軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第52話 守られた人が守る側へ

会議が終わっても、部屋の中には嫌なものが残っていた。

書きかけの議事録。飲み残しの茶。机に肘をついた誰かの跡。神殿の男が置いていった香の匂いだけが、まだ薄く鼻につく。

神殿側も学園側も、ひとまずは引いた。

だが、納得して引いたわけではない。あの責任者が襟元をいじる癖も、神殿の男の貼りついた笑みも、最後まで剥がれなかった。

セレフィーナは、卓の上に残った控えを指で揃えた。

紙が乾いた音を立てる。

エステルはまだ席を立っていなかった。会議の最中より少しだけ肩が落ちている。リリアはその隣で、両手を膝の上に置いたまま、じっと机を見ていた。ミレイアはその二人から目を離していない。ノアは壁際で封筒の口を整え、リズは新しい茶を運んできた。

「ぬるくなってしまいました」

リズが控えめに言う。

「いいわ。今は熱すぎない方が助かる」

受け取って一口飲むと、少し渋かった。

それが妙によかった。

「……さきほど」

エステルが、ようやく口を開いた。

「辞退を望んでおりません、と申し上げた時」

そこで一度、喉に引っかかるように言葉が切れる。

「喉が、思ったより動きませんでした」

ミレイアが小さく息を漏らした。笑うほどではない。けれど、張っていたものが少しほどけた音だった。

「でも、言えました」

「ええ」

エステルは頷く。

「言ってしまった、の方が近いですが」

そして、少しだけ視線を伏せる。

「……あのまま黙っていた方が、きっと楽だったのでしょうね」

「それは違うわ」

セレフィーナが返すと、エステルは顔を上げた。

「楽だったのではなく、諦めやすかっただけよ」

セレフィーナは手元の打診文を指先で押さえた。

「それをしなかったのだから、十分だわ」

エステルは、その言葉をすぐには受け取れないようだった。けれど否定もしなかった。少し考え込んでから、ようやく小さく言う。

「……そうかもしれません」

その隣で、リリアがそっと口を開いた。

「私も、まだ何を選ぶのが正しいのかはわかりません」

袖口を指で整える。その動きは会議の前より落ち着いていた。

「でも、決める前から“あなたが前にいれば場が整う”と言われるのは、やっぱり苦しかったです」

そこで、ミレイアを見る。

「考える時間があるだけで、こんなに違うんですね」

ミレイアは、椅子を少しだけリリアの方へ寄せた。

「違います」

短く、はっきり言う。

「全然、違います」

ノアが封筒の口を閉じる。紙が擦れる音だけが妙にはっきり聞こえた。

「一回は止めましたね」

壁際から聞こえた声は淡々としている。

「でも向こうも、ここで学んだはずです。善意の顔だけでは押し切れないと」

「次は?」

セレフィーナが問う。

「次は“盤面そのもの”をひっくり返しに来ますよ」

ノアは封筒を指で弾いた。

「上の意向、慣例、権限。そういう札を混ぜてきます」

少しだけ口元を上げる。

「……準備はいいですか?」

セレフィーナが返す前に、リズが茶器を置きながら言った。

「やさしく居場所をなくされると、人は自分から退いた気持ちになります」

その声は小さい。けれど、部屋の端までまっすぐ届いた。

「そうなると、戻るのが難しいです」

エステルの指先が止まり、リリアもまた膝の上の手を見た。

セレフィーナは、もう一口茶を飲んだ。

さっきより苦く感じる。

「セレフィーナ様」

ミレイアが呼ぶ。

その声に、前のような遠慮はもうほとんどなかった。

「次も、私にできることをしたいんです」

ノアが封筒を机に置く。

乾いた小さな音がした。

ミレイアは続けた。

「今日、リリアさんに言葉をかけた時」

膝の上の指先が少しだけ強く組まれる。

「うまくできたかどうかはわかりません。でも、あのまま黙っていたら、あとで私が私を許せないと思ったんです」

そこで一度、息を吸う。

「あの時、私を助けてくれた言葉を、今度は私も誰かに渡したいんです」

目が逸れない。

「……あんな顔に、これ以上勝たせたくないんです」

その一言は、綺麗なだけの願いではなかった。

悔しさと、意地と、取り返したいもの全部が混じっていた。

セレフィーナは、すぐに返事ができなかった。

胸の奥が、思ったより強く打つ。

驚いたのだ。

そして、うれしかった。

守られる側にいた人が、自分の足でそこから出て、誰かを守る側へ回ろうとしている。

頼まれたからではない。そうしないと自分を許せないと言って。

そんな言葉を、前の舞台は持っていなかった。

「ええ」

セレフィーナは、ようやく頷いた。

「お願いするわ」

ミレイアの目が少しだけ見開く。

「あなたにしか見えない顔があるもの」

「……はい」

短い返事だった。

けれど、そこに残っているのはもう迷いではなく熱だった。

エステルが、そこで初めてミレイアへ目を向ける。

「先ほど」

少しだけ言いにくそうにする。

「私があの場に残ってよいのだと、少しだけ思えました」

視線を落とし、でも言い切る。

「たぶん、皆さまのおかげです」

「たぶんじゃなくて、そうです」

ミレイアが言うと、エステルは困ったように、けれど前よりずっと素直な顔で頷いた。

リリアも、小さく口を開く。

「次にまた同じようなことを言われたら」

髪の乱れを指で整え、背筋を少しだけ伸ばす。

「その場で答えを渡さないようにしたいです」

その声はまだ細い。

けれど、自分の足で立つ前の声だった。

「ちゃんと考えます。私が、どうしたいのかを」

セレフィーナは、その仕草を見た。

ほんの少しの変化だ。

でも、次はもう少し背筋を伸ばせるはずだと、自然に思えた。

ノアが机の端を指で叩く。

「じゃあ、お嬢様」

「なに」

「次は茶を飲んでる余裕、ないかもしれませんよ」

窓の外へ視線をやる。

「今日みたいに小さな会議で止まるなら、向こうはもっと大きい札を切る。面子も、手順も、上も使ってくる」

「ええ」

セレフィーナは頷いた。

「でしょうね」

「その時、今日みたいに一言で止まるとは思わない方がいいです」

「止まらないなら、もっと大きく止めるだけよ」

ノアが口元だけで笑う。

セレフィーナは立ち上がった。

椅子の脚が床を擦る音が、やけに鋭く響く。

皆の視線が自然に集まる。

「休めるなら休みたいところだけれど」

冷めた茶を見下ろす。

「向こうが次を選ぶ前に、こちらも選ばないといけないわね」

「ええ」

ノアが即答する。

「向こうは、もう巻き返し方を考えています」

「なら、こちらはその上を行くわ」

そう言って、セレフィーナは議事録の控えを閉じた。

今日ここで止めたことを、なかったことにはさせない。

次はもっと大きな顔で、もっと整った言葉で来るのだろう。

それなら、その貼りついた笑顔ごと引き剥がせばいい。

エステルが立ち上がる。

リリアも、それに続く。

ミレイアは最後に席を離れ、セレフィーナの横へ来た。

その並びを見て、セレフィーナはほんの少しだけ顎を上げる。

次は、もっと大きく崩す。

そして今度こそ、あの整えた顔のままでは済まさない。