作品タイトル不明
第2話 命乞い帳
コンスタンツェ・フォン・ルーデンドルフは、まず自分が狂っていないかを疑った。
これは、彼女にしては賢明な出発だった。
鏡を見る。
顔は十七歳の頃の自分である。
髪はまだ結い上げる前で、淡い金色が肩にこぼれていた。
頬には泥もついていない。
目の下に、溺れ死んだ女らしい陰はあるが、それは主に寝不足と恐怖のせいである。
腕をつねる。
痛い。
頬をつねる。
痛い。
ついでに、近くに置かれていた銀の水差しを見て、悲鳴を上げた。
「お嬢様!」
イーダが駆け寄る。
「銀ですわ!」
「水差しでございます」
「中身が分からない銀の器は、信用なりませんわ!」
「お水でございます。毎朝お出ししております」
「昨日までのわたくしなら信じましたわ。今日のわたくしは経験豊富ですの」
「どのようなご経験をなさったのでしょう」
「毒杯、豚小屋、堀」
イーダの眉が、わずかに寄った。
「医師をお呼びいたしましょうか」
「医師では死を防げませんわ。いえ、防げる場合もありますけれど、毒杯と豚と堀には弱いはずですの」
イーダは盆をそっと置いた。
主を刺激しないようにしているのが分かる。
コンスタンツェはその態度に傷ついたが、反論するだけの余裕はなかった。
とにかく、生き延びなければならない。
毒杯は三年後。
いや、正確には三年後とは限らない。
自分の行動次第で早まるかもしれない。
死というものは律儀ではない。
招待状も送らずに来る、無作法な事象である。
コンスタンツェは机に向かった。
白い紙を広げ、ペンを取る。
手が震えて、最初の一滴が大きく落ちた。
彼女は深呼吸した。
そして、紙の一番上に書いた。
『わたくしが死なないための高貴なる覚書』
少し眺める。
「高貴なる、はいらないかしら」
「お嬢様」
「何ですの」
「命に関わる覚書なら、内容が分かりやすい方がよろしいかと」
イーダの声は控えめだった。
しかし、言っていることは正しかった。
コンスタンツェは渋々、題名の横に小さく書き足した。
『命乞い帳』
あまりにも身も蓋もない。だが、死に蓋はない。水堀で身に染みた。
彼女は項目を立てた。
一、毒杯対策。
二、宝石箱を持って逃げない。
三、豚小屋の位置確認。
四、水辺回避。
五、王太子殿下との接触削減。
六、リーネ・フォン・アーレンス接近禁止。ただし転倒時は助ける。
七、オスカー・フォン・レーエンスベルクを確保。
八、使用人の恨みを買わない。
九、命乞い文句の改良。
十、逃亡資金の分散。
書けば書くほど、涙が出そうになった。
なんて実用的で、なんて情けない帳面だろう。
イーダが後ろから覗き込む。
「お嬢様。七番の、レーエンスベルク卿とはどなたでございますか」
「命綱ですわ」
「ご親族で?」
「違いますわ。会ったことはありますけれど、向こうはわたくしを命綱だと思っていませんの」
「それは、普通そうかと存じます」
イーダは淡々と言った。
コンスタンツェは少しむっとした。
三年前の自分なら、この程度の口答えでも叱っていたかもしれない。
だが今は違う。侍女を叱り飛ばすと、逃亡時に外套を貸してもらえないかもしれない。
命の前では、寛容も一種の投資である。
「イーダ」
「はい」
「あなた、今朝の食事は済ませましたの?」
イーダの顔に、怪訝な色が浮かんだ。
「いえ。お嬢様のお支度の後で」
「先に食べなさい」
「……はい?」
「空腹の侍女は判断力が鈍りますわ。判断力の鈍った侍女は逃亡時に役に立ちませんの。ゆえに、食べなさい」
イーダは今度こそ、本気で困った顔をした。
「お嬢様。やはり医師を」
「呼びませんわ! 医師を呼ぶと父に知られます。父に知られると、王太子殿下にも知られるかもしれません。王太子殿下は歩く処刑台ですわ」
「王太子殿下が、処刑台」
「比喩ですわ。非常に切実な比喩ですの」
イーダは黙った。
その沈黙は、同意ではなく保留だった。
コンスタンツェは命乞い帳の九番へ進んだ。
鏡の前に立つ。
背筋を伸ばす。
手を胸の前で組む。
涙を少しにじませる。
多すぎると嘘くさい。
少なすぎると反省が足りない。
ちょうどよい涙というものは難しい。
「わたくしが悪うございました」
声に震えを混ぜる。
「ですが、死ぬほどではありませんわ」
首を振る。
「弱いですわね。もっと譲歩が必要ですわ」
もう一度。
「わたくしが悪うございました。いえ、全部ではありません。三割ほどですわ。残り七割は誤解、陰謀、世間の悪意、ならびに王太子殿下の視力の問題ですの」
イーダが横で咳をした。
「お嬢様」
「何ですの」
「その命乞いは、おそらく相手を怒らせます」
「では、どう言えばいいのです」
「まず、割合を出さない方がよろしいかと」
「でも大事ですわ。罪の分担は」
「命乞いの場では、たぶん不利です」
コンスタンツェは唇を噛んだ。
イーダは有能である。
一度目の自分は、なぜこの侍女をもっと大事にしなかったのか。
いや、理由は分かっている。
高慢だったからだ。
自分より下の者は、黙って尽くすものだと思っていた。
そして、その報いを受けた。
一度目の断罪の夜、コンスタンツェを助けてくれる使用人はいなかった。
イーダが裏切ったわけではない。
ただ、誰も彼女のために危険を冒す理由がなかった。
それは当然だった。
当然だったからこそ、苦かった。
「イーダ」
「はい」
「あなたの部屋は寒くありませんこと?」
イーダは一拍遅れて答えた。
「冬は、少々」
「暖炉用の炭を増やしますわ」
「……お嬢様?」
「あと、厨房の残り物を使用人が持ち帰るのを禁止していたでしょう。あれは取り消します。腐らせるくらいなら食べた方がよろしいわ」
「本当でございますか」
「本当ですわ。食べ物の恨みは怖いのです。毒に直結しますもの」
「毒」
「ええ。毒」
イーダはしばらくコンスタンツェを見つめた。
その目に、奇妙なものが宿る。
疑い。戸惑い。わずかな警戒。
そして、ほんの少しの期待。
コンスタンツェは、その期待を見て居心地が悪くなった。
善人になったつもりはない。
ただ死にたくないだけである。
それなのに、人が少し救われたような顔をするのは、どうにも扱いに困る。
「勘違いなさらないで」
コンスタンツェは顔をそむけた。
「わたくしは、使用人思いの立派な主人になったわけではありませんわ。あなた方に恨まれると、いざという時に困るだけですの」
「はい」
イーダは静かに答えた。
「それでも、炭は助かります」
その声があまりに普通だったので、コンスタンツェは何も言えなくなった。
昼前には、命乞い帳の項目がさらに増えた。
十一、厨房の者に嫌われない。
十二、厩番にも優しくする。馬は逃亡に必要。
十三、宝石箱の中身を小分けにする。
十四、水泳の練習を検討。ただし水は怖い。検討のみ。
十五、蜂蜜を常備。毒杯対策としては弱いが、精神的支柱。
書いているうちに、馬鹿馬鹿しくなってきた。
だが、馬鹿馬鹿しいからといって、無意味ではない。
彼女は一度、馬鹿馬鹿しいほど情けなく死んだのである。
ならば馬鹿馬鹿しいほど情けない対策を立てる権利がある。
午後、父ルーデンドルフ公爵から呼び出しがあった。
嫌な予感がした。
公爵の書斎は、重い革と古い紙の匂いがした。
壁には先祖の肖像が並び、どの顔も立派そうにこちらを見下ろしている。
先祖というものは便利だ。
死んでいるので、何を考えているか確認されずに済む。
父は机の向こうに座っていた。
銀髪に近い淡い金髪、深いシワ、冷静な青い目。
コンスタンツェを愛していないわけではない。
だが、娘の上に家名を置く男だった。
「コンスタンツェ」
「はい、お父様」
「今朝から屋敷中が騒がしい。使用人の食事、炭、厨房の規則。どういう風の吹き回しだ」
コンスタンツェは考えた。
正直に言うべきか。
――三年後、わたくしは毒杯を出され、逃げて、豚小屋で転んで、堀に落ちて死にました。
ですから使用人に優しくします。
駄目だ。医師ではなく神父を呼ばれる。
彼女は少し顎を上げた。
「ルーデンドルフ家の品格のためですわ」
「品格?」
「使用人が痩せ、厨房が荒れ、厩番が不満を抱いている屋敷に、王太子妃を出せると思いまして?」
父の目が細くなる。
これは効いた。
王太子妃。家名。体面。父が理解しやすい言葉である。
「急に殊勝なことを言う」
「わたくしも成長いたしますの」
嘘ではない。死ぬほど成長した。少なくとも三年分は繰り越して成長している。そして実際に死んだ。
父はしばらく娘を見ていたが、やがて軽く息を吐いた。
「よかろう。必要な支出は家令に伝えなさい。ただし、浪費は許さない」
「もちろんですわ」
コンスタンツェは優雅に礼をした。
それから書斎を出た瞬間、壁にもたれた。
膝が笑っている。
「お嬢様」
廊下で待っていたイーダが近づく。
「お加減が」
「悪くありませんわ」
「では、なぜ壁に」
「壁の強度を確認しておりますの。逃亡時には、建物の構造を知ることが重要ですわ」
「左様でございますか」
イーダは、もはや少し慣れた顔をしていた。
部屋に戻ると、机の上に命乞い帳が開かれたままだった。
コンスタンツェはペンを取る。
十六、父には家名で話す。
十七、イーダには先に食事をさせる。
十八、銀器を怖がりすぎない。
十九、王太子殿下と会う前に、胃に優しい茶を飲む。
二十、死にたくない。
最後の一文を書いた時、窓の外で風が鳴った。
春の庭は明るい。薔薇はまだ蕾で、噴水は陽を受けてきらきらしている。
コンスタンツェは噴水を見て、すぐに窓掛けを閉めた。
「水辺は敵ですわ」
イーダが背後で小さく息を吐いた。
「お嬢様。明日は王太子殿下がいらっしゃいます」
ペン先が紙の上で止まった。
アルブレヒト。
歩く処刑台。
銀の毒杯。広間の冷たい目。リーネの白い顔。マグヌスの薄い声。
コンスタンツェは喉を鳴らした。
逃げたい。
今すぐ馬車に乗って、山奥の修道院にでも飛び込みたい。
いや、修道院は貧しい。
却下。
金のある未亡人の庇護が望ましい。
けれど、逃げるには準備がいる。
金貨はまだ分散していない。宝石箱も重いままだ。豚小屋の位置も確認していない。水辺の回避経路も不完全。
何より、今逃げたら父に捕まる。
コンスタンツェは深く息を吸い、鏡の前に立った。
「殿下のお考えは、いつもご立派ですわ」
言ってみる。
顔が引きつっている。
「駄目ですわね。死刑宣告を褒めている顔ですわ」
もう一度。
「殿下のお考えは、いつもご立派ですわ。わたくし、感銘で呼吸が浅くなりますの」
イーダが背後で言った。
「お嬢様」
「何ですの」
「それは、たぶん不自然です」
コンスタンツェは鏡の中の自分を睨んだ。
そこには、公爵令嬢らしい美しい顔をした、たいへん情けない女がいた。
死にたくない。
毒杯は嫌。
豚小屋も嫌。
堀など、もっと嫌。
そのためなら、王太子にでも媚びる。使用人にも優しくする。命乞いの練習だってする。
コンスタンツェは胸を張った。
「不自然でも結構ですわ。自然体でいた結果、わたくしは一度死にましたの」
「……一度?」
「比喩ですわ」
彼女はすぐに言った。
「非常に、実感を伴う比喩ですの」
イーダは何も言わなかった。
翌日、王太子アルブレヒトが来る。
コンスタンツェは命乞い帳を閉じた。
その表紙に、そっと手を置く。
まだ何も始まっていない。
けれど彼女だけは、終わりを知っている。
終わりを知っているからこそ、今度は始まりから逃げる準備をしなければならない。
それが高貴かどうかは知らない。
少なくとも、溺れるよりはましだった。