作品タイトル不明
第3話 王太子という歩く処刑台
翌朝、コンスタンツェ・フォン・ルーデンドルフは、鏡の前で笑顔の練習をしていた。
美しく笑うのは得意だった。
相手を見下す時、退屈な話を聞いている時、気に入らない令嬢の新しいリボンを褒める時、彼女の笑みは社交界でもなかなか評判がよかった。
問題は、今日の相手がアルブレヒト王太子だということだった。
婚約者。
王国の未来。
そして、コンスタンツェにとっては、銀の毒杯へ続く、たいへん礼儀正しい階段である。
「お嬢様。口角が上がりすぎております」
背後でイーダが言った。
「これでは駄目?」
「楽しそうというより、何かを企んでいるように見えます」
「わたくし、何も企んでおりませんわ。生きたいだけですの」
「それは、企みには入らないのでしょうか」
「入りません。生存は基本的人権ですわ」
イーダは黙った。
おそらく、その言葉をどう受け止めるべきか測っていたのだろう。
コンスタンツェは鏡に向かって、もう一度笑った。
今度は控えめに、従順に、少しだけ恥じらいを混ぜる。
「殿下。本日はようこそお越しくださいました。わたくし、光栄でございます」
言い終えて、自分で震えた。
「気持ち悪いですわね」
「お嬢様がご自分でおっしゃるなら、わたくしは何も」
「少しは否定なさい」
「では、少しだけ」
イーダは淡々と答えた。
身支度は、いつもより地味にした。
深紅のドレスは避けた。
赤はよくない。
血の色であり、断罪の夜を思い出す。
宝石も少なめにした。宝石は好きだが、重い箱に入ると命に関わる。
今日は淡い灰青のドレスに、真珠の小さな耳飾りだけ。
コンスタンツェは鏡の中の自分を見て、眉を寄せた。
「地味ではなくて?」
「上品でございます」
「上品という言葉は、華がない時に使う便利な布ですわ」
「本日は、それでよろしいかと」
たしかに、王太子の前で目立ちすぎるのは危険である。
目立つ悪女は吊るされる。目立たない悪女は、たぶん少し長く生きる。
もっとも、コンスタンツェはもう悪女をやるつもりはなかった。
やるならば、せいぜい小心者の令嬢である。罪が軽そうでよい。
午前の陽が高くなる頃、王太子の馬車がルーデンドルフ公爵邸の門をくぐった。
アルブレヒトは、相変わらず美しい青年だった。
明るい金髪。澄んだ青い目。騎士物語から抜け出したような姿。
彼が部屋に入ると、空気の方が彼に礼をするようだった。
一度目のコンスタンツェは、その美しさを誇りに思っていた。
自分はこの人の妃になる。王国で最も輝かしい男の隣に立つ。そう信じていた。
今は違う。
輝かしい男というものは、時に人をよく焼く。
「コンスタンツェ」
アルブレヒトが微笑んだ。
「久しいな。少し顔色が悪いようだが」
心配している声だった。
だがコンスタンツェは、その声の奥に、別の響きを知っている。
――君の所業には、もはや目を瞑れない。
耳の奥で、あの夜の声が重なった。
膝が揺れた。
コンスタンツェは扇を握りしめる。
「殿下のお顔を拝見できて、胸がいっぱいになりましたの」
「そうか」
「ええ。呼吸が浅くなるほどですわ」
イーダが背後で、ごく小さく咳をした。
アルブレヒトは目を細めた。
「君は、そんな言い方をする女だったかな」
「昨日からですわ」
「昨日?」
「いえ、昨日より少し前から。人は成長するものですもの。三年くらい」
自分でも苦しい。
だが、ここで以前のように尊大に振る舞えば、王太子の中の断罪劇がまた動き出すかもしれない。
ならば不自然でもよい。生きている不自然は、死んだ自然よりましである。
二人は庭に面した小広間へ通された。
茶器が運ばれてくる。
白磁の茶杯。銀の匙。小さな蜂蜜壺。
コンスタンツェは銀の匙を見て、一瞬固まった。
「どうした」
「何でもありませんわ」
「匙を睨んでいたように見えた」
「銀器との関係を見直しているところですの」
「銀器との関係?」
「長い付き合いには、時に距離が必要ですわ」
アルブレヒトは笑った。
悪くない笑いだった。
一度目なら、コンスタンツェは少し頬を染めていただろう。
自分の婚約者が笑ってくれたことを、勝利のように感じていたかもしれない。
今は、ただ怖い。
人は笑いながら、人を毒杯の前に立たせることができる。
「君が近頃、使用人の待遇を改めたと聞いた」
アルブレヒトが茶杯を取った。
「立派なことだ」
「ええ」
コンスタンツェは頷いた。
「使用人に恨まれますと、いざという時に困りますもの」
沈黙。
アルブレヒトの笑顔が、わずかに薄くなった。
「……君らしいと言うべきか、らしくないと言うべきか、迷うところだ」
「合理的でしょう?」
「普通は、慈悲と言うところだ」
「慈悲は美しい言葉ですわね。費用を支払う側が使うと、特に」
「コンスタンツェ」
王太子の声に、少しだけ硬さが混じった。
しまった、とコンスタンツェは思った。
媚びるはずだった。従順で、穏やかで、王太子の正義心を刺激しない女になるはずだった。
なのに口が勝手に動く。
一度死んでも、性格は簡単には死なないらしい。困ったものである。
「失礼いたしました」
彼女はすぐ頭を下げた。
早い謝罪。これは命乞い帳の成果である。
「わたくし、近頃少し考えを改めましたの。人に恨まれぬことは、家のためにも大切ですわ」
「家のため、か」
「もちろん、殿下のためにも」
付け足した。
やや遅かった。
アルブレヒトは、しばらく彼女を見ていた。
「君は本当に変わったな」
その声には、感心よりも探る響きがあった。
「以前の君は、もっと誇り高かった」
コンスタンツェは茶杯の縁を見た。
白磁である。毒杯ではない。大丈夫。今はまだ。
「誇りも大切ですわ」
「今は違うと?」
「命の次くらいには」
アルブレヒトは笑わなかった。
窓の外で、庭師が薔薇の枝を整えている。
春の光は柔らかく、噴水の水は白い糸のように落ちていた。
コンスタンツェは極力、噴水を見ないようにした。
噴水に罪はない。だが水は水である。
「王宮で、アーレンス男爵家の令嬢を見かけた」
アルブレヒトがふいに言った。
コンスタンツェの指先が止まる。
リーネ。
白い顔。震える肩。あの広間で、彼女は泣いていた。
あるいは、泣かされていた。
誰に。自分にか。王太子にか。あの場にいた全員にか。
「そうですの」
できるだけ平坦に言った。
「控えめで、よい娘だ」
「控えめは美徳ですわね。社交界では踏まれやすいですけれど」
「君はまたそういう言い方をする」
「事実ですもの」
「なら、君が少し気にかけてやってくれないか」
コンスタンツェは、茶を吹き出しかけた。
「わたくしが?」
「同じ令嬢同士だ。彼女は王宮に不慣れだし、心細そうにしていた」
危険である。
たいへん危険である。
ものすごく危険である。
リーネと関われば、あの断罪へ近づく。
だが関わらなければ、王太子の中で「冷たいコンスタンツェ」が育つ。
関わって優しくすれば、今度は不自然に思われる。
いじめれば死ぬ。
助けても怖い。
放置しても怖い。
これが詰みというものか。
「殿下」
「何だ」
「わたくし、彼女に近づきすぎない方がよいのではありませんこと?」
「なぜ」
「わたくし、顔がきついですもの」
アルブレヒトは一瞬、目を丸くした。
コンスタンツェは真顔で続けた。
「声もやや強い。性格も、率直に申し上げて、柔らかくはありませんわ。わたくしが善意で近づいても、相手が泣く可能性があります」
「そこまで自分を分かっているなら、直せばいいじゃないか」
「死ぬほど難しいですわ」
言ってから、しまったと思った。
死ぬほど。
最近、その言葉に実感がありすぎる。
アルブレヒトは、また彼女を見つめた。
「君は何を怖がっている」
心臓が跳ねた。
部屋の中の音が遠くなる。茶器の触れ合う音。庭師の鋏。廊下を歩く靴音。
王太子の青い目だけが、まっすぐにこちらを見る。
怖がっているものなど、一つではない。
コンスタンツェは扇を閉じた。
「評判ですわ」
嘘ではない。
ただ、かなり薄めた。
「評判?」
「ええ。わたくし、これまで少々、いえ、かなり、社交界で強く振る舞いすぎましたでしょう。今後は慎重にいたしませんと」
「君がそんなことを気にするとは」
「人は変わりますの」
「何が君を変えた」
コンスタンツェは微笑んだ。
今度の笑みは、うまくできたと思う。
なぜなら、それは本当に怖がっている人間の笑みだったからだ。
「夢を見ましたの」
「夢?」
「とても冷たい夢ですわ」
それ以上は言わなかった。
アルブレヒトも、それ以上は聞かなかった。
やがて王太子は立ち上がった。帰り際、彼はコンスタンツェの手を取った。
一度目なら誇らしかった手。
今は、処刑台へ案内されるような気がする手。
「近く、王宮で小さな茶会がある。君も来るといい」
逃げたい。
だが、王宮にはオスカーがいるかもしれない。
命綱。救命具。手続きにうるさい、あの男。
コンスタンツェは頭を下げた。
「光栄ですわ」
「リーネも来る」
笑顔が凍りかけた。
「……ますます光栄ですわ」
「君なら、彼女とよい関係を築けると思う」
王太子は本気で言っていた。
その本気が、いっそう恐ろしかった。
彼は善意で、コンスタンツェとリーネを近づけようとしている。
善意は、時々、悪意より始末が悪い。
本人が刃物を持っていることに気づかないからだ。
アルブレヒトが去ったあと、コンスタンツェは小広間の椅子に崩れ落ちた。
イーダがすぐ近づく。
「お嬢様」
「命乞い帳を」
「はい?」
「命乞い帳を持ってきなさい。項目を増やします」
イーダは、もう驚きすぎない顔になっていた。
「何とお書きになりますか」
コンスタンツェは、震える指で扇を握りしめた。
「二十一。王太子殿下の善意には、最大限警戒すること」
「善意に、でございますか」
「ええ」
窓の外で、噴水が白く光っていた。
コンスタンツェはそれに背を向ける。
「悪意はまだ分かりやすいですわ。善意は、笑いながら人を堀へ落としますの」
イーダは何も言わなかった。
その沈黙が、今度は少しだけ優しかった。