軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第百一話 ジャパンカップ(真)

ガシャン!とゲートが開いた。

いいスタートを切れた。

『さあ、ジャパンカップ、スタートしました!まず先手を取ったのはサニーボーイ!サニーボーイが行く!』

実況の声が遠くで響いている。

そう、俺が先手を取った。

今日、俺は逃げる。

本気で。

全力で。

何も残さない。

このレースが最後になってもいい。

俺の全部を賭けてもいい。

そう思っている。

もちろん、爺さんに言ったら怒られるだろう。

無理はするな。

そう言うに決まっている。

俺も、わかっている。

まだ走りたい。

まだ爺さんに撫でてもらいたい。

牧場に帰って、チビどもに自慢したい。

みんなに走った話を聞いてもらいたい。

だから、本当は最後になんてしたくない。

でも、それくらいの覚悟じゃないと届かない。

エクリプスに。

あいつの目に。

俺を映させるには。

このレースに、全部を賭けるしかない。

ふと、牧場の景色が浮かんだ。

夏の日陰。

秋の葉っぱ。

冬の雪。

春の草。

エクリプスはいつも一頭でいた。

当歳たちが走っても、見ているだけだった。

みんなが騒いでも、耳を動かすだけだった。

俺が話しかけても、

『うるさい』

って言った。

何度も言った。

毎日言った。

でも、俺は話しかけた。

だって、あいつは桜井牧場の馬だから。

俺の後輩だから。

そんな馬が、一頭で走っているのは嫌だった。

強いから一頭でいい?

速いから誰も見なくていい?

勝てるから、それでいい?

違うだろ。

競馬は、そういうもんじゃないだろ。

俺は、そんなふうには教わっていない。

俺はクラウンの血だ。

爺さんや牧場の古い人間はよくそう言う。

うるさいところも。

すぐ調子に乗るところも。

金の銅像を欲しがるところも。

そういうのが似ているらしい。

俺はそのクラウンご先祖様に会ったことはない。

でも、夢に出てきたことはある。

金の銅像を建てろ、と言っていた。

それは無視しろって爺さんに言われた。

けど。

たぶん、クラウンご先祖様も、あんなふうに一頭で走っている馬を見たら、黙っていないと思う。

うるせぇくらい話しかけると思う。

もしかしたら噂に聞くルドルフにも話しかけてたんじゃないかな。

俺もそうだ。

俺はサニーボーイだ。

太陽の子だ。

誰かが暗いところにいるなら、そこまで走っていく。

うるさいと言われても。

邪魔だと言われても。

エクリプス。

お前を、桜井牧場の馬を。

独りになんてしない。

絶対に。

騎手の気配が背中にある。

この人は、わかってくれている。

俺がどう走りたいか。

「行け、サニー」

短い声。

それだけで十分だった。

ああ、任せろ。

今日は、やる。

後ろの馬たちのほとんどの意識は、たぶんエクリプスに向いている。

海外の強いやつらも。

日本の強い馬たちも。

観客も。

新聞も。

実況も。

全部、エクリプスを見ている。

わかる。

無理もない。

だって、あいつは強い。

でも、それがチャンスだ。

いつもなら、ここで俺は叫んでいる。

「見ろ!俺がサニーボーイだ!」って。

でも、今日は叫ばない。

叫ぶ力まで脚に回したい。

呼吸。

一歩。

また一歩。

前へ。

俺は前にいる。

俺は逃げている。

俺は、誰よりも早くゴール板へ向かっている。

三コーナーが近づく。

背中の騎手の重心が少しだけ変わる。

まだ。

まだ大丈夫。

いい。

いいぞ。

ここまでは完璧だ。

完璧に来れた。

だからこそ、怖い。

こんなに完璧に逃げているのに。

それでも、後ろにいるあいつが怖い。

あの気配は、後ろにいるだけで空気を変える。

まだ来ていない。

でも、わかる。

ただ静かに、自分が抜く時を待っている。

四コーナー。

ここからだ。

ここから、全部が嘘をつけなくなる。

背中の騎手が合図を送ってくる。

行くぞ。

ああ。

行こう。

『さあ直線!!各馬横に広がった!!先頭はサニーボーイ!!』

東京の直線が、目の前に開いた。

歓声が爆発する。

長いな。

逃げ馬にとって、この直線は永遠みたいに長い。

俺は、前へ出る。

さらに脚を使う。

もう一段。

まだ早い?

知るか。

ここで緩めたら終わる。

俺は逃げる。

逃げる。

逃げる。

後ろから、強い馬たちが動く気配がする。

全員が来る。

でも、まだ俺が先頭だ。

逃げる。

逃げる。

脚が熱い。

肺が焼け始める。

でも、顔だ。

顔だけは崩すな。

笑え。

楽しそうに走れ。

俺はサニーボーイだ。

苦しい顔なんて見せるな。

エクリプスに見せるのは、苦しさじゃない。

俺は楽しく走っている。

俺は前にいる。

俺は、お前を待っている。

『外からエクリプス!エクリプスだ!この馬の末脚は世界にも通ずる!』

来た。

後ろから、とんでもない気配が迫ってくる。

俺の背中側から、世界そのものが黒く塗り替えられるような感覚がした。

エクリプスだ。

わかる。

見なくてもわかる。

あいつが来た。

いつも通り、全員を抜くために。

後ろから馬たちの声がする。

「なっ――!?」

「速い……!」

「来たな、エクリプス!!」

みんな、飲まれていく。

あいつの気配が、どんどん近づく。

俺は、前を見たまま歯を食いしばった。

笑え。

笑え、俺。

ここからが本番だ。

エクリプスは来る。

絶対に横に来る。

その時、お前は何を見せる?

苦しい顔か。

怖い顔か。

助けてくれって顔か。

違うだろ。

楽しい顔だ。

楽しいから走っている。

勝ちたいから走っている。

誰かと走るのが嬉しいから走っている。

そういう顔を見せろ。

苦しい。

めちゃくちゃ苦しい。

でも、楽しい。

怖い。

でも、楽しい。

エクリプスが来ている。

あのエクリプスが、俺を抜きに来ている。

それが、楽しくないわけがない。

俺は先頭で、あいつを迎え撃つ。

こんなの、最高じゃないか。

だから笑え。

笑え。

笑え。

『エクリプス先頭か!いや、一頭食らいついている!!』

食らいついているんじゃない。

俺が前にいるんだ。

エクリプスの気配が、横に来た。

並んだ。

空気が重くなる。

まるで、太陽が隠れるみたいに。

皆既日食の日に生まれた同じ牧場の馬。

光を奪うような強さを持った馬。

その馬が、俺の横にいる。

俺は見ない。

絶対に見ない。

こっちを見ろ。

でも、俺は見てやらない。

俺は前を見る。

お前も前しか見なかっただろ?

ずっと。

だから今度は、お前が俺を見る番だ。

俺の走りを見ろ。

俺は楽しそうに走っているだろ。

そうだろ、エクリプス。

どうだ。

お前の横にいるぞ。

俺はここにいるぞ。

お前が置き去りにできない馬が、ここにいるぞ。

エクリプスの気配が、ほんの少し揺れた。

わかった。

見た。

あいつが、俺を見た。

初めて。

本当に初めて。

エクリプスが、横の馬を見た。

俺を見た。

そうだ!

俺を見ろ!

でも、俺は絶対にそっちを見ない。

振り向いてなんてやらない。

俺は前を見る。

楽しい顔で、前を見る。

後ろでも横でもなく、前だけを見る。

俺はサニーボーイだ。

牧場で毎日お前に話しかけた馬だ。

ずっと、俺はいた。

みんなもいた。

爺さんも皐月も、スタッフのみんなも調教師さんも騎手さんも。

年上の馬も同い年の馬もガキんちょも。

お前は独りなんかじゃない。

お前が見ていなかっただけだ。

だから、今日。

この東京競馬場の直線で。

知れ。

競馬は、一頭で走るものじゃない。

背中の騎手が叫んでいる。

声は聞こえる。

でも、もう意味は遠い。

ただ、信じてくれているのはわかる。

脚がある。

肺がある。

心臓がある。

前にゴール板がある。

横にエクリプスがいる。

そして俺は、まだ先頭にいる。

エクリプスがさらに来る。

さっきよりも深い。

たぶん、あいつの本気の本気だ。

それが横から押し寄せてくる。

怖い。

速い。

強い。

なんだよ、お前。

本当に誰よりも速いじゃないか。

でも。

抜かせない。

今日は抜かせない。

最後の力を引っ張り出す。

どこに残っていたのかわからない。

でも、あった。

全部。

全部を脚に乗せる。

この一戦だけは。

この瞬間だけは。

俺が前だ。

勝ちたい。

勝ちたい。

勝ちたい。

俺は、今日、勝ちたい。

爺さん。

見てるか。

俺、今めちゃくちゃ苦しい。

全然余裕ない。

楽しそうな顔してるけど、ほんとは泣きそうなくらいきつい。

でも、見てろ。

俺は逃げる。

桜井牧場の馬を独りにしないために。

エクリプスに、走るのは楽しいんだって教えるために。

そして。

俺が勝つために。

最後の一歩。

もう一歩。

さらにもう一歩。

脚がもう自分のものじゃないみたいだ。

それでも出す。

前へ。

前へ。

鼻先を。

意地を。

全部を。

ゴール板が迫る。

エクリプスが横にいる。

でも。

俺の方が。

前だ。

ゴール。

世界が爆発した。

『サニーボーイだ!!サニーボーイ!!逃げ切った!!エクリプス初黒星!!ジャパンカップを制したのはサニーボーイ!!』

実況が壊れたみたいに叫んでいる。

歓声が、全部を飲み込んでいく。

俺は、そのまましばらく前へ流れた。

止まれない。

止まったら崩れそうだった。

肺が焼ける。

脚が重い。

全身が熱い。

でも。

騎手が、俺の首を何度も叩く。

「やったぞ!サニー!お前、やったぞ!」

勝った。

勝った。

俺が、エクリプスに勝った。

いや。

それだけじゃない。

見せた。

あいつに。

俺を。

横に馬がいるということを。

俺は、ようやく少しだけ横を見た。

エクリプスがいた。

息を荒くしている。

目が、いつもの目じゃない。

無表情じゃない。

勝ったか負けたかを確認しているだけの目じゃない。

初めて何かを見つけた子どもみたいな顔だった。

そして。

俺を見ている。

ちゃんと。

俺を見ている。

それを見た瞬間、胸の奥に、勝ったこととは別の熱が広がった。

よかった。

本当に。

よかった。

俺は、なるべくいつも通りの声を作った。

息は全然整っていない。

脚も重い。

でも、ここで弱った声なんて出せない。

「楽しかったな!」

エクリプスが、こちらを見た。

しばらく、何も言わなかった。

それから、ぽつりと。

「思い出した」

と言った。

「ん?」

思い出した?

何を?

「お前、牧場でいつも僕に話しかけてたサニーだろ」

俺は、一瞬固まった。

それから、叫んだ。

「おそっ!?」

今!?

今なのか!?

お前、今思い出したのか!?

「今!?今思い出したのか!?俺あれだけ話しかけたのに!?」

「うるさかった」

「感想がそれ!?」

こいつ。

本当にこいつ。

でも。

怒りながら、俺は笑っていた。

だって、思い出したんだ。

エクリプスが。

俺を。

サニーボーイを。

牧場でうるさく話しかけていた馬として。

今、認識した。

エクリプスの目に、誰かがいる。

たぶん初めて。

ちゃんと。

エクリプスが、ぐっと首をこちらへ向けた。

その目が、燃えていた。

今まで見たことのない目だった。

悔しい。

腹が立つ。

そういう、普通の競走馬みたいな目。

いや、普通じゃない。

やっぱりこいつは化け物だ。

でも、ちゃんと競走馬の目だった。

「おい」

「ん?」

「今すぐもう一回勝負だ」

「今すぐ!?やだよ!」

無理に決まってるだろ!

こっちは今、全部出し切ったんだぞ!

今すぐもう一回とか、馬鹿か!

「勝ち逃げする気か!!」

エクリプスの声が大きい。

周りの馬たちが、びくっとしている。

ああ。

エクリプスが怒っている。

次の勝負がすぐできないことに。

怒っている。

俺はわざとにやっと笑ってやった。

「しーらない」

すると、エクリプスがさらにむっとした。

ああ、いい。

この顔だ。

こういう顔を見たかった。

周りの馬たちがざわざわしている。

「サニーすげぇ……」

「エクリプスに勝ったぞ」

「しかも普通に喧嘩してる」

「いや、今すぐもう一回勝負は意味わからんけど」

「そこはエクリプスだしな」

「アイツ感情あったんだな……」

「なんか……よかったな」

良かった。

これなら、もう大丈夫だ。

俺は、エクリプスを独りにしなかった。

だから。

――俺の、勝ちだ。