軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第九五話 曹操と周瑜、水面下の攻防

孫呉水軍の小船団による襲撃は、ぴたりと止まった。

理由は明白である。曹操が烏林へと本陣をうつしたからにちがいなかった。

「余が対岸にいるのだ。周瑜とて軽率な動きはできまい」

一定の成果を得たからであろう、曹操の顔は得意げで、声も軽やかである。

「この曹操が烏林にいる以上、周瑜など、もはや鷹の前の雀も同然よ」

そう語る曹操の姿は、遠目にも自信に満ちあふれていた。

これまで周瑜軍にやられる一方だったため、陣中には不安と不満が広がっていたのだが、主君の余裕を目の当たりにしたことで、将兵たちも留飲を下げるとまではいかないが、意気を取りもどしているようだ。

このような威勢のいい声が聞こえてくるようになった。

「周瑜め、もう好き勝手にはさせんぞ」

「いまごろ丞相の大軍勢を前にして、陣中でちぢこまっているにちがいない」

ただし、曹操はというと、自身の言葉ほどに楽観はしていない。

受身の状況からは脱したものの、優位に立ったわけではないのだ。

水上での戦が不利であることは、曹操も心得ている。

船団同士での大規模な戦闘は回避しなければならない。

対岸に敵陣が見えていようと、指をくわえてみていることしかできないのである。これがなかなかどうしてもどかしい。

天幕のなかで、曹操は荀攸に語りかけた。

「いままでのように敵が小船団で襲撃してくるようであれば、撃破してやればよい。敵船の数が少ないのであれば、むずかしいことではないはずだ」

「……十分に可能だと思われます」

「もしその船団を救おうと、周瑜がみずから主力を率いて攻め寄せてくるのであれば、こちらは帰陣して、烏林の水塞付近で戦えばよい」

「……はい。烏林の陣から矢がとどく範囲内であれば、有利に戦えるはずです」

「こちらから攻めようとしないかぎり、負けることはない。我が軍の方針はまちがっているか?」

「……いえ、まちがっていないかと」

「だが、どうにもすっきりしない」

曹操は不快そうに眉根を寄せた。

烏林に移動したことで、孫呉水軍の襲撃は封じた。

現状を打開する手は周瑜側にもないはずなのだが、それでも敵の思惑に乗せられているような気がするのだ。

頭の中にもやがかかったような、思考の鈍さを曹操は感じていた。

荀攸も憂えるような声で、

「……やはり、懸念すべきは疫病ではないでしょうか」

「む……、やはり それ(・・) か」

心底嫌そうに、曹操は顔をしかめた。

「陣中に、疫病が流行る兆しがあらわれているようです」

「疫病対策は、しっかりおこなっているつもりなのだがな」

曹操の歎息は、肺の空気をすべて吐きだしたかのように大きかった。

昨年の冬、柳城遠征の帰路で、曹操軍は疫病にさんざん苦しめられた。

それゆえ対策に抜かりはない。

物資は潤沢で、兵站が途切れるおそれもない。

軍医の手も多く、薬の量も多めに確保してある。

さらにいえば、柳城遠征でなにが将兵の身体を蝕んだかといえば、寒さであった。

極寒の冬に北辺の地を行軍してしまったのがわざわいしたのだ。

今回の遠征では、その点もあらかじめ考慮してある。

南方に軍を進めるのだから、寒さより暑さを警戒すべきであろう。

いまは冬だ。むろん寒いのだが、荊州の温和な冬は、柳城遠征とは雲泥の差であった。

万全を欠くのは、それこそ疫病が発生しやすいという湿地帯に布陣させられていること、ただ一点のみである。

「戦をしているのだ、万全でないのはいたしかたあるまい。それでも、これだけ手を尽くしているのだぞ。敵ではなく疫病に悩まされるというのが納得いかん」

曹操は口をへの字にむすんだ。

そもそも、疫病とは人為的なものではなく、偶発的なものである。

柳城遠征につづいて、ここでも疫病が流行すれば、曹操ですら「邪魔してくれるな」と天に文句をいいたくなろう。

将兵や民衆が、そこに天意を感じてしまうのは、いわずもがなであった。

もし曹操軍が疫病によって退けば、天意が曹操を否定したのだと、周瑜軍がふたたび触れまわることはまちがいない。なんとこざかしく、いけ好かない敵であろうか。

「周瑜という男はよい評判ばかりが聞こえてくるが、友人にはなれそうもないな」

「……はぁ」

「荀攸、時間は我々の敵になるか?」

「……おそらく」

いつものように不明瞭な声で、しかしはっきりと荀攸はうなずいた。

「よろしい。ならば、情勢を変えなければならないのは、こちらのほうか」

決意したとたんに、曹操の表情から一切の不機嫌は消え失せ、その双眸は爛々と輝きはじめた。

周囲の者にしてみれば、感情の移り変わりがはげしい主君は困りものだが、曹操に関してはいまさらである。

目標がさだまれば、そこに全身全霊をそそげるのが彼の強みであった。

「やるべきことはいままでと変わらぬ。だが、より露骨に圧力をかける」

「……離間計、ですな」

烏林に布陣した曹操の狙いは、ふたつあった。

ひとつは、陸口の周瑜軍ににらみを利かせ、孫呉水軍の襲撃をおさえること。

もうひとつが、敵にこちらの大軍勢を見せつけることである。

眼前に大軍を展開されれば、周瑜軍の将兵たちにも動揺がはしり、士気はくじける。

これまで水面下で進めてきた調略の効果も表に出てくるであろう。

曹操軍は、先の流言をやりかえすように吹聴してまわった。

「周瑜とは何者か。漢室の 禄(ろく) を 賜(たまわ) った 廬江(ろこう) 周家の者である。しかるに、周瑜はおのれの才知に驕り、荊州の民を襲撃しては略奪をくりかえした。これを恩知らずといわずしてなんといおう。我らが主君は荊州の民を安んじるため、烏林に軍を進めた。するとどうしたことか、周瑜軍の襲撃はぴたりとやんだ。敵がいない隙に民衆を 虐(しいた) げ、敵があらわれるや息をひそめて陣に閉じこもる。これではまるで、夫が出征している隙に夫人に近づく間男ではないか」

曹操は自分が烏林に引きずりだされたことすら利用して、周瑜をこきおろしたのである。

もともと孫権陣営は 軋轢(あつれき) を抱えている。

周瑜の支配力に陰りが見えれば、曹操に投降しようという者も出てくるであろう。

一枚岩でないのは曹操陣営も同じではあるが、その内実が異なるのだ。立場や主張にちがいはあれども、孫権に降伏しようと主張する者など、曹操の部下にいるはずもない。

水上では不利だが、調略を舞台とすれば優位に立つのは曹操軍のほうである。

……それにしても、人妻好きの曹操に間男呼ばわりされるのだから、いちじるしく公正な視点を欠いた中傷である。周瑜にしてみればひどい屈辱であるはずだった。

両軍がにらみ合ったまま、十二月に入った。

烏林の陣に建てられた 楼櫓(ろうろ) の上では、兵士たちが見張りに立っている。

眼下ではかがり火が皓々と焚かれ、満天の星を圧倒していた。

江水は漆黒のなかを静かに流れ、遠い対岸にある敵陣にも人工の光が灯っている。

曹操軍のかがり火と比較すると、周瑜軍のそれはいかにもか細く、頼りなげだ。

「……んっ?」

見張りのひとりが奇妙な声をだした。

「どうした?」

同僚たちに奇異の視線をむけられ、その兵士は自信がなさそうに返答する。

「いや、なにか動いたような気が……」

首をかしげ、顔を見合わせ、彼らは楼櫓から身を乗りだした。

暗い川面に目を凝らす。たしかに、なにかが近づいてくる。

「ふ、船だ。敵船だ!」

敵襲を告げるため、 銅鑼(どら) を叩こうとする兵士を、

「ま、待て。様子がおかしいぞ」

別の兵士が制止した。

船影は一 艘(そう) だけに見える。しかも小さな船のようだ。

まさか小型船一艘で襲ってくることもあるまい。

となると敵方の使者だろうか。だが、それなら昼間やってくればいいはずだ。

判断しかねた見張りたちが惑っているうちに、その船上に火が灯された。

たいまつに照らし出され、船の全容が浮かびあがる。

見張りたちが想定していたよりも、さらに小さい。

走舸(そうか) という小型の船のなかでも、小さな部類に入るだろう。

乗員はわずかふたりである。

敵兵らしき影のひとりは、 櫂(かい) をこいでいた。

もうひとりは、たいまつを手に立ちあがると、おもむろにもう一方の手で白旗を振りはじめる。

江水をはさんだにらみ合いは、あらたな局面を迎えようとしていた。

「ようやく調略が実を結んだ。 黄蓋(こうがい) が投降を申し出てきたぞ」

軍の中核をなす人物を集めると、曹操はひきしまった顔をして告げた。

まっさきに口をひらいたのは、程昱という将である。

「孫権陣営は降伏派と主戦派に割れていたが、黄蓋は主戦派の中心人物だったと聞く。そんな男が投降してくるとは、にわかに信じられぬ」

「黄蓋は孫家三代に仕える宿将。忠義の心は人一倍厚いものがありましょう」

参謀の賈詡が同意を示した。

両者ともに経験豊富で、知略に長けた人物である。

彼らは、黄蓋の投降を偽計と見ているようだ。

「古参の臣だろうと裏切る例はあろう。許攸の例もある」

楽進は、彼らしい前のめりな発言をして勇み立った。

「偽りの投降だとしたら、危険な任務だ。黄蓋ほどの人物にさせるだろうか」

徐晃が意見というより疑問を口にした。こちらも彼らしい、慎重な姿勢である。

「黄蓋は荊州の出身だそうだ。我らと戦うのであればともかく、略奪を命じた周瑜に愛想が尽きたにちがいない」

曹洪は訳知り顔でいった。

せっかちな面もあるが、意外と耳ざとい男だ。

彼の意見は一理あるように、曹操には感じられた。

当然ながら、黄蓋の投降を偽りと見なす者もいれば、真実と見なす者もいるようだった。

意見が割れるのは真っ当なことであるから、曹操軍の首脳部はまったく正常といえる。

この場に先立ち、荀攸は偽りであろうと意見を述べており、曹操自身はというと半信半疑である。

だが、半分も信じられるのであれば、これを突破口とすべきであろう。

真実であれば、周瑜軍に大打撃をあたえられる。

偽りであれば、被害をおさえるようにつとめるしかない。

いずれにせよ、臆していてもいたずらに時が過ぎていくだけなのだ。

陣中では疫病が蔓延し、倒れる兵士は日を追うごとに増えている。

契機となりうる要因があれば、積極的に手をのばしていかなければならなかった。

「余は――」

「その投降、偽計っすよ」

曹操の決断をさえぎったのは、この場にいる誰の声でもなかった。

確信めいた声の主をさがして、天幕の入り口に視線が集まる。

そこにあらわれた不良仲間の顔を見るや、曹洪が目を見ひらいて、

「おまえは……郭奉孝!」

「や、どーも」

郭嘉はへらへらと笑いながら返事をする。

曹操は叱責三割、安堵七割の複雑な苦笑をたたえた。

「総大将の座を放り出してきたわりに、ずいぶん時間がかかったではないか」