軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第九十九話 エクリプス

たまに「ゲートの中は嫌いだ」と呟いている馬がいるが、僕にはよくわからない。

だって、ただのレースで通過するだけの場所でしょ。

なのに周りの馬たちは、うるさい。

「ここで勝つのは俺様だ!!」

「海外勢を舐めるなよ、日本の馬ども!」

「今日こそ、あいつを止める!」

「エクリプスだけのレースにしてたまるか!」

いろんな声が聞こえる。

僕のことを勝手に意識しているやつもいる。

みんな、何かを背負っているらしい。

牧場。

馬主。

騎手。

調教師。

ファン。

過去。

未来。

そういうものを、みんな口にする。

けれど、僕にはあまり関係がない。

――僕は速い。

僕の内側で、そう言っているものがある。

それを、人間なら魂と呼ぶのかもしれない。

僕は、生まれた時から、それを知っていた。

いや、生まれる前からかもしれない。

自分が速いことを。

自分が勝つ馬だということを。

走ればわかる。

僕は速い。

だから勝つ。

勝てば、また次を勝つ。

そうしていけば、いつか爺さんは言う。

最強だ、と。

それでいい。

最強と言われたら何が変わるのかは、よくわからない。

でも、爺さんの中には、ずっと一頭の馬がいる。

サクライルドルフ。

僕は、その馬を知らない。

名前は聞いた。

伝説だということも知っている。

牧場で何度もその名前を聞いた。

強くて、わがままで、甘えん坊で、りんごが好きで、うるさいライバルがいて、牧場のみんなに愛されていた馬。

よくわからない。

最強というのは、そういうものまで必要なのだろうか。

強い。

速い。

勝つ。

それだけでは足りないのだろうか。

でも、爺さんがそう言うなら。

僕はあと二つ勝つ。

そうすればいい。

簡単だ。

観客席の歓声が少しだけ大きくなる。

全員がゲートに入ったのだろう。

ジャパンカップ。

海外から強い馬が来ているらしい。

国内にも強い馬がいるらしい。

どうでもいい。

ガシャンッ!!

ゲートが開いた。

世界が前へ動く。

周りの馬たちが飛び出す。

好きにすればいい。

僕は、最後に抜く。

それで終わる。

『さあ、ジャパンカップ、スタートしました!まず先手を取ったのはサニーボーイ!サニーボーイが行く!』

実況の声が遠くで響いている。

なんだか周りの馬が僕を見ている気がする。

どうでもいい。

僕はただ、自分のリズムを保つ。

今日も身体は動く。

むしろ、かなりいい。

空が広い。

「エクリプス!今日こそ俺様の名前を覚えさせてやる!!」

誰だっけ。

他の馬たちの声も飛んでくる。

「こっちはこのレースに焦点合わせてんだ!」

「所詮三歳馬!古馬の力を見せてやる!」

「エクリプス、貴様の無敗は今日終わる!」

「世界の広さを教えてやる!」

みんなして僕のことを見ている。

うるさい。

みんな、何かを言う。

勝つとか。

負けないとか。

倒すとか。

止めるとか。

でも、僕が前へ出ると、みんな静かになる。

それがレースだ。

今日も、そうなる。

三コーナー。

少しずつ空気が変わる。

馬群の中に、緊張が走る。

ほら、そろそろ第四コーナーだ。

いつもどおりここから全員を抜けばいい。

ただ、それだけだ。

四コーナー。

視界が開く。

東京の長い直線が、前に広がる。

観客席の歓声が、壁のように膨らむ。

『さあ直線!!各馬横に広がった!!先頭は――』

実況が何か言っている。

でも、どうでもいい。

今から抜く。

僕は、地面を強く踏む。

一歩目。

身体が前へ沈む。

二歩目。

芝が後ろへ流れる。

三歩目。

周りが止まったかのように世界が変わる。

『エクリプス!エクリプスだ!この馬の末脚は世界にも通ずる!』

何を今更。

前にいた馬を一頭抜く。

海外馬の一頭だ。

「なっ――!?」

何か言っていた。

聞く必要はない。

次。

もう一頭。

「速い……!」

次。

さらに一頭。

「来たな、エクリプス!!」

何か叫んでいた。

少し粘る。

僕はもう一段、脚を前へ出す。

その馬の気配が後ろへ下がる。

はい、終わり。

僕はさらに加速する。

歓声が爆発する。

ほら。

いつもどおり。

終わる。

……。

……?

横に、まだ一頭いる。

まあ、いっか。

もうちょっと本気で走ればいなくなるだろう。

僕は、身体の奥に残していた力を使う。

深く。

もっと深く。

世界が少し白くなる。

風が割れる。

……。

あれ?

消えない。

横にいる。

なんで。

『エクリプス先頭か!いや、一頭食らいついている!!』

実況の声が少し歪んだ。

観客席の音が、ざわめきに変わる。

しょうがない。

本気の本気だ。

僕は、さらに深いところへ手を伸ばす。

今まで、あまり使う必要がなかった場所。

身体の奥。

お前は速い。

お前は勝つ。

お前は誰よりも遠くへ行く。

その声に従って、脚を回す。

いい。

これで消える。

これで、いなくなる。

……。

どうして?

どうしてまだ横にいるの?

『エクリプス!エクリプス並んだ!しかしサニーボーイ粘る!サニーボーイ粘っている!』

実況が壊れたように叫んでいる。

どうしてまだ横にいるの?

初めて、本当に初めて、横の馬を見た。

その顔が。

すごく、楽しそうだった。

まるで、この瞬間が嬉しくてたまらないみたいに。

なんで。

なんで、こいつはこんなに楽しそうなんだ。

僕を見ていない。

前だけを見て。

ただ、全力で。

でも、どこか嬉しそうに。

「……っ」

息が熱い。

肺が焼ける。

脚が重い。

重い?

僕の脚が?

そんなことを考えた瞬間、内側の声が揺れた。

――お前は速い。

僕の方がスピードがある。

――誰よりも速い。

僕の方がスタミナもある。

――勝つ。

体調管理も問題なかった。

勝つ。

勝つために走っている。

勝て。

前へ行け。

それだけでいい。

……本当に?

…………僕は、なんで走ってたんだっけ?

その瞬間、ほんのわずかに、身体のどこかが止まった気がした。

脚じゃない。

気持ちでもない。

もっと奥の、僕の芯みたいなところが、一瞬だけ、立ち止まった。

そいつは止まらなかった。

ゴール板が迫る。

最後の一歩。

もう一歩。

まだ。

まだ――

ゴール。

歓声が爆発する。

頭の中が白い。

『サニーボーイだ!!サニーボーイ!!逃げ切った!!エクリプス初黒星!!ジャパンカップを制したのはサニーボーイ!!』

初黒星。

無敗が止まった。

負けた。

それはわかる。

でも、そんなことより。

横にいたあの馬が。

どうしてあんな顔で走っていたのか。

それしか頭になかった。

その馬が、ゆっくりこちらへ寄ってくる。

息は荒い。

脚も重そうだ。

全力を出し切った顔をしている。

でも、目は輝いていた。

「楽しかったな!」

その馬が言った。

その声は、大きかった。

この馬は。

放牧地。

草の匂い。

葉っぱが赤くなった日。

雪の日。

何度も何度も話しかけてきた馬。

僕が何度「うるさい」と言っても、次の日にはまた来た馬。

「思い出した」

僕は、気づけばそう言っていた。

そいつが首を傾げる。

「ん?」

「お前、牧場でいつも僕に話しかけてたサニーだろ」

サニーが、一瞬だけ固まった。

それから、目を見開いた。

「おそっ!?」

うるさい。

「今!?今思い出したのか!?俺あれだけ話しかけたのに!?」

「うるさかった」

「感想がそれ!?」

サニーが器用に怒っている。

怒っているのに、嬉しそうだった。

変な馬だ。

でも、胸の奥が熱かった。

さっきまで走っていた熱とは違う。

初めての感覚だった。

「おい」

「ん?」

「今すぐもう一回勝負だ」

サニーが、思いきり顔をしかめた。

「今すぐ!?やだよ!」

どうして、今すぐ走れないんだ。

レースって面倒だ。

ゴールしたら終わり。

もう一回やりたいのに、すぐにはできない。

そんな仕組み、誰が決めたのだろう。

「勝ち逃げする気か!!」

自分の声が、思ったより大きかった。

気づけば、僕は本気で怒っていた。

怒るというのも、こういう感じなんだと初めて知った。

サニーも、一瞬だけ驚いた顔をした。

それから。

にやっと笑った。

とても。

とても楽しそうに。

「しーらない」

その笑い方が、また腹立たしい。

でも。

世界が、少しだけ広くなった。

僕の走っている線の横に、別の線があった。

僕とは違う速度。

違う呼吸。

違う理由。

違う光。

それが、横にあった。

「おい、サニーがエクリプス煽ってるぜ」

「煽っていいだろ、あいつ勝ったんだし」

「というかエクリプスが反応してるの初めて見た」

「自分から話しかけてるぞ」

「しかも怒ってる」

「なんか普通の馬みたいだな」

「いや、普通ではない」

「アイツ感情あったんだな……」

なんか失礼な事言われてるのが聞こえた。

背中から声が降ってくる。

「惜しかった、でも今日もよく走ったぞ」

そういえば、僕にいつも乗って、色々話しかけてた声だ。

「チクショウ!次だ!覚えてろエクリプス!」

聞き覚えのあるうるさい声が並んで来た。

「素晴らしい末脚だった、今度は欧州にも来いよ」

レース前に話しかけてきた海外の馬も近寄ってくる。

……。

……ああ、こんなに色んな奴がいたんだな。

僕は、知らなかった。

今までずっと、知らなかった。

早く爺さんに会いたかった。

聞きたいことがある。

言いたいことがある。

爺さん。

僕、負けた。

でも。

知ったんだ。

この世界には色んな奴がいるんだって。

勝つことも負けることも。

なんなら走ることも。

自分だけじゃできないんだって。