作品タイトル不明
第8話 毒婦エリーザベト
エリーザベト・フォン・ヴァルテンブルクは、毒婦と呼ばれていた。
もっとも、本人が誰かに毒を盛ったという確かな話はない。
ただ、薬草に詳しく、花の名より毒草の名を正確に言え、病人の咳を聞くと茶会の途中でも薬湯の配合を考えはじめるので、社交界の令嬢たちは彼女を少し怖がっていた。
知識のある女は、よく毒を持っていることにされる。
コンスタンツェは、それを一度目の人生で知った。
一度目の断罪の夜、毒杯に使われた毒はヴァルテンブルク家の薬草園にあるものだと噂された。
エリーザベトはその後、王宮から遠ざけられた。
彼女が本当に関わっていたのか、コンスタンツェは知らない。
知ろうともしなかった。
自分の毒杯で精一杯だったからだ。
今にして思えば、ずいぶん視野が狭い。
だが、毒杯を目の前にした女に広い視野を求める方が酷である。
コンスタンツェは馬車の中で、命乞い帳を開いた。
四十、エリーザベト・フォン・ヴァルテンブルクに接触。
四十一、ただし毒婦なので距離を取る。
四十二、両手を見せてもらう。
四十三、茶は飲まない。
四十四、飲む場合はイーダに先に匂いを嗅がせる。
四十五、それは少しひどいので再考。
イーダが横から覗き込み、静かに言った。
「お嬢様。四十四は消された方がよろしいかと」
「分かっていますわ」
「残っております」
「消すと、紙が汚れますもの」
「わたくしの命より紙面を?」
「そういう言い方をすると、わたくしが悪人みたいではありませんの」
イーダは答えなかった。
答えなかったことで、答えたも同然だった。
ヴァルテンブルク伯爵邸は、王都の北側にあった。
華やかな大通りから少し外れ、古い石垣と蔦に囲まれた屋敷である。
庭園には薔薇より薬草が多く、甘い香りより、青く苦い匂いがした。
門をくぐると、コンスタンツェは鼻を押さえた。
「何ですの、この匂い」
「薬草でございましょう」
「薬草という名の、社交界への宣戦布告ですわ」
イーダは馬車の扉を開けながら、少しだけ眉を下げた。
「どうか、本日は先方に聞こえない声量でお願いいたします」
「わたくしは常に上品ですわ」
「声量以外は」
近頃、イーダがよく刺してくる。
使用人の待遇改善には、口の自由まで含まれていたのだろうか。契約書に書いておくべきだった。
通された温室は、硝子の屋根から光が落ちていた。
鉢植えの草木が幾列にも並び、葉の形も、匂いも、色も、それぞれ違っている。
白い花、紫の実、細い茎、肉厚の葉。
美しいものもあったが、コンスタンツェにはどれも怪しく見えた。
その奥に、エリーザベトがいた。
濃い栗色の髪を後ろでまとめ、深緑のドレスを着ている。
飾りは少なく、顔色は白い。
目だけが澄んだ灰色で、こちらをまっすぐ見る。
愛想笑いをする気配はない。
「ルーデンドルフ公爵令嬢」
エリーザベトは静かに礼をした。
「ヴァルテンブルク令嬢。本日は急な訪問をお許しいただき、感謝いたしますわ」
「急でしたね」
「……率直ですのね」
「薬草は、遠回しに言っても効きませんので」
コンスタンツェは扇を開いた。
強敵である。社交辞令を薬草で切ってくる女は初めてだった。
「お座りになりますか」
「その前に」
コンスタンツェは真剣に言った。
「両手を見せてくださる?」
エリーザベトは無表情のまま、数秒黙った。
「両手」
「ええ。何か持っていないか確認したいのです」
「毒を?」
「あなたがご自分でおっしゃる分には、わたくしはそこまで申しておりませんわ」
「ほぼ同じです」
「生存本能ですの」
イーダが後ろで頭を下げている。おそらく、心の中でも頭を下げている。
エリーザベトはしばらくコンスタンツェを見つめていたが、やがて静かに両手を上げた。
白く細い手だった。指先に土の跡が少しついている。
「これで?」
「ありがとうございます。安心しましたわ」
「わたくしは不愉快です」
「でしょうね。そこは申し訳なく思っております」
「謝るのですね」
「最近、命乞いの練習をしておりますので」
また沈黙。
温室の外で、鳥が一羽鳴いた。
エリーザベトは、わずかに眉を寄せた。
「変わった方ですね」
「よく言われますわ。最近」
「以前は?」
「高慢と言われておりました」
「それは今も少し」
「初対面でなかなか斬りますのね」
「両手を見せろと言われた後ですから」
もっともである。
茶は出された。
草の匂いのする茶だった。
コンスタンツェは茶杯を見た。
白磁。
銀の匙はない。
そこはよい。
だが中身が緑がかっている。
非常に不穏である。
「飲まないのですか」
エリーザベトが聞いた。
「これは何の茶ですの?」
「レモンバームとハッカです。緊張を和らげます」
「緊張を和らげるものと、二度と目覚めないものの違いは?」
「量と配合です」
「その答えを聞きたくありませんでしたわ」
エリーザベトは、自分の茶を先に飲んだ。
「毒ではありません」
「毒を扱う方は、自分用の解毒剤を持っているものでは?」
「物語の読みすぎです」
「現実が物語より親切だという保証はありませんわ」
そう言いながらも、コンスタンツェは茶を一口飲んだ。
苦くはなかった。薄荷の香りが鼻に抜け、胸の奥のざわめきが、ほんの少しだけ静まった。
悔しいが、効く。
「それで」
エリーザベトは茶杯を置いた。
「わたくしに何の御用でしょう。公爵令嬢が、わざわざ毒婦の温室へ来る理由としては、両手の確認だけでは少し弱い」
「毒婦という呼び名は、お嫌ではなくて?」
「嫌です。ですが、否定し続けるのにも疲れました」
「分かりますわ」
コンスタンツェは思わず言った。
エリーザベトの目が少し動く。
「あなたが?」
「ええ。悪女と呼ばれるのは、なかなか面倒ですもの。特に、やっていないことまで乗せられると重いですわ」
「やっていることはあるのですね」
「人間ですから」
「便利な言い方ですね」
「お互い様ですわ」
エリーザベトは初めて、ほんのわずかに口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
笑わない方が似合う顔だったが、笑っても怖かった。
コンスタンツェは命乞い帳から、一枚の紙を抜いた。
そこには、一度目の夜に覚えている毒杯の特徴を書いてある。
色。
匂い。
飲む前に気絶したため、味は分からない。
銀杯の縁に残っていた油膜のような光。
マグヌスが口にした「苦しまぬ」という言葉。
彼女の記憶は恐怖で歪んでいるが、それでも書けるだけ書いた。
「夢を見ましたの」
コンスタンツェは言った。
「冷たい夢です。そこで、毒杯を出されました」
「夢占いは専門外です」
「わたくしも信じておりませんわ。けれど、その毒のことが気になって」
エリーザベトは紙を受け取った。
最初は冷めた顔で見ていた。だが、途中から目つきが変わった。
紙の上を、指がゆっくりなぞる。
「……この匂いの書き方」
「何か分かりますの?」
「苦扁桃に似た香りと、湿った鉄の匂い。甘草で隠した苦み。眠り草を混ぜた可能性があります」
「眠らせる毒?」
「量によります。少量なら鎮静。多ければ呼吸が弱ります」
コンスタンツェの喉が鳴った。
「嫌な草ですわね」
「草は使い方次第です」
「その言い方をする人は、たいてい怖いですわ」
エリーザベトは紙から目を離さなかった。
「ただ、この配合は妙です。苦みを隠すなら別のものを使う。これでは、飲む前に気づかれやすい」
「わたくしは気づく前に気絶しましたけれど」
「夢の話では?」
「比喩ですわ。夢の中のわたくしは、たいへん臆病でしたの」
「今も十分に」
「否定しませんわ」
エリーザベトは少し考え込んだ。
「最近、王都で眠り草が妙に動いています」
「動く?」
「買い集められているという意味です。医師や薬師ではない筋から」
「誰が?」
「分かりません。ただ、ヴァルテンブルク家の薬草園から出たように見せかけた荷があると、父が言っていました」
温室の空気が、少し冷えたように感じた。
コンスタンツェは茶杯を見た。白磁の中で、薄い緑の茶が静かに揺れている。
一度目の毒杯。
エリーザベトの噂。
毒婦。
悪女。
誰かに役名を与えられた女たち。
「あなたは、誰かに毒を盛ったことがありますの?」
コンスタンツェは聞いた。
イーダが背後で息を呑んだ。
エリーザベトは怒らなかった。
ただ、灰色の目でコンスタンツェを見た。
「ありません」
「では、盛れますの?」
「知識としては」
「恐ろしい答えですわ」
「あなたは、本当に失礼な方ですね」
「でも正直でしょう」
「正直な失礼は、失礼でなくなるわけではありません」
「覚えておきます」
コンスタンツェは命乞い帳を取り出し、書き足した。
四十六、正直な失礼も失礼。布で包むこと。
エリーザベトがそれを見た。
「何ですか、その帳面は」
「命乞い帳ですわ」
「見せていただいても?」
「駄目です」
「では、なぜ見える場所で書くのです」
「癖ですわ」
エリーザベトは呆れたように息をついた。
だが、先ほどより少しだけ空気が緩んでいた。
毒婦と呼ばれた女は、毒を疑われることには慣れている。
だが、ここまで堂々と怖がられることには慣れていないのかもしれない。
「ルーデンドルフ様」
「何ですの」
「その夢の毒杯が、現実に用意される可能性を疑っているのですか」
コンスタンツェは答えなかった。
温室の硝子屋根に、薄い雲が流れている。
光が少し鈍り、薬草の影が床に細く伸びた。
「わたくしは」
彼女は慎重に言った。
「夢見が悪い女ですの」
「それは見れば分かります」
「ですから、悪い夢が現実にならないよう、枕の位置を変えているだけですわ」
「毒草の流通まで調べるのは、枕の位置とは言いません」
「大きな寝台なのです」
エリーザベトは黙って紙を畳んだ。
「この写しをいただいても?」
「何に使いますの」
「調べます。似せられた荷があるなら、こちらの家にも関わることですから」
コンスタンツェは少し考えた。
エリーザベトは一度目を知らない。
毒杯も知らない。
コンスタンツェがどんなふうに死んだかも知らない。
けれど、彼女自身にも危険が近づいている。
毒婦という役を着せられたままなら、いつか誰かの毒杯に名前だけ使われる。
「よろしいわ」
コンスタンツェは言った。
「ただし、わたくしに毒を盛らないこと」
「盛りません」
「わたくしの近くで毒草を刻まないこと」
「刻みません」
「茶に見慣れない葉を入れないこと」
「もう飲んでいます」
「言わないで!」
エリーザベトは、今度こそ少し笑った。
「あなたは、悪女というより、怯えた鳥のようですね」
「鳥?」
「ええ。金の籠に入った、よく騒ぐ鳥」
「豚よりはましですわ」
「豚?」
「何でもありません」
コンスタンツェは立ち上がった。
温室を出る前に、エリーザベトが呼び止めた。
「ルーデンドルフ様」
「何ですの」
「毒を避けたいなら、まず敵を減らすことです」
「やっていますわ。使用人に菓子を配りました」
「それはよいことです」
「動機は汚いですけれど」
「毒の世界では、結果が生死を分けます。動機は後で考えればいい」
コンスタンツェは少し驚いた。
オスカーなら、動機が汚いと言う。
エリーザベトは、結果を先に見る。
毒婦と呼ばれた女らしい。
悪くない意味で。
「あなた、思ったより親切ですのね」
「誤解です」
「では、誤解しておきますわ」
エリーザベトは返事をしなかった。
ただ、温室の緑の中で、白い顔を少しだけ横に向けた。
馬車に戻ると、コンスタンツェは命乞い帳を開いた。
四十七、エリーザベト・フォン・ヴァルテンブルクは怖い。
四十八、ただし毒婦ではない可能性が高い。
四十九、毒杯の毒は眠り草と苦扁桃系の何か。
五十、ヴァルテンブルク家に罪を着せる荷が動いている。
五十一、薬草の茶は意外と効く。悔しい。
イーダが横から言った。
「お嬢様。エリーザベト様とは、またお会いになりますか」
「必要なら」
「必要でなくても、会われる気がいたします」
「やめてちょうだい」
コンスタンツェは帳面を閉じた。
「わたくし、毒婦と親しくなる予定などありませんわ」
だが、膝の上の紙には、エリーザベトの筆跡で薬草名がいくつか書き足されていた。
細く、正確で、冷たい字だった。
その字がなぜか、少しだけ頼もしく見えた。