作品タイトル不明
第15話 緊迫の記念日
王都最高峰の格調高きレストラン、その豪奢な個室で私はこれ以上ないほど見事に、完璧な仮面の微笑みを浮かべていた。
給仕が下がったばかりのテーブルの上には、デザートの代わりに、私が昨夜涙を流しながらしたためた婚約破棄の書状。
「短い間でしたけれど、お飾りとしての役目を全うできて光栄でした。さあ、どうぞこの書類をお受け取りください。私達の婚約は、本日をもって円満に解消いたしましょう」
ここなら人目もない。彼も大人の男として、静かに義務である私から解放され、ビクトリア殿下の元へ戻れるはず。そう信じて疑わなかった私を衝撃が襲った。
パキンと。目の前で、ニコラス様が大切に維持していた紳士の仮面が、致命的に破壊される音が聞こえた気がした。
「婚約、解消……?」
ニコラス様の低く、地を這うような声。
「ニコラス様、今までありがとうございました。貴方のこれからの幸福をお祈りいたします。では、これで失礼致します」
私は席を立ち、深く頭を下げた。彼を解放してあげられたという満足感と、喉の奥からせり上がる泣き出しそうな衝動を抑え、部屋の出口へと急ごうとした、その時だった。
振り返り、足を踏み出そうとした瞬間に、心臓が跳ね上がった。
気づけば私は、回り込んできたニコラス様の大きな身体によって完全に退路を断たれ、壁際へと追い詰められていた。
「ニッ、ニコ、ラス様……?」
恐怖に足がすくみ、背中が冷たい壁にぶつかる。
直後、激しい音を立てて私の顔の真横に彼の両手が叩きつけられた。完全に、彼の長い腕の中に閉じ込められる。いつも私の髪に優しく触れていた彼の両手が、今は私の逃げ道を完全に塞ぎ、冷え切った壁面に私を閉じ込めていた。
見上げる彼の顔には、社交界の誰もが憧れた爽やかな貴公子の面影など、微塵も残っていなかった。ニコラス様の、あの優しげに細められていた瞳が、完全に据わっていた。光を失って暗い瞳。その美貌は激しい怒りと絶望に歪み、その瞳の奥からは、どろりとした生々しい執着が溢れ出している。
「なぜ、なぜそんなことを言うんだ、ロクサーヌ。君が、君だけが僕のすべてなのに」
「ニ、ニコラス様。落ち着いてください、ここはレストランですわ。それに、貴方が本当に愛していらっしゃるのは、ビクトリア殿下でしょう。私はお飾りで」
「いい加減にしろ!!」
個室の壁を震わせるほどの怒鳴り声に、私は息を呑んだ。あの冷静沈着な王宮次官が、完全に理性を失って声を荒らげている。ニコラス様は血走った眼をさらに歪ませ、狂うように叫んだ。
「ビクトリア殿下との間に、愛なんて一滴もあるわけがないだろう! あれは、エドワードに頼まれた疑似恋愛だ! 隣国への輿入れを前に、暗殺や醜聞から殿下を守るための、ただの目眩まし、王太子の依頼による国家任務だったんだよ!」
「え? ぎ、擬似?」
「そうだ! 僕は殿下に指一本触れたこともないし、未練なんて爪の先ほどもない! 僕が、僕がこの世で狂うほど愛しているのは、ロクサーヌ、君だけだ!!」
あまりの衝撃発言の連続に、私の脳は完全にフリーズした。何を言っているの、この人は。
「君は、母上のお茶会で僕が君に一目惚れしたあの日から、僕がどれほどの執念で君のことを調べ、君を僕の妻にするために裏工作を仕掛けて婚約を取り付けたか、何も知らないんだな」
ニコラス様は至近距離から私を見下ろし、私の細い肩を大きな手で掴むと、骨が軋むほどの力で指を食い込ませた。痛いと声を上げる隙すら与えられない。まるで子供のように、激しく身体を震わせながら本音を吐き出し続けた。
「君に警戒されたくなくて、必死に『爽やかな紳士』を演じて、毎日手紙を書いて、君の瞳と同じアクアマリンを贈った! それなのに、君はいつも一歩引いて、僕を彼女の元へ押し戻そうとする! 二週間会えなかっただけで僕は死にそうだったのに、殿下と関税の交渉をしていただけで、どうして君に捨てられなければならないんだ!」
「あ……」
パチパチと、脳内でパズルのピースが音を立てて嵌まっていく。二週間届かなかった手紙は、ただの外交交渉という激務のせい。昨夜の薔薇園での豹変は、私に手出しされそうになって本気で激怒していただけ。そして、彼は最初から私だけを愛していた。
「嘘、じゃあ、私の今までの覚悟は」
「覚悟なんて、頼むから捨ててくれ」
ハァ、ハァ、と荒い呼吸を繰り返しながら、ニコラス様は懇願するように、けれど絶対に拒絶を許さない力強さで、私の額に自分の額を押し当ててきた。その瞳にあるのは、逃げようとする小鳥を手段を選ばず捕獲しようとする、獰猛な男の光だった。
「もう隠さない。君がどうしても僕の手から逃げるというのなら、僕は今すぐ、この王宮次官の職も、トーラス侯爵家の地位もすべて捨てる。君の父上のダグラス伯爵を脅してでも、君を誰も知らない地の果てまで連れ去って、僕の部屋に一生閉じ込めてやる」
「ニコラス、様」
「お願いだ、ロクサーヌ。僕を、狂わせないでくれ」
ドクン、と胸が高鳴る。恐怖。けれど、それ以上に私の胸を満たしたのは、脳が痺れるほどの甘い歓喜だった。お飾りなんかじゃなかった。私は、この恐ろしくも美しい男に、最初から骨の髄まで愛されていたのだ。
「閉じ込めるなんて、そんな面倒なことをなさらなくても」
私は、一年間張り続けてきたお飾り防衛線を自ら粉々に砕き、彼の首にそっと両腕を回した。
「私はどこにも逃げませんわ、私の、愛する婚約者様」
最悪のすれ違いの果て、ついに交際一周年記念日の夜、二人の本当の溺愛劇の幕が上がった。