軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第29話 王都の火は、外にも届く

異変は、ひとつだけなら見過ごせたかもしれなかった。

朝の執務室で、代官が最初に持ち込んだのは、祭礼用の蝋燭と油の到着が遅れているという報告だった。神殿筋の商人が、王都側の確認待ちを理由に荷を止めているらしい。

「確認、ですか」

セレフィーナが問い返すと、代官は困ったように眉を寄せた。

「はい。いつもなら、ここまで長引くことはございません。ですが今回は、神殿側の再照合が必要だと」

「何の再照合ですの」

「そこが、はっきりしないのです」

はっきりしない理由で荷が止まる。

それだけなら、役所じみた遅れで片づけることもできた。

だが、そのあとすぐに二件目が来た。

今度は王都への献納再確認の文書である。

名目は過去三年分の整合確認。不足があれば速やかに補うように、と丁寧な言葉で書かれている。期限は妙に短く、今すぐ応じれば、水路補修と倉庫修繕の予算を削らねばならない額だった。

そして三件目。

領内の季節祭礼に必要な認可が、神殿側で止められていた。こちらは形式上の不備があるとされていたが、添えられた指摘は曖昧で、直すべき箇所が具体的に示されていない。

油。

献納。

祭礼認可。

別々なら、どれも面倒な話で済ませられる。

だが、この時期に重なるのはおかしい。

セレフィーナは机の上へ三つの文書を並べた。横に置かれた帳簿と見比べる。遅れる物資、削られる予算、止まる行事。どれも派手ではない。けれど、どれも放っておけば確実に暮らしへ響く。

「偶然、ではありませんね」

リズが低く言った。

代官はすぐには答えなかった。王都と神殿を相手にする話だ。軽々しく断じられないのだろう。

それでも、しばらくしてから小さく頭を下げた。

「私も、そのように感じております」

「理由は」

「明言はできません。ですが……」

代官は言葉を選んだ。

「最近、王都の空気が妙であることは、こちらにも少しずつ伝わっております。商人たちも神殿筋の顔色を見ておりますし、侯爵家に関する噂も、行商人の口から混じるようになりました」

「どのような噂?」

「令嬢が王都で何かを起こしたらしいとか、急な帰郷には事情があるとか、その程度でございます。露骨ではありませんが、不安を呼ぶには足ります」

代官の声は慎重だった。

領民が露骨に侯爵家を疑っているわけではない。ただ、わからないものは人をざわつかせる。

セレフィーナは三枚の文書をもう一度見た。

王都の混乱。

神殿の圧力。

そして、自分の不在。

あちらで起きていたことが、ついにこちらの暮らしへまで手を伸ばしてきた。

「……ここまで来るのね」

無意識にこぼれた声は、自分でも驚くほど低かった。

自分一人を悪役に仕立てる仕組みだと思っていた。

もちろん、それだけでも十分に不快だった。だが本当はもっと広い。王都の都合で整えられる物語の裏で、その費用も不便も、いつも舞台の外へ押し出される。

領地の祭礼。

物資の流れ。

補修の手。

ここで普通に暮らしている人たちの時間。

それらまで巻き込まれている。

セレフィーナは指先で献納確認の文書を押さえた。

「私を戻したいだけでは足りなくなって、今度は領地へ不便を回すの」

「お嬢さま」

リズが小さく呼ぶ。

「まだ断定は」

「ええ、断定ではないわ。でも、もう偶然とも思えない」

代官は顔を上げられないまま立っていた。

現場の人間にとっては、理由より先に困りごとが来る。油が遅れれば灯が足りない。祭礼認可が止まれば村が動けない。献納の再確認が来れば補修が後ろへ回る。

王都の恋愛劇など、ここでは誰の暮らしも支えないのに。

「対応は私の方で考えます」

セレフィーナは言った。

「水路補修の予算は今の時点では動かしません。蝋燭と油は神殿筋以外の商路を洗い直して。祭礼認可については、文言の確認と、どの経路で止められているのかをもう少し細かく」

「承知いたしました」

代官が下がると、執務室に重い静けさが残った。

窓の外では、領地の朝がいつもどおり進んでいる。荷車が通り、使用人が足早に行き交い、遠くで犬が吠える。何も知らなければ、穏やかな朝だった。

けれど、その穏やかさの裏へ、王都の火がじわじわ届いてきている。

「怒っていらっしゃいますね」

リズが静かに言った。

セレフィーナは否定しなかった。

「ええ。ようやく、怒っているのだと思うわ」

「これまでも、十分お怒りでいらしたでしょうに」

「いいえ」

首を横に振る。

「これまでは、自分がどう扱われていたかへの怒りだったの。見られていなかったこと、使われていたこと、役を押しつけられていたこと」

「……はい」

「でも今は違う。ここで暮らしている人たちの手まで止められる。祭礼も、補修も、物資も。王都の都合で」

言葉にすると、胸の奥にある熱が少しずつ輪郭を持っていく。

「もう、私一人が離れて済む話ではないのね」

その日の夕方、小さな応接室へ呼んだ母エヴァリーヌは、事情を聞き終えるまで一度も口を挟まなかった。

リズが横で文書を揃え、セレフィーナが今朝からの報告を整理して伝える。物資の遅れ、献納再確認、祭礼認可の停滞。ひとつずつなら理屈は立つが、まとめると異様だというところまで話すと、エヴァリーヌはようやく長く息を吐いた。

「……来たのね」

「ええ」

「王都の歪みが、ついに外へ漏れ始めた」

母の声は静かだった。

だが、その静けさの下にある緊張は隠れていない。

「それで、あなたはどうするつもり」

「まだ整理しているところよ」

「本当に?」

セレフィーナは少しだけ黙った。

母は誤魔化せない。表情のわずかな熱で、娘がどこまで決めかけているかを読んでしまう。

「王都へ行く必要はないわ」

エヴァリーヌの声が、そこで少しだけ強くなった。

「あなたが再び傷つく場へ、自分から戻る必要はない。領地を守る方法はほかにもあるでしょう。侯爵家として文書で抗議することも、こちらの流通を別に確保することも、父上と相談してできるはずよ」

「ええ」

「あなたが行く必要はないの」

その言葉に、リズもすぐ頷いた。

「私も同意でございます。お嬢さまがあの場所へ戻らずに済むのでしたら、その方がよろしいに決まっております」

「そうね」

セレフィーナは二人を見た。

「そう思ってくれていることは、ちゃんとわかっているわ」

エヴァリーヌは娘の顔を見つめた。

「なら、なぜそんな顔をするの」

その問いに、セレフィーナはゆっくりと答えた。

「もう、戻るか戻らないかの話ではないからよ」

母の目がわずかに揺れる。

「王都のために行くわけではないの」

「……」

「殿下のためでもない。神殿が求める“正しき形”へ戻るためでもないわ」

リズが息を止めた気配がした。

セレフィーナは、自分の言葉をひとつずつ確かめるように続ける。

「ここを守るために行くの」

「セレフィーナ」

「私の人生を、私の名前を、もう二度と勝手な脚本で使わせないために」

声は思ったより落ち着いていた。

「それに、ここで普通に暮らしている人たちの時間まで、あちらの都合で削らせたくない」

エヴァリーヌはしばらく何も言わなかった。

止めたいのだろう。

母としては当然だ。あの王都がどれほど人を息苦しくするか、彼女はよく知っている。しかも今は、神殿まで本気で動いている。

「あなたは」

やがて、母が低く言った。

「もう、逃げるかどうかで悩んでいるのではないのね」

その言葉は、責めるものではなかった。

痛みごと理解したうえでの確認だった。

「ええ」

セレフィーナは頷く。

「以前の私なら、戻ることは負けだったわ。やっと降りた舞台へ、また押し戻されることだったから」

「そうね」

「でも今は違う。もし行くなら、それは役へ戻るためじゃない。舞台そのものへ手を入れるためよ」

リズが思わず一歩前へ出た。

「お嬢さま」

「わかっているわ。危ないことも、また傷つくかもしれないことも」

「でしたら」

「それでも」

セレフィーナはまっすぐ前を見た。

「外から拒んでいるだけでは、もう守れないものがあるの」

その言葉のあと、応接室には静かな沈黙が落ちた。

暖炉にはまだ火が入っていない。窓の外では夕方の光が細くなり、木々の影が長く伸びている。

エヴァリーヌはその影を見つめるようにして、ゆっくり言った。

「あなたが行くのなら、もう誰かの許しをもらうためではないのね」

「ええ」

「自分で決めた条件を持って」

「そうよ」

母のまなざしの中にあった痛みが、少しだけ別の色へ変わる。止めたい気持ちは消えていない。けれど、目の前にいる娘がもう以前の場所にはいないことも、同時に理解したのだろう。

「私は、行ってほしくないわ」

エヴァリーヌははっきり言った。

「母ですもの。当然よ」

「ええ」

「でも、もし行くなら」

そこで母は立ち上がり、娘の前まで歩いてきた。

「今度は、戻されるのではなく、あなたが条件を持ち込むのだと忘れないで」

「忘れないわ」

リズはまだ納得しきれていない顔だった。

けれどその瞳の奥には、もう反対だけではない色が混じっている。

「……ご一緒いたします」

小さく、けれどきっぱりと言う。

「止めたい気持ちは変わりません。でも、お嬢さまがお一人で行くなど、もっと認められません」

「ありがとう、リズ」

その答えに、ようやく胸の奥の熱がはっきりした形になる。

王都のためではない。

王子のためでもない。

神殿が望む物語を完成させるためでもない。

自分のために。

ここで暮らす人たちのために。

これ以上、勝手な脚本へ人生を使わせないために。

そのためなら、今度は自分から踏み込む。

セレフィーナは窓の外を見た。

夕方の風が庭木を揺らしている。穏やかな、領地の風だ。

けれど、その穏やかさを守るためには、もうただ外に立っているだけでは足りない。

「もう、逃げるかどうかの話ではないわ」

自分でも驚くほど、声はまっすぐだった。

エヴァリーヌとリズが同時にこちらを見る。

「あちらがこちらまで踏み込んでくるなら」

セレフィーナは、はっきりと言い切った。

「今度は私が、踏み込む番よ」

その一言のあと、誰もすぐには話さなかった。

止めたい。

けれど、もうこの決意は軽く揺らぐものではない。

そのことを、二人とも理解した沈黙だった。

窓の外で風が鳴る。

その音は変わらず穏やかで、だからこそ、守るべきものの輪郭をはっきり教えていた。