった場所へ、当然みたいに進んでいって。
クラウンは、ほんの少しも悔しくなかったのだろうか。
あいつは、壊れず、ずっと走って、牧場を支えてくれた。
それはすごいことだ。
でも、競走馬として。
ルドルフと本気で走りたかった気持ち。
自分も、もっと大きな舞台で主役になりたかった気持ち。
ルドルフの活躍を、嬉しいと思いながら、少しだけ悔しいと思う気持ち。
そういうものが、あいつの中にもあったのではないか。
俺は、それに気づけなかったんじゃないか。
――そう思った瞬間。
『朔!馬鹿!!』
頭の中に、怒鳴り声が響いた気がした。
『今はそんなことより、サニーのことちゃんと見てやれ!!!』
はっとする。
クラウンの声。
もちろん、実際に聞こえたわけじゃない。
クラウンはもういない。
ずっと前に、天国へ行った。
でも。
今のは、確かにクラウンだった。
怒っていた。
間違いなく怒っていた。
そして、たぶん、背中を蹴飛ばしてくれた。
その幻みたいな声に、思わず心の中で苦笑する。
そうだな。
サニーの首筋を撫でる手に、少しだけ力を込めた。
「サニー」
「ん?」
今、俺の目の前にいるのはサニーだ。
有馬記念を走り切って。
エクリプスを自慢して。
それでも、少しだけ悔しいと言ってくれた馬だ。
俺は今、この馬の馬主なんだ。
「俺は、お前がいてくれて、お前の走りが見れて、本当に幸せだよ。ありがとう」
言葉は、自然に出た。
本当にそう思ったからだ。
サニーがいてくれてよかった。
うちの牧場に生まれてくれてありがとう。
いつも桜井牧場のみんなを明るくしてくれてありがとう。
エクリプスの兄貴分でいてくれてありがとう。
ジャパンカップで全てを賭けて逃げて。
有馬記念で最後まで走ってくれて。
本当に、よかった。
サニーは、何か言おうとした。
でも、すぐには出てこないらしい。
そして、少しだけ顔をそらした。
「……へへ」
サニーが、小さく笑った。
いつもの大声ではなかった。
でも、すごくサニーらしい笑い方だった。
「ならいいか」
「ああ」
「爺さんが幸せなら、俺はちゃんと走ったってことだな!」
「ああ。これ以上ないくらい、ちゃんと走ったよ」
「そっか」
サニーは、少しだけ鼻を鳴らした。
その声は、少しだけ震えていた。
サニーは泣かない。
少なくとも、エクリプスや他の馬の前では絶対に泣かない。
だから俺も、泣かない。
泣きそうではある。
ものすごく泣きそうではある。
でも、今泣いたらサニーが困る。
だから、飲み込む。
「牧場に帰ったら、みんなに自慢してやれ」
「もちろんだ!」
サニーの声がまた大きくなった。
「俺がめちゃくちゃかっこよかったことを!全部話す!」
「たぶん当歳たちは途中でお腹空いたって言うぞ」
「最後まで聞けって言う!」
「無理だろうな」
「言う前から諦めるなよ爺さん!」
サニーは怒ったように言った。
でも、嬉しそうだった。
周りの馬たちも、レース後の熱の中でまだざわついている。
誰も、今の小さなやり取りには気づいていない。
それでいい。
本当に、それでいい。
その時、遠くからまた一段大きな歓声が起こった。
ウイニングランが終わったのだろう。
俺は顔を上げる。
「お、エクリプスが戻ってきたぞ」
サニーが、ぴっと耳を立てた。
「あ、本当だ」
それから、ちょっとだけ慌てたように、でもすぐにいつもの顔へ戻して俺を見た。
「爺さん」
「ん?」
「さっきのは絶対絶対絶対にエクリプスや他の馬には秘密な!」
「ああ、もちろんだ」
「よし」
サニーは、そこで一度だけ小さく息を吸った。
そして次の瞬間には、さっきまでの静かな顔が嘘みたいに、いつもの大きい声に戻っていた。
「おーい!!エクリプスゥゥゥゥゥゥゥ!!おめでとう!!」
「サニー、うるさい」
さて、一着を取ったエクリプスはどう褒めようかな。
ご褒美にりんごって言ったら怒るかな?