作品タイトル不明
第1話 毒杯より豚小屋が怖い
コンスタンツェ・フォン・ルーデンドルフは、毒杯を前にして気絶した。
公爵令嬢としては、あまり褒められた幕切れではなかった。
悪女としても、ずいぶん出来が悪い。
せめて美しく笑って飲み干せば、後世の物好きな詩人が二行くらいは飾ってくれたかもしれない。
だが、彼女は笑わなかった。飲みもしなかった。
銀の杯の縁に、蝋燭の火が細く震えていた。
黒に近い赤い酒が、その底で息をひそめている。
毒などというものは、もっと露骨に濁っているべきだと、コンスタンツェはぼんやり思った。
こんなふうに上品な顔をされては困る。
死ぬものは、もっと死ぬらしくしていなければ、不意打ちではないか。
「ルーデンドルフ公爵令嬢」
マグヌス・フォン・ハルトヴィヒの声は、薄い刃物のようだった。
「正式な裁きとなれば、御家にも深い傷が残ります。せめて貴族らしく、ご自身で幕を引かれませ」
幕。
ずいぶん気楽に言ってくれる、とコンスタンツェは思った。
引くのは幕ではない。わたくしの命である。
少し前まで、広間には音楽があった。
金の枝燭台、絹の衣擦れ、果実酒の甘い匂い。
王宮の夜会は、春の宵を薄く磨いたように美しかった。
その美しい広間で、王太子アルブレヒトはコンスタンツェを断罪した。
彼の傍らには、リーネ・フォン・アーレンスがいた。
下級貴族の令嬢で、白い花のような娘だった。
あまりに白いので、隣に立つだけでコンスタンツェの濃い赤のドレスが、血のように見えた。
「コンスタンツェ。君の所業には、もはや目を瞑れない」
アルブレヒトはそう言った。
その声に、広間の空気がいっせいに凍った。
リーネへの嫌がらせ。
毒殺未遂。
王太子派文書の偽造。
エリーザベト・フォン・ヴァルテンブルクへの罪のなすりつけ。
王家への背信。
罪状は、銀盆に載せた菓子のように次々と並べられた。
コンスタンツェには、身に覚えのあるものもあった。
リーネを見下したことはある。
彼女の声が小さすぎると鼻で笑ったこともある。
使用人に冷たい言葉を投げたこともある。
王太子妃になる女として、少しばかり――いや、かなり――思い上がっていたことも、否定は難しかった。
だが、毒など知らない。文書など偽造していない。王家に背くほど胆も太くない。
コンスタンツェは震える声で言った。
「わたくし、性格は悪かったかもしれませんけれど」
広間の誰かが息を呑んだ。
「そこまで働き者ではありませんわ」
それは弁明として、あまり出来がよくなかった。
アルブレヒトの眉が、悲しげに寄せられた。
その悲しげな顔が、コンスタンツェには腹立たしかった。
自分の正しさに酔う男は、たいてい他人の不幸を鏡に使う。
「最後まで、君はそうやって己を省みないのだな」
「省みておりますわ。だからこそ、労働量の話をしておりますの」
「コンスタンツェ」
王太子の声が、いっそう低くなった。
「君は、リーネを傷つけた」
リーネは肩を震わせていた。
だが、その眼には困惑もあった。
彼女自身も、この断罪がどこまで進むのか分かっていないようだった。
コンスタンツェは、その時初めて、本当に怖くなった。
怒りではない。屈辱でもない。
自分の言葉が、もう誰の耳にも届いていないという恐怖だった。
やがて彼女は広間から連れ出され、王宮奥の古い控室へ移された。
正式な裁きは、明日以降。だが、その前に「家名のため」の処置があると告げられた。
そして今、銀の毒杯が、卓上に置かれている。
「お飲みください」
マグヌスが言った。
コンスタンツェは杯を見た。
それから、マグヌスを見た。
また杯を見た。
「……蜂蜜は?」
「は?」
「毒というものは、苦いのでしょう?」
声が裏返った。自分でも情けなくなるほど、細い声だった。
「最後の一杯が不味いなど、あんまりですわ。蜂蜜を入れてくださらない?」
室内に沈黙が落ちた。
マグヌスの目に、かすかな侮蔑が浮かぶ。
コンスタンツェは、その侮蔑に反論したかった。
だが、反論より先に膝が折れた。
世界がくるりと裏返り、床が頬に近づいてくる。
最後に見えたのは、銀の杯だった。
こんなもの、貴族らしく飲める女がいるなら、そちらのほうがどうかしている。
そう思って、彼女は気絶した。
目を覚ました時、部屋には誰もいなかった。
いや、廊下の向こうに人の気配はあった。
低い話し声がする。
おそらく、彼女が目を覚ますまで待っているのだろう。
もう一度、あの杯を持ってくるために。
コンスタンツェは寝台の上で、じっと天井を見た。
反省。
謝罪。
名誉。
家名。
そういった高尚な単語が、頭の中を一通り通過した。
通過しただけだった。
「逃げますわ」
彼女は起き上がった。
死ぬよりは逃げる方がよい。
貴族らしくないと言われても、死ねば貴族も庶民も同じ土になる。
土になってから名誉を褒められても、本人には聞こえない。
コンスタンツェはあたりを見回した。
隣室に、自分の外套と装身具が置かれていた。
夜会の途中で外した宝石もある。
彼女は迷わず、青革張りの宝石箱を抱えた。
重い。
非常に重い。
けれど、手ぶらで逃げるなど、貴族令嬢のすることではない。
何よりこの中には、母の形見の首飾りと、換金すればしばらく暮らせるだけの宝石が入っている。
命は大事だ。
財産も大事だ。
両方持って逃げられるなら、それが一番よい。
彼女は侍女の黒い外套をひっかぶり、裏口へ向かった。
王宮の古い棟には、使用人用の狭い通路がある。
子供の頃、かくれんぼで入り込んで叱られた場所だ。
今となっては、あの時の自分を褒めてやりたい。
「わたくし、幼少期から逃亡の素質がありましたのね」
息を殺して進む。
だが宝石箱が重い。
裾が絡む。
涙で前が滲む。
外套の裾が燭台に引っかかり、危うく倒しそうになる。
後ろから声がした。
「おい、誰だ」
コンスタンツェは走った。
走ったつもりだった。
実際には、宝石箱を抱えた公爵令嬢の必死の小走りである。
廊下を抜け、石段を下り、外へ出た。
夜気が頬を刺す。
王宮裏手には、古い厩舎と家畜小屋があった。
改築に取り残された一角で、普段なら高貴な者が近づく場所ではない。
近づくべきではなかった。
コンスタンツェは道を間違えた。
足元が泥に沈んだ瞬間、嫌な予感がした。次いで、獣の匂いが鼻を刺す。
「……まさか」
低い鳴き声。
丸い背中。
濡れた鼻。
豚である。
しかも一頭ではない。
「お退きなさい」
コンスタンツェは震える声で言った。
「わたくしは、ルーデンドルフ公爵家の娘ですわ」
豚は聞かなかった。
「聞き分けのない庶民ですわね!」
豚が鼻を鳴らした。
別の豚が、宝石箱に興味を示した。
コンスタンツェは悲鳴を上げて後ずさる。
足が泥に取られ、見事に転んだ。
泥が頬に跳ねた。
絹のドレスが汚れた。
宝石箱だけは、胸に抱えたままだった。
「いやですわ……いやですわ、こんな……わたくし、まだ死んでおりませんのに、もう尊厳だけ先に埋葬されておりますわ……!」
豚小屋を抜けた先には、古い水堀があった。
王宮の裏を囲む浅い堀。
昼なら見えた。
夜でなければ避けられた。
宝石箱を抱えていなければ、踏みとどまれた。
けれど彼女は夜に逃げ、涙で前が見えず、宝石箱を抱えていた。
一歩、足を滑らせた。
体が宙に浮いた。
水音。
冷たさが、全身を食った。
外套が一瞬で重くなる。
ドレスが足に絡む。
宝石箱が沈もうとする。
コンスタンツェは必死に手を離そうとした。
だが、指がかじかんでうまく動かない。
宝石箱は彼女より先に沈んだ。
それでも、彼女の手は離れなかった。
水が口に入る。
苦い。毒杯を飲んだわけでもないのに、死はやはり不味かった。
最後に、彼女は思った。
毒杯の方が、まだ乾いておりましたわ。
そこで、コンスタンツェ・フォン・ルーデンドルフの一度目の人生は終わった。
次に目を開けた時、彼女は柔らかな寝台の上にいた。
天蓋には、淡い薔薇色の絹が垂れている。
朝の光が、窓掛けの隙間から白く差し込んでいた。
水の冷たさはない。
泥の匂いもない。
豚の鼻息もない。
ただ、心臓だけが狂ったように鳴っている。
枕元で、侍女のイーダが盆を持って立っていた。
「お嬢様。お目覚めでございますか」
コンスタンツェは、がばりと起き上がった。
「宝石箱を持って逃げてはいけませんわ!」
イーダは瞬きをした。
「……宝石箱、でございますか」
「重いのです! 人間が命と一緒に抱えるものではありませんわ! 財産は分散! 金貨は小袋! 首飾りは軽いものだけ! そして豚小屋には近づかない!」
「お嬢様」
イーダの声は、いつもより慎重だった。
「夢を、ご覧になりましたか」
コンスタンツェは周囲を見回した。
見慣れた自室。
まだ王宮ではない。
断罪の夜でもない。
壁に掛かった暦は、彼女が死んだ日の三年前を示していた。
喉がひゅっと鳴った。
戻っている。
コンスタンツェは、掛布を握りしめた。
毒杯の銀色が脳裏に浮かぶ。泥の冷たさが肌の奥に残っている。水が肺を満たす苦しさを、体がまだ覚えている。
彼女は震えながら、しかしはっきりと言った。
「イーダ」
「はい」
「紙とペンを」
「お手紙でございますか」
「いいえ」
コンスタンツェは青ざめた顔で、胸を張った。
「命乞いの準備ですわ」
イーダはしばらく黙っていた。
その沈黙は、朝の部屋にたいへん長く残った。