作品タイトル不明
第18話 わがまま姫、帰還する
王宮へ戻る道は、いくらでもあった。
正門。
貴族用の西門。
使用人の通用口。
厩舎裏の納入口。
そして、王宮裏手の古い荷道。
コンスタンツェは、馬車の中で命乞い帳を開きながら、どの道を選ぶべきか考えていた。
正門は目立つ。
西門も目立つ。
通用口は王宮管理局の者に止められる可能性がある。
納入口は馬車業者に見られる。
残るは、古い荷道。
豚小屋の裏である。
「嫌ですわ」
コンスタンツェは言った。
「まだ何も申し上げておりません」
イーダが答える。
「言わなくても分かりますわ。命乞い帳の道順が、わたくしを豚へ導いておりますもの」
「正門からお入りになりますか」
「止められますわ」
「西門は」
「王太子殿下の者がいるかもしれません」
「では」
「豚小屋ですわね」
言葉にすると、いよいよ絶望的だった。
雨は強くなっている。
馬車の屋根を叩く音が、絶え間ない小石のように落ちてくる。
窓の外で、王宮の白い壁が灰色に沈んでいた。
雨に濡れた王宮は、いつものような華やかさを失い、骨だけを見せているようだった。
御者に命じて、王宮裏の古い納入口近くで馬車を止める。
コンスタンツェは外套を深くかぶった。
足元は泥。
雨。
そして、遠くから獣の匂い。
すでに帰りたい。
「お嬢様」
イーダが傘を差し出した。
「いりませんわ」
「濡れます」
「傘を持つと、片手がふさがります。片手は扇、もう片手は命乞い帳。両方大事ですの」
「扇より傘の方が」
「扇は武器ですわ」
イーダは何かを言いかけ、諦めた。
王宮の裏手は、表の庭園とは別の国のようだった。
石壁には苔がつき、雨樋から水が細く落ちている。
荷車の轍は泥水を溜め、古い木戸は雨を吸って黒ずんでいた。
そして、豚小屋。
柵の中で、豚がいた。
雨の日の豚は、晴れの日の豚よりもさらに遠慮がない。泥の中を平然と歩き、鼻を鳴らし、丸い背中を濡らしている。貴族社会の規則など、彼らには何の関係もない。
コンスタンツェは足を止めた。
胸が狭くなる。
喉が、水を吸ったように詰まる。
一度目の夜、ここで泥に落ちた。
豚に押された。
宝石箱を抱えて、滑って、逃げて、その先で堀に落ちた。
死は水の中にあった。
けれど、死へ続く恥はここにあった。
「お嬢様」
イーダがそっと呼ぶ。
「戻りますか」
その声は、オスカーの声に少し似ていた。
行けとは言わない。戻る道を残す。だから、かえって足が動く。
「戻りませんわ」
コンスタンツェは答えた。
声は震えていた。
だが、出た。
「わたくしは、豚に二度負けるほど安い女ではありませんの」
豚が鼻を鳴らした。
まるで、値踏みでもするように。
「お黙りなさい!」
「お嬢様、豚は何も」
「見れば分かりますわ! あれは失礼な鼻です!」
そう叫んだ瞬間、少しだけ恐怖が薄れた。怒りは、時々、恐怖より足が速い。
コンスタンツェは柵の横を進んだ。
泥が靴に跳ねる。外套の裾が濡れる。背中に雨がしみてくる。だが、今日は宝石箱を持っていない。母の首飾りは軽い布袋に入れている。金貨は小袋。命乞い帳は胸元。
重い箱はない。
それだけで、足は少しだけ前に出た。
「お退きなさい、豚ども」
コンスタンツェは小さく言った。
「今回は沈みませんわ」
古い木戸は、思ったより簡単に開いた。
昨日までと違い、鍵が外されている。
イーダが顔をしかめる。
「誰かが先に」
「ええ」
コンスタンツェは息を殺した。
木戸の向こうの荷道には、新しい轍がついていた。雨で泥が柔らかくなっているため、車輪の跡が深い。荷車が通ったばかりだ。
道の奥には、薄い灯が揺れていた。
人の気配。
コンスタンツェは壁に身を寄せた。
「お嬢様、戻って助けを」
「誰を呼びますの」
小声で返す。
「王宮管理局は向こう側です。正門は王太子殿下の者がいる。オスカー卿は足止め。エリーザベト様もヴィルヘルミーネ様も動けない。つまり、ここにいるのは、わたくしたちだけですわ」
「それは、あまりよい状況では」
「知っています」
コンスタンツェは命乞い帳を胸元で押さえた。
逃げたい。
今すぐ逃げたい。
だが、ここまで来て戻れば、今度こそ本当に、何のために戻ったのか分からなくなる。
彼女は、泥に足を取られないよう慎重に進んだ。
古い倉庫の前に、荷車が停まっている。黒い布で覆われた木箱が二つ。雨避けの外套を着た男が三人。うち一人の袖口に、黒緑の布と金糸が見えた。
ハルトヴィヒ家の色。
コンスタンツェの喉が冷えた。
男のひとりが、低い声で言った。
「管理局の調査は午後だ。先にこちらを移す」
「毒草の方は?」
「ヴァルテンブルクの薬草園に入れた。あとは見つけるだけだ」
「書類は?」
「書記局でレーエンスベルクが嗅ぎ回った。今は止めてある。今夜の夜会までには、殿下の前に話を持っていく」
コンスタンツェは、泥の中で拳を握った。
エリーザベト。
オスカー。
リーネ。
夜会。
すべてが早い。
男たちは木箱を荷車へ載せ替えようとしていた。
木箱の一つから、紙束がのぞいている。
封蝋のついた書類。
もう一つからは、薬草の苦い匂い。
イーダが耳元で囁いた。
「どうなさいますか」
どうする。
相手は男三人。
こちらは公爵令嬢と侍女。
武器は扇と命乞い帳と、若干の蜂蜜菓子。戦力としては惨憺たるものである。
しかし、ここで逃げれば証拠も消える。
コンスタンツェは歯を食いしばった。
「イーダ」
「はい」
「あなた、豚を動かせます?」
イーダは初めて、本気で困惑した。
「豚を、でございますか」
「そうですわ。あの柵、開けられる?」
「開けられますが」
「では、開けなさい」
「お嬢様、まさか」
「豚は失礼ですが、力はあります。王宮の男三人より、少なくとも遠慮がありませんわ」
イーダは一瞬だけ目を閉じた。
祈っているのだろう。
豚に。
「かしこまりました」
イーダが静かに戻っていく。
コンスタンツェは壁に身を寄せ、息を殺した。
数拍の後、柵の方で音がした。
木が軋む音。
そして、豚の鳴き声。
次の瞬間、豚が走った。
走る豚というものは、想像よりずっと怖い。丸く、濡れて、泥を跳ね、鼻を鳴らしながら突進してくる。男たちが悲鳴を上げた。
「何だ!」
「豚だ!」
「見れば分かる!」
荷車が揺れる。
男の一人が泥に足を取られて転ぶ。
別の男が木箱を抱え損ねる。
黒い布がめくれ、薬草の束が泥の上に散らばった。
混乱の中、コンスタンツェは走った。
正確には、必死に小走りした。
木箱へ飛びつき、紙束を引き抜く。
重い。
だが宝石箱ほどではない。
この程度、持てる。
「イーダ!」
「こちらへ!」
イーダが木戸のそばで手を振る。
男がコンスタンツェに気づいた。
「誰だ!」
コンスタンツェは振り向いた。
雨で髪が濡れ、外套の裾は泥だらけ。
公爵令嬢としては、かなり見苦しい。
だが一度目の豚小屋に比べれば、まだ社交界復帰の余地がある。
彼女は扇を開いた。
「ルーデンドルフ公爵令嬢ですわ」
男たちは一瞬止まった。
止まったのが悪い。
その背後から、豚がもう一頭ぶつかった。
男は見事に泥へ倒れた。
「お覚えなさい」
コンスタンツェは叫んだ。
「豚小屋では、豚に礼儀を期待してはなりませんのよ!」
意味のある捨て台詞かどうかは分からない。
だが、言っている暇はあった。
彼女はイーダと共に古い荷道を駆け抜けた。
雨と泥と薬草の匂いが混ざる。
手には濡れた書類。
胸元には命乞い帳。
背後では豚と男たちの混乱が続いている。
生きている。
逃げている。
だが、今回は自分だけの逃亡ではない。
荷道を抜けると、王宮の古い使用人廊下へ出た。
イーダが先に立ち、迷わず進む。
厨房に近い廊下は熱と匂いに満ちていた。
イーダはそこにいた若い下働きの娘に短く何かを囁いた。
娘は驚いた顔をしたが、すぐに頷いて走っていく。
「何を?」
「書記局にいるレーエンスベルク様へ、合図を」
「あなた、いつの間に」
「お嬢様が逃亡経路を百回ほど確認なさいましたので、使用人同士の道も確認しておきました」
「有能すぎますわ」
「給金に反映を」
「生き残ったら!」
廊下を曲がると、王宮の空気が変わった。
泥と獣の匂いが薄れ、磨かれた床と香油の匂いが戻ってくる。
だが、コンスタンツェの靴も外套も泥だらけだった。
王宮の女官が目を丸くする。
コンスタンツェは胸を張った。
「見世物ではありませんわ」
これだけ汚れていると、むしろ堂々とするしかない。人は時々、恥が一定量を超えると開き直る。
書記局の控室では、オスカーが二人の管理局職員に挟まれていた。
机の上には書類が積まれ、管理外記録の閲覧について詰問されている最中らしい。オスカーは相変わらず眠たげな顔をしていたが、目だけがこちらを見て、少し動いた。
「公爵令嬢」
「命綱、無事ですのね」
「あなたの方が無事には見えません」
「豚に勝ってきましたわ」
「それは重要な勝利ですね」
管理局職員が立ち上がる。
「ルーデンドルフ公爵令嬢、ここは」
「黙りなさい」
コンスタンツェは濡れた紙束を机に叩きつけた。
「王宮裏の閉鎖荷道で、ハルトヴィヒ家の色をつけた者たちが、この書類と薬草を動かしていました。管理局の調査前に、証拠を入れ替えるつもりですわ」
職員たちの顔色が変わる。
オスカーは紙束を素早くめくった。
「封蝋が残っている。申請書の控え、馬車業者の受領書、薬草園の在庫写し……これは」
「役に立ちますの?」
「かなり」
その言い方が、今だけは頼もしかった。
「夜会は?」
コンスタンツェが聞く。
「今夜、王太子殿下主催の小夜会があります。アーレンス嬢も出されるでしょう。そこで、あなたとエリーザベト嬢、ゼッケンドルフ夫人の関係を問題にするつもりだと思います」
「早いですわね」
「あなたが逃げずに戻ったので、向こうも予定を早めるしかなくなった」
「わたくしのせい?」
「あなたの影響です」
「言い方を布で包んだつもりですの?」
「一応」
コンスタンツェは深く息を吸った。
泥と雨と豚と薬草の匂いが、自分の体からする。
ひどい姿だ。
このまま夜会になど出られない。
「イーダ」
「はい」
「着替えますわ」
「ご用意いたします」
「色は?」
少し迷った。
白は違う。
赤は嫌だ。
灰青は濡れて重く見える。
「黒」
コンスタンツェは言った。
「悪女らしく?」
オスカーが聞いた。
「いいえ」
彼女は泥のついた扇を閉じた。
「泥が目立ちにくいからですわ」
オスカーは少しだけ笑った。
「合理的ですね」
「褒め言葉として受け取ります」
「かなり」
今度は、少しだけ受け取ってやってもよかった。
その夜、王宮の灯はいつもより白く見えた。
コンスタンツェは黒いドレスに着替え、髪をきつく結い直した。
宝石は少ない。
母の首飾りだけをつけた。
重くない。
沈まない。
胸元に命乞い帳は入らないので、イーダに預けた。
「お嬢様」
イーダが小さく言う。
「怖くはございませんか」
「怖いですわ」
コンスタンツェは即答した。
「ですが、豚小屋は抜けました」
「はい」
「毒杯は、まだ出ておりません」
「はい」
「なら、今のところ、わたくしの勝ちですわ」
言ってみると、少しだけ本当に思えた。
少なくとも、今日は宝石箱を抱えていない。