作品タイトル不明
第16話 王太子の介入と、すべての霧散
レストランでの、あの衝撃的な夜から、一夜明けた翌日の午前。
ダグラス伯爵家の私の部屋で、私は未だにベッドの上でベットリネンにくるまり、いまだに混乱状態に陥っていた。
(嘘でしょう……嘘よね……? ニコラス様が、最初から私を一途に愛していたなんて。あの激重な独占欲の数々が、彼の本当の姿だったなんて……!)
脳内でこれまでの軌跡を振り返るたび、恥ずかしさと驚きで顔から火が出そうになる。
彼が私を気遣って無理をしているのだと勝手に信じ込み、「お労しいお方……」と一人で悲壮な決意を固めて身を引こうとしていた自分が、あまりにも恥ずかしすぎた。
そんな私の元に、侍女のマリーが引きつった顔で飛び込んできたのは、ちょうどお茶の時間が近づいた頃だった。
「お、お嬢様……っ! 大変ですわ! ニコラス様が、とんでもない方を我が家に連行……いえ、お連れして応接室でお待ちです!」
「え? とんでもない方って……」
私が首を傾げた瞬間、マリーの後ろから、聞き覚えのあるひどく疲弊した声が響いた。私は急いで身支度を整え、応接室へと急いだ。
「え、エドワード殿下……っ!?」
「いや、朝早くから本当にすまないね、ロクサーヌ嬢。君の婚約者が、朝の執務室に血相を変えて怒鳴り込んできてね。『昨日、貴方の姉上が余計な真似をしたせいで僕のロクサーヌがまだ混乱している。今すぐダグラス伯爵家へ訪い、すべてを詳らかにしろ。拒否するなら今夜の国境警備に関する書類一式をすべて灰にしてやる!』と脅されて、文字通り力ずくで馬車に押し込められたんだ」
応接室で待ち構えていたのは、我が国の次期最高権力者であるはずの、王太子エドワード殿下その人だった。いつもは完璧な麗人であるはずの殿下だが、今は上着のボタンが掛け違っており、髪も少し乱れている。何より、その表情には深い疲労が刻まれていた。
そして、その殿下の斜め後ろから、昨夜の狂気を綺麗に爽やかな微笑みの下に隠した私の婚約者が、ぬっと顔を出した。
「おはよう、僕の可愛いロクサーヌ。まだ体調が優れないようだね。本当は君を僕の屋敷に連れて行って一生休ませてあげたかったのだけれど、まずはこの男に真実を説明してもらおうと思ってね」
ニコラス様の瞳が、爽やかに笑いながらも、ギラリと執着の光を放っている。その気配に、私の背筋にゾクゾクとした甘い戦慄が走った。本当に、紳士の仮面を被るのをやめてしまわれたらしい。
「あ、あの……殿下、これは一体……?」
私が恐る恐る尋ねると、エドワード殿下は大きなため息をつき、座っていた長椅子にさらにぐったりと体を預けた。
「すべての元凶は僕なんだ、ロクサーヌ嬢。君に深く謝罪しなければならない。事の始まりは三年前、姉のビクトリア第一王女がローゼンタール王国へ輿入れする前のことに遡る」
殿下は真摯な面持ちで、私の瞳をまっすぐに見つめ、語り始めた。
「当時、姉上はひどく精神的に追い詰められていたんだ。姉上は王族としての責任を誰よりもよく理解していて、高潔で非常に優秀な女性だ。だからこそ、他国へ嫁ぐ恐怖も、国王との関係に対する不安も誰にも本心を明かさず、青白い顔色を化粧で隠し、日に日に痩せていく身体を上手に衣装で誤魔化していた。だが、僕だけは姉上が完全に限界を迎えていることに気づいていた。このまま一人で抱え込ませていては、輿入れ前に心が壊れてしまう。そう危惧した僕は、姉上の心を救いたいと判断したんだ」
エドワード殿下は苦渋をにじませるように視線を落とす。
「そこで僕が目をつけたのが、当時から並外れて優秀で、何があっても絶対に王家を裏切らないと確信していた、幼馴染の側近であるニコラスだった。僕はこいつに、姉上の疑似恋愛の相手になってくれと、個人的に頭を下げて依頼したんだ。精神的に疲弊した姉上が一時的に寄りかかり、甘えられるお飾りの恋人役をね。ローゼンタール側に勘ぐられないよう、徹底的に秘匿された国家任務としてだ」
「……王太子殿下の、ご依頼で……。でも、そこまでして恋愛の形を取る必要があったのでしょうか?」
「それは、姉上の最初で最後の希望でもあったんだ。王族の義務を果たすため、自分の人生のすべてを国に捧げると決めていた姉上が、『他国へ嫁ぐ前に、一度でいいから普通の恋人同士のような付き合いをしてみたい』と僕に漏らした。それこそが、張り詰めていた姉上の心を癒す唯一の救いになると確信したからこそ、僕はその願いを叶えてやりたかった」
エドワード殿下はそこで言葉を区切り、苦笑を浮かべてニコラスを振り返った。
「では、なぜその相手にニコラスを選んだのかと言えば、理由は簡単だ。こいつが徹底して冷徹で、どんな美女に迫られようと絶対に心を動かさない、鉄壁の理性の持ち主だったからだ。姉上に変な情を抱くこともなく、完璧に『お飾りの恋人』としての任務を遂行できる男は、国中でニコラスしかいなかった。だが、社交界の連中はその表面だけを切り取って、至高の悲恋などと勝手な噂を仕立て上げた。ニコラスは任務を全うしただけなのに、可哀想に、その噂のせいでずっと『王女を引きずっている冷徹男』というレッテルを貼られる羽目になったんだよ」
エドワード殿下はそこで言葉を区切り、呆れたような苦笑を浮かべてニコラス様を振り返った。
「そんな任務が終わってすぐ、こいつが僕の元へ飛んできた。君の絵姿と家系図を私のデスクに叩きつけてね。『エドワード、僕は一目惚れをしてしまった。お茶会で僕は本物の妖精に出会ったんだ! ダグラス伯爵家のロクサーヌ嬢だ。ビクトリア殿下の任務は終わったんだから、今すぐ彼女との婚約の裏工作を手伝え。拒否するなら今までの貸しをすべて一括で請求する』と、それはもう恐ろしい剣幕で迫られたよ。いつもの冷徹さはどこへ行ったんだと、僕は耳を疑ったね」
「裏工作だなんて人聞きの悪い。僕は彼女のあの潤んだ瞳に、魂ごと射抜かれたんですよ。運命の相手を見つけたのですから、手段を選んでいられるわけがないでしょう」
ニコラス様が当然のように口を挟んだ言葉に、私の顔は一気に沸騰した。
あのお茶会の日、私が「この人が、あの噂の……!」と身構えて凝視していたのを、彼は自分への情熱的な視線だと、幸福な一目惚れとして受け止めていたのだ。
「いいかい、ロクサーヌ嬢。ニコラスの心にいたのは、学園時代から今まで、最初から君だけだ。あいつが姉上の帰国準備で忙しくしていたのも、僕に弱みを握られて臨時の関税交渉にこき使われていただけで、姉上への未練なんて爪の先ほどもない。姉上が君に対して意地の悪い、マウントを取るような真似をしたのもね……。つい懐かしい故郷に戻って悪戯心が疼いたのと、当時の『お飾りの恋人』に少しだけ甘えたくなってしまったという、八つ当たりに近い感傷なんだ。本当にすまなかった」
王太子殿下が、一貴族の令嬢である私に向かって、深く頭を下げた。
その瞬間、一年間、私の胸をきつく縛り付け、苦しめてきたすべての霧が、嘘のように跡形もなく消え去っていった。
(ああ……本当に。本当にお飾りなんかじゃ、なかったんだわ……)
脳の奥底に、一気に濁流のような幸福感が押し寄せてくる。
ニコラス様が私にくれた、毎日の短い手紙。アクアマリンの髪飾り。馬車の中での余裕のない顔。夜会での、世界で一番大切なものを追うような必死な眼差し。
そのすべてが、演技でも、誰かの身代わりでもなく、私個人に向けられた、本物の、狂おしいほどの愛だったのだ。
「ロクサーヌ」
ニコラス様がゆっくりとソファに近づき、私の前に膝をついた。
エドワード殿下が「じゃあ、僕は書類が山積みだから帰るよ。ニコラス、二度と僕を拉致するなよ」と呆れたように部屋を出ていった後。ニコラス様の手が、そっと私の手を包み込む。昨夜と同じ、驚くほど情熱的で、けれど愛おしさに震える温かい手。
「これで、信じてくれたかい? 僕が愛しているのは、世界中で君だけだ。もう、僕の前から消えようなんて思わないでほしい。君が僕を拒むなら、僕は本当に、すべてを捨てる覚悟があるんだから」
少しだけ、拗ねたように視線を彷徨わせる彼の瞳。その中にある、隠しきれない独占欲の塊を見て、私はもう、心の防衛線を張る必要などどこにもないのだと確信した。
「はい。もう絶対に、どこにも行きませんわ」
私は彼の首筋へと飛び込んだ。驚いたように私を抱きとめたニコラス様の腕が、今度は絶対に離さないと誓うように、強く、強く私を締め付ける。
すれ違い続けた一年の終わり。それは、私達の人生で最も甘く、そしてちょっぴり過激な本当の溺愛の日々の始まりだった。