軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第百話 ジャパンカップ(裏)

俺は、立ち上がっていた。

立ち上がったのは、ほとんど無意識だった。

『サニーボーイだ!!サニーボーイ!!逃げ切った!!エクリプス初黒星!!ジャパンカップを制したのはサニーボーイ!!』

実況が絶叫する。

『これは大波乱!いや、これを波乱と言っていいのか!!サニーボーイ二冠馬の意地!!ジャパンカップ制覇です!!』

叫んでいる、というより、もう喉が壊れるんじゃないかという勢いだった。

何万人もの歓声が、一斉に地面を叩いて、空気を震わせて、音の塊になって、馬主席まで押し寄せてくる。

東京競馬場のスタンドが揺れているかのようだ。

サニーが勝った。

エクリプスが負けた。

それだけのことかもしれない。

でも。

違う。

今、起きたことは、そういう話じゃない。

ターフビジョンの中では、サニーが派手に首を振っている。

絶対今、うるさい。

そして、その横でエクリプスがいる。

首を少し上げ、息を荒くして、横にいるサニーを見ている。

いつものような、勝ったか負けたかをただ確認する顔ではない。

驚いている。

怒っている。

わからない、という顔をしている。

そして――サニーボーイという馬を、見ていた。

「……はは」

喉の奥から、変な笑いが漏れた。

なんだよ。

お前、今ようやく見たのか。

ずっと横にいたんだぞ。

ずっと話しかけてたんだぞ、そいつ。

牧場で。

春も、夏も、秋も、冬も。

うるさくて、しつこくて、何度拒まれても次の日にはまた「なあなあ!」って近づいていた。

そいつはずっと、お前に話しかけていた。

お前を独りにしないって。

サニーは、ずっとそこにいた。

なのに、お前は見ていなかった。

強すぎたから。

速すぎたから。

全部を置いていけたから。

お前は、他の馬を見る必要がなかった。

でも、今日。

サニーが残った。

残ってくれた。

抜かせなかった。

その顔を、お前は見た。

その瞬間を、俺は見た。

「……ああ」

胸の奥が、震えた。

その時、隣で皐月がぽつりと言った。

「サニーが勝ったのは嬉しいけど、エクリプスの初敗北はちょっと残念だね」

皐月の声は、素直だった。

喜びと戸惑いが半分ずつ混ざっている。

それはそうだ。

サニーはうちの馬だ。

嬉しい。

もちろん嬉しい。

でも、同時に、エクリプスが負けた。

今の競馬界で、エクリプスの無敗がどれだけ大きな意味を持っていたか。

皐月だってわかっている。

エクリプスは桜井牧場にとっても、とんでもない馬だ。

あの馬が無敗で勝ち続ける姿は、たぶん新しい伝説そのものだった。

それが、止まった。

普通は残念だと思う。

けれど。

「ふぅん」

反対側から、聞き慣れた声が割り込んできた。

金持だ。

今も昔も変わらず、高そうなスーツを着て、偉そうな顔をして、でも、目だけは楽しそうに光っている。

白髪は増えたし、顔に刻まれた年輪も深くなった。

それでも、この男の「競馬が面白くてしょうがない時の顔」は、昔から何一つ変わらない。

「まだ甘いね」

皐月が、きょとんとした顔でそっちを見る。

「え?」

金持は、ターフビジョンを見たまま言った。

「今、エクリプスは最強に成った」

皐月の顔が、明確に「意味がわからない」と言っていた。

「だって負けちゃいましたよ」

「だからだ」

そこまで金持に言われて、ようやく俺の喉が動いた。

ちくしょう。

その台詞は俺が言いたかった。

「おい、俺のセリフ全部とるんじゃないよ」

声が、少し震えていた。

金持が、ちらっと俺を見る。

「君がいつかの皐月賞のように呆然としているからだろう」

「……うるさいな」

「いいから、君はさっさと迎えに行き給え」

その言い方が、あまりにも昔のままで。

うるさくて、偉そうで、面倒くさくて。

それでいて、競馬の一番大事なところだけは絶対に外さない。

「……ああ、行ってくる」

それしか言えなかった。

足が動く。

皐月が、少し戸惑ったように俺を見る。

「えっと……」

「君は少し僕の話を聞いてからにし給え」

金持が、ほんの少しだけ笑って皐月を止めた。

「え?」

金持は、ターフビジョンを見ながら、少しだけ柔らかい声で言った。

「……どうせ見られたくないだろうしな」

「どういうことです?」

「まずは教えてやろう」

金持が、妙に得意げな顔をした。

「そうだな、朔くんが最初牧場を継いだ時は、それはそれは情けない顔をしていてだね」

おい、余計なことまで言うんじゃない。

そう思ったが、止めには戻らなかった。

まったく。

年を取ってから、変なところで気が利くようになりやがって。

いや、昔からか。

馬主席を出る。

関係者通路に入る。

通路を歩きながら、何人もの人に声をかけられた。

「桜井さん、サニーボーイおめでとうございます!」

「すごいレースでした!」

「エクリプスも強かったです!」

「いやあ、あの二頭が同じ牧場から……」

関係者の声。

記者の声。

スタッフの声。

どれも興奮している。

当然だ。

今日のジャパンカップは、たぶん語り継がれる。

でも、俺の中では、別の声が聞こえてた。

『朔!最強は俺だろ!!』

うるさい、ルドルフ。お前の子孫だろ。

『見たか朔!!俺の血だ!!俺の血がエクリプスに教えたぞ!!つまり俺もすごい!!』

クラウン、その理屈は雑すぎる。が褒めてやろう。

『馬鹿ども、いい加減落ち着きなさい』

ストーン、その馬鹿二匹は任せた。

通路を足早に進む。

競馬は、一頭じゃできない。

どれだけ強い馬でも、それではただ走っているだけだ。

相手がいて。

並ぶやつがいて。

抜こうとするやつがいて。

抜かせまいとするやつがいて。

そこで初めて、レースになる。

そして、物語になる。

エクリプスは今日、初めてそれを知ったはずだ。

ようやく、孤独に走るだけの馬じゃなくなった。

だから、最強に成った。

記録じゃない。

無敗かどうかでもない。

そんなものじゃない。

老人なりに急いで検量室の近くへ行くと、すぐに馬たちの声が聞こえてきた。

「サニーすげぇ……」

「逃げ切ったぞ」

「エクリプスに勝った……」

「やっぱ競馬ってわかんねぇな」

「いや、わかんねぇから面白いんだろ」

「俺、ちょっと泣きそう」

「馬が泣くな」

「いいだろ別に」

ざわざわしている。

馬も人間も、同じようにざわついている。

そんな中で、ひときわうるさい声が聞こえた。

「やーい、世代最強のくせに負けてやがる」

ゴールデンウイスキである。

何故か、めちゃくちゃエクリプスを煽っていた。

お前、たしか今日四着くらいじゃなかったか?

そして、その真正面でエクリプスが、珍しく露骨にむっとした顔をしていた。

「お前だって僕に負けたくせに!!」

うわ、エクリプスがちゃんと悔しがってる。

いや、そこじゃない。

「ぁあん!?二着も四着も負けは負けで一緒だろ!」

「自分も負けたくせに煽ってくるのムカつく!!」

「煽れる時に煽る!これが黄金の流儀だ!」

「そんな流儀、滅びればいい!」

「有馬記念では俺が勝って煽ってやる!」

「お前なんかまた置き去りにしてやる!!」

おお。

おおお。

エクリプスが、ちゃんとムカついている。

ウイスキに対して。

相手を認識して。

言い返している。

いや、状況としては何やってんだお前らなんだけど。

周りの馬たちもざわざわしている。

「エクリプスが喧嘩してる」

「ウイスキすげぇな」

「あいつ四着なのにあのテンションなの何?」

「ゴールドファームだからだろ」

「納得」

それはたぶんそう。

俺は、ゆっくり近づいた。

まずは、サニーの方へ行くべきかとも思った。

でも、サニーは今、向こうで関係者に囲まれている。

あいつなら、少し待たせても大丈夫だ。

たぶん今頃、勝利の余韻に浸りながら全方位にうるさいことを言っている。

先に、エクリプスだ。

エクリプスがこちらに気づいた。

「爺さん」

さっきまでウイスキに向けていた怒気が、ふっと緩む。

「お疲れ、エクリプス」

エクリプスの顔は、普段の無表情とは違っていた。

困っているような。

怒っているような。

自分でもどうしたらいいかわからないような、そんな顔。

「爺さん、ごめん。負けちゃった」

その一言で、胸の奥がいっぱいになった。

何を謝る。

何を。

お前、あんなレースして。

あんなふうに初めて横を見て。

世界を広げて。

ようやくレースを知って。

そんな一戦のあとで、最初に言うのが「ごめん」なのか。

お前が謝るところなんて、ひとつもない。

「何を謝る」

手を伸ばして、エクリプスの首筋に触れる。

熱い。

いつもより、もっと熱い気がした。

「いいレースだったぞ」

心からそう思った。

サニーが全てを賭けて逃げて。

エクリプスが初めて横を見て。

最後まで抜けなくて。

こんなレース、そうそう見られるものじゃない。

今日ここにいた人間たちは、たぶん何十年も語る。

サニーボーイがエクリプスを破ったジャパンカップを。

でも、俺は違う言い方をするだろう。

エクリプスが初めて誰かを見たジャパンカップ。

そう言うと思う。

エクリプスは、少しだけ耳を伏せる。

「サニーの奴……絶対次は勝つ」

良かった。

本当に。

本当に、良かった。

勝つために走る馬だった。

最強になるために走る馬だった。

誰も見ないで、ただ前へ行く馬だった。

そのエクリプスが、今、サニーの名前を呼んでいる。

ちゃんと自分以外を見てる。

「……良かったな」

気づけば、そう言っていた。

エクリプスが、ぱち、と瞬きをした。

「負けたもん!」

「うん、そうだな」

「サニーを抜けなかった。僕が、本気で走ったのに」

「ああ」

「前を見てた。すごく楽しそうだった」

「そうか」

「今すぐもう一回走りたいのに、できない!」

「そりゃそうだ」

「だから全然良くない!」

そうだよな。

良くないよな。

でも。

俺はもう、だめだった。

視界が、じわっと滲んだ。

しまった、と思う。

こんなところで泣くつもりじゃなかった。

でも、どうしようもなかった。

「え、爺さん!?」

エクリプスの声が少しだけ慌てる。

周りの馬たちが一斉にこっちを見た気配がした。

人間たちには、なぜか、感極まった老人が馬を撫でて泣いているように見えているだろう。

まあ、間違ってはいない。

「泣いてるの!?なんで!?僕が負けたから!?」

エクリプスが本気で慌てている。

それすら嬉しい。

今までなら、俺が泣いても、たぶんこいつは不思議そうに見ているだけだった。

でも今は、気にしている。

自分が負けたせいか、と考えている。

俺の感情を、見ようとしている。

「ちがうよ……」

声が掠れる。

情けない。

この歳になって、こんなに人目があるところで泣くとは思わなかった。

でも、たぶん、人生で何度もないくらい大事な涙だった。

「じゃあ、なんで」

エクリプスの声が小さくなる。

「……エクリプスが“楽しく走れそうで”安心したからだよ」

このまま最強になったら、本当に一頭でどこかへ行ってしまうんじゃないかと思っていた。

でも、今日、サニーがエクリプスに走る理由を見せた。

“楽しく走る”の入口を見せてくれた。

「楽しいって、もっと楽なものだと思ってた」

エクリプスが「よくわかんない」という顔で返してくる。

でも、もう大丈夫だ。

「違うこともある」

「変なの」

「競馬だからな」

「競馬って、変なんだね」

「ああ、変だぞ」

俺は頷いた。

競馬は変だ。

強い馬が出ると、みんな喜んで、みんな倒したがる。

負けると悔しいのに、強い相手がいると嬉しい。

勝つと満足するのに、次の勝負が欲しくなる。

馬主も、調教師も、騎手も、ファンも、馬も。

みんな面倒くさい。

それでも、そこにロマンがある。

そこへ、少し離れたところから、とんでもなくでかい声が飛んできた。

「爺さああああああああああああん!!」

うるっさ!

サニー。

うるさくて、眩しくて、誰にでも話しかけて、何度断られてもまた来る馬。

クラウンによく似た、やかましいくせに優しい馬。

「俺も褒めに来てくれよおおおおおおおお!!」

よくやってくれた。

今行くよ。