作品タイトル不明
第9話 未亡人ヴィルヘルミーネ
ヴィルヘルミーネ・フォン・ゼッケンドルフは、王都で最も優雅に悪評を着る女だった。
若くして夫を亡くした未亡人。
美しい黒髪と、薄い笑み。
社交界では「男を破滅させる女」と呼ばれていた。
もっとも、実際に破滅していたのは彼女の亡夫である。
賭博、投資、愛人、酒。
それらを美しく並べると、放蕩という言葉になる。
ヴィルヘルミーネは、その後始末をしただけだった。
だが、社交界は後始末をした女より、破滅した男の方を哀れむ。
男が借金を作れば悲劇。
女が帳簿を閉じれば冷酷。
なかなか便利な世界である。
コンスタンツェが彼女を訪ねたのは、逃亡資金の相談のためだった。
これは大事な相談である。
一度目のように宝石箱を抱えて逃げるなど、愚者の所業だ。
いや、やったのは自分だが、だからこそ断言できる。
愚者の所業である。
宝石箱は重い。
重いものは沈む。
沈むものを持って水辺に近づいてはいけない。
ゼッケンドルフ邸の客間は、ヴィルヘルミーネそのもののようだった。
暗い葡萄色の壁紙。
黒檀の卓。厚い絨毯。花は少ないが、銀の燭台が美しい。
コンスタンツェは銀というだけで少し警戒したが、燭台なら飲まなくてよいので許した。
ヴィルヘルミーネは長椅子に腰掛け、黒い扇を片手にしていた。
「まあ、ルーデンドルフ公爵令嬢」
声は柔らかい。
だが、その柔らかさは絹ではなく、よく研いだ革のようだった。
「あなたがわたくしを訪ねてくださるなんて。社交界もいよいよ退屈ではなくなったのね」
「退屈をお届けに来たわけではありませんわ」
「では何を?」
「逃亡資金の相談です」
イーダが後ろで、完全に目を閉じた。
ヴィルヘルミーネは扇の陰で瞬きをした。
それから、ゆっくり笑った。
「いいわ。好きよ、そういう入口」
「笑い事ではありませんの」
「ええ。お金の話は笑い事ではないわ。命の次に大切ですもの」
コンスタンツェは目を見開いた。
「分かっていらっしゃるのね」
「夫が死んだ後で、よく分かったわ。愛は借用証書を燃やしてくれないの」
「名言ですわ」
「使ってもよろしくてよ」
この女は信用できるかもしれない。
少なくとも、宝石箱を抱えて走るよりは。
コンスタンツェは命乞い帳を開き、資産分散の項目を見せた。
見せるのは非常に恥ずかしかったが、ここで恥じて溺れるのはもっと恥ずかしい。
ヴィルヘルミーネは帳面を受け取り、しばらく黙って読んだ。
「宝石箱の重量」
「重要ですわ」
「逃走時の推定速度」
「たいへん重要ですわ」
「豚小屋回避経路」
「最重要ですわ」
「水辺全般への敵意」
「当然ですわ」
ヴィルヘルミーネは帳面を閉じた。
「あなた、宝石箱を持って逃げたことがあるの?」
コンスタンツェの背筋が凍った。
「なぜそう思いますの」
「持って逃げたことのない人間は、ここまで箱の重量を憎まないわ」
この未亡人、危険である。
オスカーとは違う方向に鋭い。
「夢ですわ」
「便利ね、夢」
「最近よく言われます」
「でしょうね」
ヴィルヘルミーネは帳面を卓に置き、身を乗り出した。
「まず、宝石箱を持って逃げる女は三流よ」
「身に染みておりますわ」
「二流は、宝石だけを袋に詰める」
「一流は?」
「逃げる前に換金して、分散しておくの」
コンスタンツェは思わず身を乗り出した。
「先生とお呼びしても?」
「授業料は高いわよ」
「命よりは?」
「命より高いものはないわ。けれど、命の次なら遠慮なく取る」
「信用できますわね」
ヴィルヘルミーネは笑った。
「まず、宝石は三種類に分けなさい。思い出の品、換金用、賄賂用」
「思い出の品も必要ですの?」
「ええ。人間は逃げる時、全部捨てると後で壊れる。壊れた人間は判断を誤るわ」
コンスタンツェは少し黙った。
一度目、自分は母の首飾りも宝石箱に入れていた。
だから手放せなかったのかもしれない。
もちろん金も惜しかった。
かなり惜しかった。
だが、それだけではなかった可能性がある。
可能性があるだけで、認めるには早い。
「換金用は?」
「大きな石は目立つ。小さく、質のよいものを。金貨は重いから、小袋に分ける。商人の信用状も用意する。ただし、発行元は三つ以上に分けなさい。一つ潰れたら終わりでは、逃亡ではなく賭博よ」
「賄賂用は?」
「相手に合わせて。門番には金貨。小役人には書類上の便宜。貴族には秘密。聖職者には寄付」
「世の中、きれいではありませんわね」
「きれいな世の中なら、わたくしたちは悪女と呼ばれていないわ」
ヴィルヘルミーネの声は軽かった。
軽いからこそ、奥に沈んだものが見えにくい。
コンスタンツェは、ふと彼女の手元を見た。
指輪は一つだけ。
亡夫の家の紋ではなく、彼女自身の実家の小さな紋章だった。
「あなたは」
コンスタンツェは言った。
「ご主人を破滅させたと噂されていますわね」
「ええ」
「本当ですの?」
「いいえ」
ヴィルヘルミーネはあっさり答えた。
「夫は自分で崖から落ちたの。わたくしは、落ちた後で周囲に飛び散った借用証書を拾っただけ」
「それで、あなたが悪女に?」
「男の失敗を片づける女は、たいてい怖がられるのよ」
「片づけないと?」
「無能と呼ばれる」
「便利な罠ですわね」
「でしょう?」
ヴィルヘルミーネは茶を飲んだ。
コンスタンツェは、その姿を見ながら思った。
一度目の自分は、こういう女を遠ざけていた。
悪評のある女。
近づくと自分の評判まで落ちそうな女。
王太子妃にふさわしい清らかな輪から外された女。
だが、清らかな輪の中で、自分は誰にも助けられなかった。
「ヴィルヘルミーネ様」
「あら、様をつけるの?」
「逃亡資金の先生ですもの」
「悪くないわ」
「王太子派の金の流れについて、何かご存じ?」
ヴィルヘルミーネの目が、少しだけ細くなった。
「どうして?」
「最近、いくつか気になることがありますの。薬草の流通。王宮周辺の荷道。アーレンス男爵家への庇護。そして、わたくしの未来の死亡率」
「最後だけ妙ね」
「一番重要ですわ」
ヴィルヘルミーネは扇を閉じ、卓の上を軽く叩いた。
「ハルトヴィヒ家の周辺で、短期の借入が増えているわ」
「マグヌス・フォン・ハルトヴィヒ?」
「ええ。表向きは王太子殿下の行事費。けれど、行事費にしては現金化が早い。しかも、食料と薬草と馬車業者に流れている」
コンスタンツェの指先が冷えた。
薬草。
馬車業者。
荷道。
「なぜ、そんなことを知っていますの」
「未亡人は暇なのよ」
「嘘ですわね」
「ええ。夫の借金を整理した時、王都の金貸しと商人の半分に顔が利くようになっただけ」
「強いですわ」
「悪女ですもの」
ヴィルヘルミーネは優雅に笑った。
「ただし、わたくしは証拠を持っているわけではない。噂と数字の匂いだけ」
「匂いは大切ですわ。毒も、たぶん匂いますもの」
「毒?」
「比喩です」
「あなたの比喩は、だいたい実物の気配がするわね」
この人も危険だ。
なぜこの話の周囲には、鋭い人間ばかり集まるのか。鈍い人間が恋しい。いや、王太子は別の意味で困るので除外する。
ヴィルヘルミーネは帳面の余白に、いくつか商会の名を書いた。
「信用状なら、この三つ。小袋用の金貨は、重さを考えて銀貨と混ぜなさい。宝石の換金は、急ぐと足元を見られるわ。今から少しずつ」
「今から?」
「逃げる時に準備する女は遅いの。逃げないで済むように準備するのが上等よ」
コンスタンツェは胸に手を当てた。
「わたくし、上等を目指しますわ」
「まずは宝石箱を卒業ね」
「つらいですわ」
「命より?」
「命よりは……軽いですわ。たぶん。状況によりますけれど」
「そこは断言なさい」
イーダが背後で深く頷いていた。
帰り際、ヴィルヘルミーネは玄関まで送ってくれた。
「ルーデンドルフ様」
「何ですの」
「あなた、どうして急に悪女たちを訪ねているの?」
コンスタンツェは足を止めた。
「悪女たち?」
「エリーザベトにも会ったのでしょう。次は誰かしら。わたくしの次に悪評の似合う女を探すの?」
「悪評は似合いたくて似合うものではありませんわ」
「分かっているのね」
「最近、少し」
ヴィルヘルミーネは、黒い扇で口元を隠した。
「なら、覚えておくといいわ。悪女が一人なら、吊るされる。悪女が二人なら、噂になる。悪女が三人なら、社交界は少し警戒する」
コンスタンツェは、その言葉を胸の中で転がした。
悪女が一人なら、吊るされる。
自分は一度目、ほとんど一人だった。
いや、違う。
周囲に人はいた。だが、同じ側に立つ人間はいなかった。
「では、五人なら?」
コンスタンツェが聞いた。
ヴィルヘルミーネは笑った。
「派閥ね」
その時、コンスタンツェの中で何かがかちりと鳴った。
悪女。毒婦。未亡人。庇護される少女。高慢な公爵令嬢。
それぞれ別々に立っていれば、誰かの物語に都合よく使われる。
だが、集まればどうなる。
分からない。
ただ、少なくとも一人で毒杯を見つめるよりはましだ。
「ヴィルヘルミーネ様」
「何?」
「またお会いしても?」
「授業料を持っていらっしゃい」
「現金で?」
「情報でもいいわ」
「では、わたくしの命乞い帳の一部を」
「それは高く売れそうね」
「売らないでくださる?」
「考えておくわ」
信用できるのか、できないのか。
だが、信用できすぎる人間より、条件が見える人間の方が扱いやすい場合もある。
馬車に乗ると、コンスタンツェはすぐ命乞い帳を開いた。
五十二、宝石箱を持って逃げる女は三流。
五十三、宝石は思い出用・換金用・賄賂用に分ける。
五十四、信用状は三商会以上に分散。
五十五、ハルトヴィヒ家周辺で現金化の動きあり。食料・薬草・馬車業者。
五十六、ヴィルヘルミーネ・フォン・ゼッケンドルフは悪女というより会計の鬼。
五十七、悪女が五人なら派閥。
書いてから、コンスタンツェはペンを止めた。
悪女が五人なら派閥。
悪くない。
実に悪くない。
「イーダ」
「はい」
「わたくし、思いつきましたわ」
「今度は何でございましょう」
「悪女を集めます」
イーダは目を閉じた。
最近、彼女は目を閉じることが増えた。
祈っているのかもしれない。主の正気を。
「お嬢様。それは、非常に危険な響きがいたします」
「危険だからよいのですわ」
「よいのでしょうか」
「悪女が一人なら吊るされます。でも、五人なら派閥です」
コンスタンツェは胸を張った。
「わたくし、今度は一人で毒杯の前に立つつもりはありませんの」
言ってから、自分で少し驚いた。
それは、生き延びるための言葉だった。
保身であり、計算であり、臆病な女の防衛策だった。
けれど、その奥に、別のものがほんの少し混じっていた。
一度目で、自分は誰の手も取らなかった。
だから誰も、手を伸ばしてくれなかった。
今度は。
コンスタンツェは窓の外を見た。
暮れかけた王都の屋根が、淡い金色に沈んでいる。
「まずは、エリーザベトとヴィルヘルミーネ。それからリーネ」
「アーレンス様も?」
「ええ。あの子は悪女ではありませんけれど」
「では、なぜ」
「悪女にされる前に、こちらへ引きずり込みます」
「言い方が」
「保護します」
「そちらの方がよろしいかと」
コンスタンツェは少し考え、命乞い帳に書き足した。
五十八、リーネは悪女ではない。だが、悪女の席に座らされる可能性あり。
五十九、座らされる前に椅子をこちらで用意する。
六十、悪女同盟。名称は再考。少し物騒。
馬車が公爵邸の門をくぐる。
空は暮れて、庭の噴水は灰色に沈んでいた。水音が遠く聞こえる。相変わらず嫌な音だったが、今日は少しだけ小さく聞こえた。
コンスタンツェは命乞い帳を閉じた。
毒杯はまだ遠い。
豚小屋も、堀も、未来の底で口を開けている。
けれど、彼女の手元には帳面がある。
イーダがいる。
オスカーがいる。
エリーザベトの毒草の知識がある。
ヴィルヘルミーネの金勘定がある。
リーネの小さな疑問がある。
どれも頼もしいとは言い切れない。
むしろ厄介で、危険で、扱いにくい。
それでも、一人で宝石箱を抱えるよりは、はるかに軽かった。