作品タイトル不明
第15話 役ではなく、名前で呼ばれる
村へ向かう馬車の窓を少し開けると、湿った土と草の匂いが流れ込んできた。朝露をまだ抱えた畑が、道の両側にきちんと並んでいる。誰かが毎日、手を入れている土地の匂いだった。
セレフィーナは知らず、ひとつ深く息を吸う。肺の奥まで青い匂いが満ちて、胸の内側に張りついていたものが、ほんの少しだけほどけた気がした。
馬車が村の入口で止まる。先に下りた代官補佐が振り返った。
「こちらでございます」
セレフィーナも土の上へ足を下ろした。昨夜の風で表面だけ乾いた地面は、靴裏にほどよく固い。井戸のそばにいた女たちが手を止め、納屋の前の男たちが帽子を取る。子どもは露骨にこちらを見て、それから母親の背へ半分だけ隠れた。
あからさまな敵意はない。
ただ、静かな品定めだけが、湿った風に混じって肌に触れる。
胃の奥が、きゅっと小さく鳴いた。
「本日は、井戸まわりと荷車道、それから納屋を」
「ええ。順に見せてちょうだい」
村長らしい老人が前へ出て、ぎこちなく頭を下げた。
「お、お運びいただき、ありがとうございます」
「急に伺ってごめんなさい」
「いえ……その……」
言葉がそこでつかえる。
セレフィーナはそれを待たず、裾を軽く持ち上げて井戸の方へ歩いた。
◇
井戸の足場は、遠目に見たより傷んでいた。
縁の石板が二枚、わずかに沈んでいる。セレフィーナはためらわずしゃがみ込み、手袋の指先で石の継ぎ目をなぞった。少し土が崩れる。後ろで女たちが、あっと小さく息を呑むのが聞こえた。侯爵令嬢がそこまで膝を折るとは思っていなかったのだろう。
「雨のあと、水はどちらに溜まるの」
顔を上げずに尋ねると、若い母親が慌てたように答えた。
「こちら側です。子どもが、よく立つ辺りに」
「冬は?」
「朝いちばんが危なくて……去年、うちの下の子が滑りかけました」
セレフィーナは少し考え、石から手を離す。
「大仕事にはしないわ。ここだけ先に触りましょう」
「ここだけで?」
村長が思わず聞き返した。
「ええ。今、危ないのはここだもの」
老人の顔に、拍子抜けしたような色がよぎる。もっと金のかかる話を告げられると覚悟していたのかもしれない。
「……そんな端金で済むので?」
「済ませるの」
セレフィーナは立ち上がった。
「立派に作り直すのは後でもできるわ。先に転ばないようにしたいの」
井戸端の女たちが、ひそひそと何かを囁き合う。その目に、さっきまでの警戒とは違う色が混じり始めていた。
納屋の戸も、見て終わりにはしなかった。
閉まりきらない戸を押し、少し開け、もう一度閉める。蝶番の音を聞いてから、セレフィーナは戸の下に指を差し入れた。木が思ったより柔らかい。けれど、それだけで決めつけるのは早い。
「冬にはどれくらい雪が積もるの」
納屋の持ち主らしい壮年の男に聞く。
「多い年で膝くらいです」
「吹き込みは?」
「北からまともに来ます」
そこでようやく、セレフィーナは小さく頷いた。
「なるほど。じゃあ、戸だけじゃないわね」
男は目をしばたたかせる。
「見ただけで決めるんじゃなくて、聞くんですね」
「ここで冬を越すのは、私じゃないもの」
そう返すと、男は汚れた手で後頭部をばりばり掻いた。
「そりゃそうだ」
笑うでもなく、困ったような顔で言ったその一言に、周りの空気が少し和む。
村長も今度は口を挟まず、黙って戸の歪みを見ていた。
◇
荷車道の相談は、広場の外れで始まった。
西の畑へ続く道は、子どもたちの遊び場に近い。荷車が通るたび、大人が声を張る。今のところ大きな怪我は出ていないが、ひやりとすることが何度もあったらしい。
「柵を立てるほどではないのです」
若い父親がそう言いながら、少し離れた場所で土を蹴っている男の子を見る。叱られているわけではない。ただ、自分の話をされているのはわかっている顔だ。
「ですが、飛び出す時がありまして」
「柵を立てると、今度は荷の出入りがしにくいわね」
「そうなんです」
セレフィーナは道幅を見た。轍は深くない。草の倒れ方も穏やかで、荷車そのものは乱暴に走っていないのがわかる。
「道を閉じる必要はないわ」
「では」
「ここから先は荷車の道だと、子どもの目に入る形にしましょう」
若い父親が首をかしげる。後ろで聞いていた子どもたちも、意味がわからないままこちらを見ていた。
「縄を張るの」
「縄、ですか」
「越えられないことより、越えてはいけない線が見える方がいいの」
すると、後ろで聞いていた老婆が、小さく口を挟んだ。
「赤布を結んだ方が、子どもは止まりますよ」
皆がそちらを見る。老婆は気まずそうに肩をすくめた。
「縄だけだと、夢中な時は見落とすんです。春に山裾の畑でやりましてね。布がひらひらすると、はっとします」
セレフィーナはすぐにそちらを向いた。
「それ、いただくわ」
老婆が目を丸くする。
「古い前掛けなら裂けます」
「十分。最初の数日は大人がついて、一度そこで止める」
「鐘のあとがいい」
若い父親が言う。
「子どもが広場に集まる時間です」
「じゃあ、その時に」
道の向こうにいた子どもが一人、こっそり縄を張る真似をした。隣の子がそれを見て吹き出す。大人たちの顔も、つられて少しゆるんだ。
そのあとは、あちこちから声が出た。
「ついでに、井戸脇の欠けた石も」
「納屋の下の木が、もう少し柔らかくて」
「だったら順番をつけましょう」
セレフィーナは短く返し、必要なところだけ聞き返した。わからないことはその場で確かめる。村人の方が詳しいことは、そのまま借りる。そうしているうちに、誰かの後ろに隠れていた声が、少しずつ前へ出てきた。
◇
一通り見終え、井戸のそばで水をもらった時だった。さっき赤布の話をした老婆が、両手を前で重ねて近づいてきた。
「あの……」
水と土に晒されてきた手は、ひび割れ、節くれ立っている。その無骨な手が、今は妙に遠慮がちに震えていた。
「なにかしら」
「井戸も、道も、よう見てくださいました」
老婆はそこで一度、唇を湿らせた。
「ありがとうございます、セレフィーナ様」
その呼び方が耳に入った瞬間、指先の椀がわずかに揺れた。水面が小さく震え、光が跳ねる。
老婆は言い直そうとしたらしい。
「い、いえ、お嬢さま」
「そのままでいいわ」
自分の声が思ったより早く出た。喉の奥が妙に熱い。セレフィーナはごまかすように、残っていた水をひと息に飲み干した。
「ありがとう」
老婆がまた頭を下げる。
その手を、思わず包みそうになって、セレフィーナは一瞬だけ指先を浮かせた。けれど触れる代わりに、自分の方が少し深く頭を下げる。
空になった椀の縁が、まだぬるく手の中に残っていた。
◇
館へ戻る馬車の中で、村は少しずつ後ろへ流れていった。井戸のそばではもう男たちが石の具合を見に集まり、道の方では子どもが腕を広げて、さっきの縄の高さを真似している。
「お疲れですか」
向かいのリズが尋ねる。
「少しだけ」
セレフィーナは答えて、足元を見た。靴の先に薄く泥がついている。
「汚れたわね」
「ええ。顔にも少し」
思わず顔を上げると、リズが珍しく、ほんのわずかに笑っていた。
「でも」
彼女はハンカチを差し出す。
「王都では見られなかった、いいお顔です」
セレフィーナは一瞬だけ目を丸くしたあと、受け取ったハンカチで頬を押さえた。窓硝子に映る自分は、たしかに少しだけ、いつもよりやわらかい。
「……そう」
拭いながら、ふっと笑みが漏れる。
「それなら、少しくらい泥がついていても悪くないわね」