作品タイトル不明
第7話 レーエンスベルクという男はよく見ている
屋敷に戻ると、客が待っていた。
オスカー・フォン・レーエンスベルクである。
応接室に通されていた彼は、相変わらず眠たげな顔で茶を飲んでいた。
白磁の茶杯を持つ手が、妙に落ち着いている。毒杯を知らない人間の手である。
「レーエンスベルク卿」
コンスタンツェは驚きを隠せなかった。
「なぜここに」
「公爵閣下に書類を届けに来ました」
「父に?」
「ええ。ついでに、公爵令嬢が修道院へ小麦を運んだと聞きまして」
「ついでが長くありませんこと?」
「職業柄、変わった記録は気になります」
「わたくしを記録しないでくださる?」
「手遅れです」
嫌な男である。
コンスタンツェは向かいに座った。
「それで、何を聞きに来ましたの」
「なぜ急に慈善を?」
「慈善ではありませんわ」
「では?」
「暴動対策です」
オスカーは茶杯を置いた。
「正直ですね」
「嘘をつくと、あとで帳尻が面倒ですもの」
「その割に、あなたは隠し事が多い」
コンスタンツェは扇を開いた。
「貴族令嬢の秘密は装飾品ですわ。全部外すと寒々しいでしょう」
「あなたの場合、装飾品というより防具に見えます」
「防具は大事ですわ。毒杯にも豚にも効きませんけれど」
言ってから、口を閉じた。
また余計なことを言った。
オスカーの目が、ほんの少し細くなる。
「毒杯と豚」
「比喩です」
「便利な言葉ですね」
「便利だから使いますの」
「では、水も比喩ですか」
コンスタンツェは黙った。
窓の外で、庭の噴水が音を立てている。
今日は朝から水を止めるよう命じようとして、家令に「庭園管理上の問題が」と止められた。
噴水はまだ生きている。非常に不愉快である。
オスカーはそれ以上追及しなかった。
「あなたの善行は、どれも動機が汚い」
「善行にまで血筋を求めるのは、貴族の悪癖ですわ」
「動機の話です」
「似たようなものです」
「使用人に優しくするのは、毒を盛られたくないから。修道院へ寄付するのは、暴動が怖いから。アーレンス嬢を助けるのは、自分の立場が危うくなるから」
「よくご覧になっていますのね。お暇なの?」
「暇ではありません。気になるだけです」
コンスタンツェは少しだけ返答に詰まった。
「何が」
「あなたの行動は、臆病なのに早い。利己的なのに、結果として人が助かっている。普通、そういう人間はもう少し自分を善人に見せようとします」
「見せてもばれますわ」
「でしょうね」
「そこは否定なさい」
「難しい」
オスカーは、淡々とした声で言った。
「ですが、嫌いではありません」
部屋が一瞬、静かになった。
コンスタンツェは扇を閉じかけ、また開いた。
「何をですの」
「動機の汚さを隠しきれないところです」
「それは褒め言葉として、ずいぶん泥水に浸かっていますわね」
「清水より信用できる場合もあります」
「水の話はおやめなさい」
「失礼」
本当に失礼だ。
だが、不思議と腹は立ちきらなかった。
この男は、コンスタンツェを良い女だとは言わない。
優しいとも言わない。
清らかだとも言わない。
ただ、見ている。
その視線は怖いが、王太子の視線よりはましだった。
ルブレヒトの目は、コンスタンツェを悪女か婚約者か、どちらかの役に入れようとする。
オスカーの目は、役名を剥がして中身を見ようとする。
中身があまり美しくないので、困るのだが。
「公爵令嬢」
「何ですの」
「あなたは、これからもこういうことを続けるのですか」
「こういうこと?」
「人に恨まれないための善行を」
「必要なら」
「では、助言を一つ」
「聞くとは限りませんわ」
「聞かなくても構いません。記録上、言ったことにします」
「本当に嫌な職業ですわね」
オスカーは表情を変えずに言った。
「善行をするなら、理由を一つにしない方がいい」
コンスタンツェは眉を寄せた。
「どういう意味?」
「暴動が怖いから小麦を配る。それは実務としては悪くありません。ただ、受け取る側にそれだけ伝わると、施しではなく取引になります」
「取引の方が健全ではなくて?」
「場合によります。人は、パンだけでなく、侮辱も記憶します」
その言葉は静かだったが、妙に重かった。
コンスタンツェは、旧市街の男の子を思い出した。
ありがとうございます、と言った細い声。
よく噛んで食べなさい、としか返せなかった自分。
「では、どうしろと」
「本音はそのままでいい。ただ、相手に渡す時は、少し布で包むべきです」
「嘘をつけと?」
「礼儀です」
「面倒ですわね」
「社会はだいたい面倒です」
コンスタンツェは、少し考えた。
それから命乞い帳を開く。
オスカーの前で開くのは不本意だったが、背に腹は代えられない。もっとも、彼にはすでに表紙を見られている気がする。
三十四、善行は布で包む。裸で投げると相手が痛い。
書いてから、顔を上げる。
「これで満足?」
「かなり独特な理解ですが、前進ではあります」
「あなた、わたくしを何だと思っていますの」
「生存本能の強い公爵令嬢」
「だいぶ正確ですわね」
正確すぎて腹が立つ。
オスカーは立ち上がった。
「では、失礼します」
「もう?」
「公爵閣下への用事は済みましたので」
「わたくしへの用事は」
「観察です」
「堂々と言うことではありませんわ」
「隠すと、あなたが余計に警戒するでしょう」
コンスタンツェは返事をしなかった。
彼が扉の方へ歩きかけた時、ふと思い出したように振り返った。
「公爵令嬢」
「まだ何か?」
「豚が嫌いなのですか」
心臓が止まりかけた。
なぜ分かる。
いや、分かるはずがない。まだ誰にも言っていない。命乞い帳には書いたが、見せていない。
たぶん。
「な、なぜ」
「先日、茶会で豚肉のパイだけ避けていました」
「かか観察しすぎですわ!」
「仕事柄」
「書記局は豚肉の摂取状況まで記録するのですか!」
「必要があれば」
「ありません!」
オスカーは、少しだけ笑った。
「では、今のところはそう記録しておきます」
「記録しないでくださる?」
彼は答えずに出て行った。
コンスタンツェは椅子に沈み込んだ。
怖い男だ。
非常に怖い。
毒杯ほどではない。豚小屋ほどでもない。堀よりはたぶんまし。
だが怖い。
それでも、命綱としては悪くない。
イーダが茶を淹れ直した。
「お嬢様」
「何ですの」
「レーエンスベルク卿は、よく見ておられますね」
「ええ。迷惑なほどに」
「ですが、悪くはないように見えます」
「悪人は最初から悪人の顔をしておりませんわ」
「お嬢様も?」
コンスタンツェはイーダを見た。
イーダは真面目な顔をしている。
真面目な顔で、なかなか鋭いことを言う。
「わたくしは」
コンスタンツェは少し考えた。
「悪人としては、根性が足りませんわ」
そう言うと、イーダはほんの少し笑った。
コンスタンツェは命乞い帳を開き、さらに書き足した。
三十五、オスカー・フォン・レーエンスベルクは豚肉の皿まで見る。危険。
三十六、善行は布で包む。
三十七、動機が汚くても、相手に泥を投げてはいけない。
三十八、豚肉のパイはしばらく避ける。
三十九、逃亡時、厩番の協力は必須。給金遅配禁止。
書き終えて、コンスタンツェは窓の外を見た。
噴水はまだ鳴っている。
水は嫌いだ。
だが、その向こうの庭で、使用人の一人が新しい手袋をはめて枝を運んでいた。
それを見て、彼女は少しだけ目を細めた。
「イーダ」
「はい」
「明日、厨房に蜂蜜菓子を作らせなさい」
「お嬢様のお茶菓子で?」
「違います。使用人用です」
イーダが少し驚いた顔をした。
コンスタンツェはすぐに付け足す。
「甘いものを食べた人間は、一時的に怒りにくくなりますわ。屋敷の安全対策です」
「かしこまりました」
「勘違いしないように」
「はい」
イーダは、今度は笑わなかった。
ただ、少しだけ穏やかな顔で礼をした。
コンスタンツェはそれを見て、また居心地が悪くなった。
善行というものは、毒杯よりずっと複雑である。
毒杯は飲まなければよい。
だが善行は、一度始めると、どこまでが保身で、どこからが違うのか分からなくなる。
コンスタンツェは命乞い帳を閉じた。
死にたくない。
それは少しも変わっていない。
ただ、生き延びるために置いた石の上を、誰かが転ばずに歩いていく。
そのことが、少しだけ気味悪く、少しだけ悪くなかった。