軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第15話 役ではなく、名前で呼ばれる

村へ向かう馬車の窓を少し開けると、湿った土と草の匂いが流れ込んできた。朝露をまだ抱えた畑が、道の両側にきちんと並んでいる。誰かが毎日、手を入れている土地の匂いだった。

セレフィーナは知らず、ひとつ深く息を吸う。肺の奥まで青い匂いが満ちて、胸の内側に張りついていたものが、ほんの少しだけほどけた気がした。

馬車が村の入口で止まる。先に下りた代官補佐が振り返った。

「こちらでございます」

セレフィーナも土の上へ足を下ろした。昨夜の風で表面だけ乾いた地面は、靴裏にほどよく固い。井戸のそばにいた女たちが手を止め、納屋の前の男たちが帽子を取る。子どもは露骨にこちらを見て、それから母親の背へ半分だけ隠れた。

あからさまな敵意はない。

ただ、静かな品定めだけが、湿った風に混じって肌に触れる。

胃の奥が、きゅっと小さく鳴いた。

「本日は、井戸まわりと荷車道、それから納屋を」

「ええ。順に見せてちょうだい」

村長らしい老人が前へ出て、ぎこちなく頭を下げた。

「お、お運びいただき、ありがとうございます」

「急に伺ってごめんなさい」

「いえ……その……」

言葉がそこでつかえる。

セレフィーナはそれを待たず、裾を軽く持ち上げて井戸の方へ歩いた。

井戸の足場は、遠目に見たより傷んでいた。

縁の石板が二枚、わずかに沈んでいる。セレフィーナはためらわずしゃがみ込み、手袋の指先で石の継ぎ目をなぞった。少し土が崩れる。後ろで女たちが、あっと小さく息を呑むのが聞こえた。侯爵令嬢がそこまで膝を折るとは思っていなかったのだろう。

「雨のあと、水はどちらに溜まるの」

顔を上げずに尋ねると、若い母親が慌てたように答えた。

「こちら側です。子どもが、よく立つ辺りに」

「冬は?」

「朝いちばんが危なくて……去年、うちの下の子が滑りかけました」

セレフィーナは少し考え、石から手を離す。

「大仕事にはしないわ。ここだけ先に触りましょう」

「ここだけで?」

村長が思わず聞き返した。

「ええ。今、危ないのはここだもの」

老人の顔に、拍子抜けしたような色がよぎる。もっと金のかかる話を告げられると覚悟していたのかもしれない。

「……そんな端金で済むので?」

「済ませるの」

セレフィーナは立ち上がった。

「立派に作り直すのは後でもできるわ。先に転ばないようにしたいの」

井戸端の女たちが、ひそひそと何かを囁き合う。その目に、さっきまでの警戒とは違う色が混じり始めていた。

納屋の戸も、見て終わりにはしなかった。

閉まりきらない戸を押し、少し開け、もう一度閉める。蝶番の音を聞いてから、セレフィーナは戸の下に指を差し入れた。木が思ったより柔らかい。けれど、それだけで決めつけるのは早い。

「冬にはどれくらい雪が積もるの」

納屋の持ち主らしい壮年の男に聞く。

「多い年で膝くらいです」

「吹き込みは?」

「北からまともに来ます」

そこでようやく、セレフィーナは小さく頷いた。

「なるほど。じゃあ、戸だけじゃないわね」

男は目をしばたたかせる。

「見ただけで決めるんじゃなくて、聞くんですね」

「ここで冬を越すのは、私じゃないもの」

そう返すと、男は汚れた手で後頭部をばりばり掻いた。

「そりゃそうだ」

笑うでもなく、困ったような顔で言ったその一言に、周りの空気が少し和む。

村長も今度は口を挟まず、黙って戸の歪みを見ていた。

荷車道の相談は、広場の外れで始まった。

西の畑へ続く道は、子どもたちの遊び場に近い。荷車が通るたび、大人が声を張る。今のところ大きな怪我は出ていないが、ひやりとすることが何度もあったらしい。

「柵を立てるほどではないのです」

若い父親がそう言いながら、少し離れた場所で土を蹴っている男の子を見る。叱られているわけではない。ただ、自分の話をされているのはわかっている顔だ。

「ですが、飛び出す時がありまして」

「柵を立てると、今度は荷の出入りがしにくいわね」

「そうなんです」

セレフィーナは道幅を見た。轍は深くない。草の倒れ方も穏やかで、荷車そのものは乱暴に走っていないのがわかる。

「道を閉じる必要はないわ」

「では」

「ここから先は荷車の道だと、子どもの目に入る形にしましょう」

若い父親が首をかしげる。後ろで聞いていた子どもたちも、意味がわからないままこちらを見ていた。

「縄を張るの」

「縄、ですか」

「越えられないことより、越えてはいけない線が見える方がいいの」

すると、後ろで聞いていた老婆が、小さく口を挟んだ。

「赤布を結んだ方が、子どもは止まりますよ」

皆がそちらを見る。老婆は気まずそうに肩をすくめた。

「縄だけだと、夢中な時は見落とすんです。春に山裾の畑でやりましてね。布がひらひらすると、はっとします」

セレフィーナはすぐにそちらを向いた。

「それ、いただくわ」

老婆が目を丸くする。

「古い前掛けなら裂けます」

「十分。最初の数日は大人がついて、一度そこで止める」

「鐘のあとがいい」

若い父親が言う。

「子どもが広場に集まる時間です」

「じゃあ、その時に」

道の向こうにいた子どもが一人、こっそり縄を張る真似をした。隣の子がそれを見て吹き出す。大人たちの顔も、つられて少しゆるんだ。

そのあとは、あちこちから声が出た。

「ついでに、井戸脇の欠けた石も」

「納屋の下の木が、もう少し柔らかくて」

「だったら順番をつけましょう」

セレフィーナは短く返し、必要なところだけ聞き返した。わからないことはその場で確かめる。村人の方が詳しいことは、そのまま借りる。そうしているうちに、誰かの後ろに隠れていた声が、少しずつ前へ出てきた。

一通り見終え、井戸のそばで水をもらった時だった。さっき赤布の話をした老婆が、両手を前で重ねて近づいてきた。

「あの……」

水と土に晒されてきた手は、ひび割れ、節くれ立っている。その無骨な手が、今は妙に遠慮がちに震えていた。

「なにかしら」

「井戸も、道も、よう見てくださいました」

老婆はそこで一度、唇を湿らせた。

「ありがとうございます、セレフィーナ様」

その呼び方が耳に入った瞬間、指先の椀がわずかに揺れた。水面が小さく震え、光が跳ねる。

老婆は言い直そうとしたらしい。

「い、いえ、お嬢さま」

「そのままでいいわ」

自分の声が思ったより早く出た。喉の奥が妙に熱い。セレフィーナはごまかすように、残っていた水をひと息に飲み干した。

「ありがとう」

老婆がまた頭を下げる。

その手を、思わず包みそうになって、セレフィーナは一瞬だけ指先を浮かせた。けれど触れる代わりに、自分の方が少し深く頭を下げる。

空になった椀の縁が、まだぬるく手の中に残っていた。

館へ戻る馬車の中で、村は少しずつ後ろへ流れていった。井戸のそばではもう男たちが石の具合を見に集まり、道の方では子どもが腕を広げて、さっきの縄の高さを真似している。

「お疲れですか」

向かいのリズが尋ねる。

「少しだけ」

セレフィーナは答えて、足元を見た。靴の先に薄く泥がついている。

「汚れたわね」

「ええ。顔にも少し」

思わず顔を上げると、リズが珍しく、ほんのわずかに笑っていた。

「でも」

彼女はハンカチを差し出す。

「王都では見られなかった、いいお顔です」

セレフィーナは一瞬だけ目を丸くしたあと、受け取ったハンカチで頬を押さえた。窓硝子に映る自分は、たしかに少しだけ、いつもよりやわらかい。

「……そう」

拭いながら、ふっと笑みが漏れる。

「それなら、少しくらい泥がついていても悪くないわね」