作品タイトル不明
第九十七話 あと二つ
『エクリプス圧勝!!無敗の三冠達成!!しかもこの時点でGⅠ五勝目は前代未聞です!!』
実況の声が、京都競馬場の空に響いていた。
歓声が、揺れる。
拍手が、波になる。
その全部が、ひとつの巨大な音になって、スタンド全体を揺らしている。
「……」
俺は、馬主席で立ち尽くしていた。
隣では皐月が、言葉を失ったようにターフビジョンを見ている。
さらに隣では金持が崩れ落ちているが、まあそれはいい。
ターフビジョンの中では、エクリプスがウイニングランに向かっていた。
相変わらず、あいつは何も変わらない顔をしている。
菊花賞。
京都芝三千メートル。
三歳クラシック最後の一冠。
そこを、圧勝した直後なのに。
周囲の馬主席でもざわめいていて。
「すごい……」
「いや、これは……」
「三冠馬、しかもこの時点でGⅠ五勝目……?」
「ちょっと、常識が追いつきませんね」
「本当に国内に敵はいないのでは……」
そんな声が周りから聞こえる。
『エクリプス!歴史的偉業達成です!!これは史上最強と言っても過言ではないかもしれません!!』
実況が絶叫しているのを聞きながら、俺は昔のことを思い出していた。
数十年前、テレビで見ていた菊花賞。
あの日、ルドルフが勝って。
爺さんが現地にいて。
うちの厩舎は大騒ぎだった。
クラウンは叫んで、当歳たちは何が何だかわからんまま騒いで、繁殖牝馬たちは好き勝手に感想を言って、俺は泣いていた。
あの日、ルドルフは間違いなく“みんなの真ん中”にいた。
今日は俺がここにいる。
爺さんはいない。
ストーンもいない。
クラウンもルドルフも、もういない。
でも、あいつらの血はここに繋がっている。
あの頃と今はずっと続いている。
続いているからこそ、こうして新しい悩みまで連れてくる。
「……困ったもんだな。馬は、いつまで経っても人間を振り回す」
◇
検量室の近くに近づくと、菊花賞を走った馬たちの声が聞こえてきた。
「なんなんだよ、あれ」
「三千だぞ」
「長距離であんな抜け方する?」
「こっちは全部出したんだぞ」
「俺、最後の直線で心折れかけた」
「でも、折れたら終わりだろ」
「わかってるよ」
「あいつ、こっち見てた?」
「見てない」
「それが一番ムカつく」
その声は、悔しさだけではなかった。
恐れ。
諦め。
苛立ち。
そして、わずかな怒り。
エクリプスが悪いわけではない。
強く生まれたことは罪ではない。
圧倒的に走れることも、悪いことではない。
でも。
それでも……。
一方のエクリプスは、ただ、今日やるべきことを終えた、という顔で戻ってくる。
「お疲れ、エクリプス」
呼ぶと、エクリプスがこちらを向く。
「うん」
短い返事。
首筋に手を伸ばす。
汗で濡れた毛並み。
熱い。
生きている熱が、手のひらに伝わってくる。
「かっこよかったぞ」
「うん」
短い返事。
嬉しそうでもない。
照れているわけでもない。
ただ、受け取ったという返事だった。
「ねえ」
不意に、エクリプスが言った。
「ん?」
「あと何個勝てば最強でいい?」
「……」
一瞬、言葉が出なかった。
歓声が、少し遠くなる。
周りの人間には、ただエクリプスが短く鳴いたようにしか聞こえていないはずだ。
でも俺には、はっきり届いた。
あと何個勝てば最強でいい。
それが、エクリプスにとっては、今唯一見るべきことなんだろう。
「さっき『最強』って叫ばれてたけど」
「……そうだな」
「爺さんの中では未だなんでしょ?」
嘘はつけなかった。
きっと贔屓だ。
でも、未だ俺の中の『最強』はルドルフだった。
「じゃあ、あと何個勝てばいいか決めて」
「……」
「決めてくれれば、そこまで勝つ」
「……」
周りでは、口取りの準備が進んでいる。
関係者のみんなが動いている。
皐月も少し離れたところで、こちらを見ている。
もちろん、会話の内容はわかっていない。
だが、何か大事な話をしていることは察しているようだった。
「…………体調や疲労に問題がなければ、というのが大前提だが」
ようやく口を開く。
そこだけは譲れない。
絶対に。
エクリプスはすぐに頷いた。
「うん」
「少しでも無理があるなら、走らせない」
「わかった」
本当にわかっているのかは、正直わからない。
でも、エクリプスは頷いた。
だから俺は、続けた。
「今年のジャパンカップと有馬記念」
エクリプスの耳が、少しだけ動く。
「両方取るのは、ルドルフには出来なかったことだ」
本当はこんな条件提示をしたくはなかった。
ルドルフはジャパンカップを取っていない。
でも、“だから最強ではない”と俺は思わない。
むしろ、勝ったゴールデンビールを褒め称えるべきレースだった。
でも、ジャパンカップと有馬記念。
エクリプスが両方勝てば、少なくとも記録の上では、またひとつルドルフを越える材料になる。
エクリプスは、淡々と受け止めた。
「わかった、じゃあ、あと二つね」
「……」
あまりにもあっさりしていて、逆に怖い。
しかも、こいつの中ではもう“できるかどうか”ではなく、“二つ残っている”という確認でしかないのだろう。
俺は内心で頭を抱えた。
あと二つ。
ジャパンカップだぞ。
有馬記念だぞ。
いや、取れるならそりゃすごい。
ものすごい。
でも、それはそれとして。
世界から馬が来る。
国内の強い馬も集まる。
世代も距離も違う、いろんな馬の意地がぶつかる。
サニー。
ゴールデンウイスキ。
エクリプスを倒したいと意地を見せるみんな。
お前ら、どうにかしてくれ。
じゃないと、こいつ、本当にそのまま世界の果てまで一頭で行ってしまう。
情けない話だ。
エクリプスの馬主である俺が、エクリプスを止めてくれる相手を祈っている。
でも、負けてほしいわけじゃない。
ただ、見てほしい。
エクリプスに、横を。
前を。
後ろを。
自分以外にも走っている馬がいることを。
誰か、教えてやってくれ。
馬には、走りでしか伝えられないことがある。
「口取りと表彰式行こ」
エクリプスが、こちらから視線を外す。
もう話は終わった。
そういう顔だった。
「……ああ」
俺は、遅れて頷いてエクリプスたちについていこうとした、その時。
「サクライの爺さん」
背後から、ふいに馬の声がした。
振り返ると、出走馬の一頭がいた。
その馬は、こちらを少しだけ見て言った。
「エクリプス、強すぎるな」
「……ああ」
「でも」
その馬は、疲れた顔のまま、少しだけ笑うように鼻を鳴らした。
「悔しいから、次はもうちょい近くまで行ってやる」
俺は、思わず笑った。
「そうか」
「伝えといて。次は俺のこと覚えろって」
「ああ。伝えておく」
その馬は、それだけ言って歩いていった。
俺は、その背中を見送りながら、少しだけ胸が軽くなるのを感じた。
そうだ。
全部がエクリプスの影に飲まれたわけじゃない。
なら、まだ大丈夫かもしれない。
競馬は、一頭ではできない。
どれだけ強い馬でも、ひとりではレースにならない。
誰かがいて。
誰かが挑んで。
誰かが諦めずに走るから。
そこに物語が生まれる。