作品タイトル不明
第82話 誰が引くかを決めさせない
開会の挨拶は、拍子抜けするほど滑らかに終わった。
進行役の声は乱れず、楽師の短い演奏も、来賓の礼も、用意された線の上をなぞるように進んでいく。
穏やかすぎる。
セレフィーナは、会場の端から端まで目を走らせた。
こういう場は、乱れる直前がいちばん美しい。磨き上げられた床も、左右対称の花も、空気の薄い場所を隠すためにある。
「静かですね」
ノアが低く言った。
「静かすぎるわ。どこで誰が毒をこぼすか、見逃さないで」
「承知しました。こぼした瞬間に、瓶ごと拾います」
「中身は捨てて」
「できれば相手の靴に」
「ノア」
「冗談です。少しだけ」
旧来派の席へ視線を向けると、年長の貴族夫人は穏やかに微笑んでいた。扇も優雅に開いている。いかにも親善の席にふさわしい顔だ。
けれど、その目は進行表の端を追っていた。
費用補足欄。
地方側確認欄。
イレーネの名。
獲物を選ぶような目だった。
イレーネは実務席にいる。背筋を伸ばし、費用控えと進行表を照合していた。指先は硬いが、机の下へ隠れてはいない。
フィオナは案内補助の位置に立っている。
ミレイアは少し後ろ。近すぎず、離れすぎず、必要ならすぐ線を引ける距離。
ルシアンは王家側の席で、華やかな来賓ではなく、地味な紙を見ていた。進行表と橋渡し確認書を重ね、何度も視線を往復させている。
その地味さが、今は頼もしい。
やがて進行役が、次の項目へ移った。
「続きまして、地方側実務協力に関する費用補足の確認へ移ります」
紙がめくられる。
一枚。
もう一枚。
そこで、進行役の指が止まった。
会場の明るさが、わずかに白々しくなる。
「……失礼いたしました」
進行役の声が硬くなった。
「こちらの費用補足につきまして、王都側責任欄の確認が未了となっております」
ほんの一拍。
その隙間へ、夫人の声が滑り込んだ。
「まあ、そこまで細かく止めることではありませんわ」
柔らかい声だった。
柔らかいからこそ、刃先が見えにくい。
夫人は扇を閉じる。
かちり、と骨の噛み合う音が鳴った。
「親善の席ですもの。少しの行き違いくらい、皆様で柔らかく受け止めればよろしいのではなくて?」
補佐役が、待っていたように頷く。
「ええ。この程度であれば、後ほど実務側で整えれば十分かと」
この程度。
セレフィーナは、その言葉を胸の内で噛み砕いた。
王都では一行。地方では一晩。そう知っても、まだこの程度と言う。
夫人の視線が、イレーネへ向いた。
「フォルク家は地方事情に明るくていらっしゃいますし、一度そちらでお預かりいただければ」
会場の視線が、すっとイレーネへ寄る。
小家。
実務に強い。
地方事情に明るい。
褒め言葉の衣を着せた、面倒事の押しつけだ。
「場を止めるより、一度お下がりになって、後ほど落ち着いたところで……」
下がる。
その言葉に、ミレイアの指がかすかに動いた。フィオナも息を止める。
以前なら、ここで誰かが笑って引いた。
親善を乱さないために。
場の空気を守るために。
自分の家が悪く見えないように。
イレーネは、手元の控えを押さえた。
紙が小さく鳴る。
そして顔を上げた。
「私はこの役割を継続できます」
声は大きくない。
けれど、驚くほどよく通った。
「費用欄が未確認であることは、私が下がる理由にはなりません。手順通り、確認の工程へ戻してください」
夫人の目が細くなる。
補佐役が何か言おうとした。
その前に、進行役が橋渡し確認書へ目を落とす。
赤字をたどる。
喉が一度、緊張で鳴る。
「役割継続の本人意思、確認済みです」
進行役は言い切った。
「現時点で、フォルク家の役割変更は発生しておりません。変更を行う場合は、本人意思確認および中間承認が必要となります」
夫人の扇の骨が、行き場を失ったようにかちりと鳴った。
「まあ。ずいぶんと堅い運用ですこと」
ルシアンが顔を上げた。
「堅くした」
会場の視線が、王家側へ向く。
「誰かに勝手な役を背負わせないためだ。費用欄の未確認は、確認の不備であって、フォルク家を下げる理由ではない」
短い言葉だった。
しかし、その短さが効いた。
王家側が、その線を認めた。
夫人の柔らかな声は、そこで一度止まるしかなかった。
進行役が息を吸う。
「費用補足につきましては、王都側責任欄の確認を行います。その間、当初進行を継続いたします」
イレーネは下がらなかった。
実務席に残り、控えの端を押さえている。指はまだ白い。けれど、紙の上から逃げていない。
セレフィーナは、手元のペンを持て余すように指先で回した。
自分が立つ前に、止まった。
イレーネが引かず、進行役が紙を読み、ルシアンが線を守った。
ノアが隣で、声を落とす。
「お嬢様の出番、奪われましたね」
「喜ばしいことよ」
「では、犯人たちに感謝状を?」
「余計なことを言わない」
「はい」
セレフィーナはペンを止めた。
胸の奥で、ほんの少しだけ熱が動く。
だが旧来派は、まだ諦めていない。
夫人は扇を開き直し、今度は花の近くへ視線を流した。
フィオナがいた。
「では、少し場を和ませる意味でも」
夫人は、甘く微笑む。
「ルベール家のお嬢様に一言いただいてはいかがかしら。こういう時こそ、柔らかな方が前に立たれると、皆様も安心なさるでしょう?」
今度は、会場の視線がフィオナへ集まる。
「まあ、それは素敵ですわ」
「フィオナ様なら、場も和みますもの」
「ほんの一言ですわよね」
ひそひそとした声が、白い花の間をすり抜ける。
小さな声なのに、逃げ道を塞ぐには十分だった。
柔らかな方。
前に立つ。
安心。
また、あの言葉だ。
フィオナの指が、紹介文の端を押さえる。
紙が少し歪む。胸元が硬くなり、呼吸が浅くなるのが見えた。
ミレイアが一歩動こうとする。
けれど、フィオナが先に口を開いた。
「受けるかどうかは、今ここで決めません」
細い声だった。
だが、さきほどよりもまっすぐだった。
婦人たちの囁きが止まる。
夫人の笑みが、ゆっくり固まった。
「まあ。ほんの一言ですのよ?」
「本日の私の役割は、案内補助です」
フィオナは、紹介文の控えを胸元で押さえたまま言った。
「新しい役割の提案であれば、確認の手順をお願いいたします」
会場の空気が、ひどく薄くなる。
笑って受けると思われていた少女が、笑顔を崩さず、受けなかった。
それだけのことが、ここでは異物だった。
ミレイアはフィオナの横に立つ。
「“考えます”は、正式な返事ですわ」
それだけを添えた。
代わりに言うのではない。
フィオナの声を、倒れないよう横から支えただけ。
進行役が、再び橋渡し確認書を確認する。
「ただいまのご提案は、役割変更に該当いたします」
声は少し上擦っている。
けれど、読まれている手順は崩れない。
「本人意思確認、中間承認、進行影響の確認が必要です。現時点では、当初進行を継続いたします」
夫人の指が、扇の骨を強く押さえた。
「親善の席で、そこまで堅苦しくなさらなくても」
ルシアンが静かに言った。
「堅苦しい手順ではない」
夫人の目が、王子へ向く。
「誰かに勝手な役を背負わせないための最低限だ」
その一言で、補佐役は口を閉じた。
進行役が次の項目へ目を戻す。
「それでは、当初予定どおり、地方側交流紹介へ移ります」
声はまだ少し硬い。
楽師の弓が、最初の音を探るように弦へ触れた。
一拍遅れて、音が出る。
会場には、薄い気まずさが残っている。
扇の動きは揃わず、椅子を引く音も少しずれた。
進行役の紙をめくる手も、さきほどより慎重だ。
それでも、進行は続いた。
イレーネは実務席から下がらない。
フィオナは前へ押し出されない。
ミレイアはフィオナの隣にいる。
ルシアンは王家側の控えへ目を落とし、進行役は橋渡し確認書を手元に置いたまま次へ進む。
セレフィーナは、ペンを指先で回すのをやめた。
彼女の出番は、まだ来ていない。
それが、こんなにも心強い。
ぎこちなく、不格好な親善だった。
楽師の音はわずかに揺れ、進行役の声も完全には戻らない。けれど、止まってはいない。
前ならここで、誰かが笑って引いていた。
今日はまだ、誰も引いていない