作品タイトル不明
第百五話 有馬記念
ガシャンッ!!
『さあ始まりました、有馬記念!!各馬まずまずのスタート!先頭は今日もサニーボーイが行く!』
実況の声が、空から落ちてくる。
サニーが行った。
知ってた。
「よっしゃああああああ!!今日の主役は俺だああああ!!」
うるさい。
僕は、後ろにいる。
いつも通り。
周りには、強い馬たちの気配がいくつもある。
全部が、本気だ。
それを、今の僕は知っている。
それだけで、レースの景色は変わる。
「落ち着いていこう、エクリプス」
背中の滝さんが、静かにそう言った。
この人は、爺さんみたいに僕の声を聞けるわけじゃない。
でも、僕の身体のことはよくわかっている。
僕が今日、少しだけいつもと違うことも。
たぶん、わかっている。
一周目のスタンド前。
人間たちが、名前を叫んでいる。
サニー。
ウイスキ。
エクリプス。
僕の名前も聞こえた。
前は、その声にあまり意味を感じなかった。
今も全部がわかるわけではない。
でも、少しだけ悪くない。
「サニー、飛ばしすぎるなよ!」
どこかの馬が叫んだ。
「飛ばしてない!気持ちよく走ってるだけだ!」
「それを飛ばしてるって言うんだよ!」
前の集団が、騒いでいる。
有馬記念なのに。
いや、有馬記念だからかもしれない。
周りからも、いくつもの声が飛ぶ。
「サニーの逃げ、今日も本気だな」
「だが、エクリプスが来るぞ」
「来るなら来い!こっちだって意地がある!!」
「有馬記念を三歳馬の好きにはさせん!」
みんな、熱い。
みんな、本気だ。
それはわかる。
内側の声がいつものように言う。
――お前は速い。
知ってる。
――お前は勝つ。
知ってる。
でも今日聞こえるのは、その声だけじゃない。
前からサニーの声がする。
横から他の馬たちの息がする。
背中から滝さんの熱が伝わる。
観客席から、人間たちの願いが降ってくる。
いろんな音がある。
勝つ。
それは変わらない。
けれど。
僕は、一頭で走っているわけじゃない。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。
『三コーナーへ向かいます!依然として先頭はサニーボーイ!ゴールデンウイスキが徐々に進出!さあ、エクリプスはまだ後方!』
「そろそろだ」
滝さんが、ほんの少しだけ重心を変えた。
わかってるよ。
行こうか。
世界の景色が少しずつ遅くなる。
歓声が跳ねた。
前にいる馬たちへ向かって、加速する。
『エクリプス来た!!エクリプス来た!!外から一気に馬群を飲み込んでいく!!』
一頭。
また一頭。
抜くたびに声が飛ぶ。
「エクリプス!今日もその脚か!」
「今日はそう簡単に折れねぇぞ!」
「年下に好きにはさせん!」
「勝つなら派手に勝ってみせろ!」
みんな、前よりちゃんとこっちを見ている気がする。
それが、少しだけ嬉しい。
「来たか、エクリプス!」
マンハッタンティーに並ぶ。
内側のマンハッタンティーは、歯を食いしばるようにして食らいついてくる。
でも、僕の脚の方が上だ。
「くそっ!今日のところはお前が俺たちの世代最強だ!」
声が、後ろへ流れていく。
「だから年上は蹴散らしてこい!」
僕は、思わず耳を動かした。
蹴散らしてこい。
抜かされた相手に、そう言うのか。
よくわからない。
でも。
「うん。行ってくる」
小さく返した。
聞こえたかはわからない。
次の馬へ。
「来い、若造!」
僕は並ぶ。
その馬は、僕が思ったより粘る。
脚が重そうなのに、前へ出ようとする。
意地が強い。
でも、僕は抜く。
その馬が、低く笑った。
「お前!天皇賞春も出てこい!」
僕が前に出る。
「そこで本当の古馬の恐ろしさ見せてやる!」
天皇賞春。
長いレース。
「出るかどうかは、爺さんに聞いて」
「絶対出て来いよ!」
その声が後ろへ流れていった。
少しだけ笑いそうになった。
どうしてだろう。
わからない。
でも、胸の奥が軽かった。
抜かれても、終わらない馬がいる。
後ろへ下がっても、次の約束を投げてくる馬がいる。
競馬は、一回で終わらないのかもしれない。
『エクリプス!エクリプス一気に前へ!各馬を飲み込むように伸びてくる!!』
実況が絶叫する。
でも、まだ終わりじゃない。
前にいるのは、あと二頭。
「来やがったな、エクリプス!」
ゴールデンウイスキの声が弾ける。
「勝負だ!!」
「うん」
僕は答える。
「勝負」
ウイスキは、笑った。
楽しそうに。
なのに怒っているみたいに。
僕は脚を伸ばす。
いつものように、身体の奥から、すっと一段階上の力を引き出す。
周りの馬たちが止まり始める。
ウイスキの気配が後ろへ――
下がらない。
「……」
まだいる。
ウイスキが、笑うように吠えた。
「それだ!それを待ってたんだ!!」
僕は少しだけ驚いた。
この脚を使ったのに、まだ粘る。
すごい。
僕は、素直にそう思った。
ウイスキは、僕より遅い。
でも、今この瞬間、僕に食らいついている。
意地で。
熱で。
この馬は、横にいる。
「ウイスキ」
「なんだ!」
「強いね」
「今さらかよ!」
ウイスキが吠える。
「俺様は最初から強いんだよ!!」
そうかもしれない。
なら。
「……もう一段階、行くよ」
僕は言った。
ウイスキの目が、一瞬だけ大きくなる。
それから、ものすごく楽しそうに叫んできた。
「来いよ!!」
僕は、さらに深い場所から脚を引き出す。
『エクリプス抜け出した!!しかしゴールデンウイスキも食らいつく!!すごい根性だ!!』
ウイスキの気配が、少しずつ後ろへ下がる。
「くそっ!」
ウイスキが叫んだ。
「くそっ!くそっ!ちくしょう!」
それでも、まだ食い下がっている。
すごいな。
でも、僕が前へ出る。
「覚えてろ!!」
ウイスキの声が、後ろから刺さる。
「絶対!」
僕は前を見たまま聞く。
「俺様は!」
その声は、負けた馬の声じゃない。
「お前に!」
次を見ている馬の声だ。
「勝つ!!」
抜いた。
でも、その声は残った。
ゴールデンウイスキ。
また、走ろう。
この先で。
そのまた先で。
『先頭サニーボーイ!!エクリプスが迫る!!最後はやはりこの二頭!!』
次。
あと一頭。
僕は、サニーの横へ並びかける。
「お待たせ、サニー」
サニーが、前を見たまま叫ぶ。
「待ってねぇぜ!!」
その声は、苦しそうだった。
でも、嬉しそうでもあった。
限界のはずなのに。
「このまま俺の逃げ切りだ!!」
それでも、まだ楽しそうに走っている。
まったく。
ほんとうに、変な馬だ。
「サニー」
「エクリプス!」
名前を呼び合う。
それだけで、胸の奥が熱くなる。
競馬は変だ。
苦しい。
脚が重い。
肺が熱い。
なのに、走っている。
サニーが横にいる。
後ろにはウイスキがいる。
マンハッタンティーがいる。
さっき抜いた馬たちがいる。
全員が、まだ終わっていない。
最後まで走っている。
「今回は」
僕は、脚に力を込める。
「僕が」
サニーの気配が、横にある。
あのジャパンカップの日、僕を抜かせなかった馬。
僕に世界を見せた馬。
僕を独りにしなかった馬。
――だからこそ。
今日、僕は勝つ。
「勝つ!!」
声が出た。
自分でも驚くくらい、大きな声だった。
サニーが笑っている。
「いい顔だ、エクリプス!!」
サニーが叫ぶ。
「でも俺も負けねぇ!!」
サニーが、さらに脚を伸ばしてくる。
まだ残していたのか。
いや、残していたというより、引っ張り出している。
どこかから。
でも、僕も止まらない。
『エクリプス!!エクリプスだ!!サニーボーイをかわした!!』
僕が、前へ出た。
はっきりと。
前に出る瞬間、サニーの顔が見えた。
嬉しそうで。
楽しそうで。
悔しそうで。
苦しそうで。
全部が混ざった顔。
その顔を、僕はたぶん一生忘れない。
横にサニー。
少し後ろにウイスキ。
さらに後ろから、まだ諦めていない気配がいくつも追いかけてくる。
全部まとめて、今ここにある。
僕は速い。
だから、勝つ。
みんなに。
勝ちたいから。
僕自身が、勝ちたいから。
きっと、勝ったら楽しいから。
ゴール板が迫る。
『エクリプスだあああああああああああ!!』
みんな、ありがとう。