作品タイトル不明
第19話 夜会の再演
夜会の広間は、一度目と同じ匂いがした。
磨かれた床。
蝋燭の熱。
果実酒。
香水。
絹の衣擦れ。
人の視線。
コンスタンツェは入口で足を止めた。
胸の奥が、ひゅっと狭くなる。
ここだ。
一度目の夜、アルブレヒト王太子が彼女を断罪した場所。
リーネが白い顔で震えていた場所。
誰も彼女の弁明を聞かなかった場所。
そこから控室へ連れ出され、毒杯を差し出された。
床の模様まで覚えている。
銀色の燭台の位置も。
楽団の並びも。
王太子が立っていた場所も。
覚えたくなどなかった。
それなのに、体は覚えている。
「お嬢様」
イーダの声が背後から届く。
彼女は広間には入れない。
扉の外で控えるだけだ。
だが、その声だけで、少し息が戻った。
コンスタンツェは小さく頷いた。
「行きますわ」
広間へ入る。
ざわめきが起こった。
黒いドレスは目立った。
喪服ではない。
だが、明るい春の夜会には重い色だった。
コンスタンツェの濡れた髪は整え直され、泥は落とされたが、どこかまだ雨の気配をまとっている。
令嬢たちが囁く。
「ルーデンドルフ様」
「エリーザベト様とお会いになっていたそうよ」
「ゼッケンドルフ夫人も」
「アーレンス様まで」
悪女同盟は、すでに噂になっている。
コンスタンツェは扇を開いた。
悪女が一人なら吊るされる。
四人なら、茶は飲める。
では、夜会ならどうなるか。
試すしかない。
広間の中央には、アルブレヒト王太子がいた。
リーネもいる。
彼女は白ではなく、淡い菫色のドレスを着ていた。
顔色は白いが、立っている。
王太子の半歩後ろではなく、少し横に。
わずかな距離。
だが、距離だった。
そのことに気づいて、コンスタンツェはほんの少しだけ安心した。
エリーザベトは広間の端にいた。
深緑のドレス。表情は変わらない。
薬草園への調査を受けたばかりとは思えないほど静かだった。
だが、その静かさの下に、刃物のような冷たさがある。
ヴィルヘルミーネは黒紫のドレスで、未亡人らしく、しかし誰よりも余裕を持って立っている。
彼女はコンスタンツェと目が合うと、扇をわずかに傾けた。
オスカーは、王宮書記局の控えの列にいた。
目立たない灰色の上着。
だが、手には先ほどの書類の写しがあるはずだった。
全員がいる。
それだけで、少し軽い。
王太子がコンスタンツェへ歩み寄る。
「コンスタンツェ」
声は穏やかだった。
穏やかだからこそ、怖い。
「今夜、君に聞きたいことがある」
一度目と似ている。
広間の視線が集まる。
音楽が少し弱くなる。
誰かが何かの始まりを察し、沈黙が輪のように広がっていく。
コンスタンツェは、扇の陰で手を握った。
「奇遇ですわ、殿下。わたくしも、いくつか聞きたいことがございますの」
アルブレヒトの眉が動く。
「まず、私からだ」
「王太子殿下ですものね。順番は大切ですわ」
言いながら、膝が笑いそうになる。
やめなさい。
今笑うな。
体の話である。
アルブレヒトは広間へ向き直った。
「近頃、王宮内で不穏な動きがある。毒草の不正流通、金銭工作、私的な集まり。そこに、コンスタンツェ、君の名がある」
ざわめきが走る。
一度目より、まだ柔らかい。
まだ断罪ではない。だが、舞台は同じ方向を向き始めている。
「君は、ヴァルテンブルク令嬢とゼッケンドルフ夫人を集め、リーネにも近づいた」
「春の親睦茶会ですわ」
「ただの茶会なら、なぜ王宮裏の荷道まで嗅ぎ回る」
コンスタンツェの背が冷えた。
そこまで知られている。
マグヌスだ。
王太子の少し後ろに、マグヌス・フォン・ハルトヴィヒが立っていた。薄い顔に、薄い笑み。あの毒杯の夜と同じ、静かな目。
「君は、何を企んでいる」
王太子の声が広間に落ちた。
コンスタンツェは、息を吸う。
「生存ですわ」
誰かが、かすかに息を漏らした。
アルブレヒトが眉を寄せる。
「ふざけているのか」
「かなり真面目ですわ。わたくしは、死にたくありませんの」
「誰が君を殺すと言った」
「言葉にする者は少ないでしょうね。毒杯も、出されるまではただの杯ですもの」
広間が凍った。
毒杯。
その言葉が、蝋燭の火を一瞬だけ暗くしたように感じた。
マグヌスの目がわずかに細まる。
「ルーデンドルフ嬢」
彼が初めて口を開いた。
「穏やかではありませんな。どなたかが、あなたに毒杯を?」
「まだですわ」
「まだ?」
「ええ。まだ」
コンスタンツェは微笑んだ。
怖かった。
とても怖かった。
だが、豚小屋を抜けてきた。
泥の中で書類を掴んだ。
今さら、きれいな床で膝を折るわけにはいかない。
いや、折りそうではあるが、折れたら立てばいい。
「殿下」
オスカーの声がした。
静かだが、よく通る声だった。
「発言をお許しいただけますか」
アルブレヒトは振り向く。
「レーエンスベルク。君は今、管理外記録の件で」
「その件も含めてです」
オスカーは一歩前に出た。
「王宮裏の閉鎖荷道は、三か月前に管理局の清掃点検名目で開かれています。申請はハルトヴィヒ家従者名義。その後、馬車業者への支払い、薬草流通、書類屋への支払いが重なっている」
マグヌスが静かに言った。
「推測だ」
「ですので、証拠を確認しました」
オスカーは書類を掲げた。
「本日、閉鎖荷道の倉庫から、移動前の書類と薬草瓶が見つかっています。封蝋と受領書も残っている」
広間がざわめいた。
コンスタンツェは、心の中で小さく叫んだ。
よし。
ただし声には出さない。公爵令嬢としての最低限の品格である。豚小屋でだいぶ落としたが、残りはある。
「それを見つけたのは誰だ」
アルブレヒトが問う。
オスカーが少しだけコンスタンツェを見た。
やめて。
言わないで。
豚小屋の詳細は、社交界に向かない。
「ルーデンドルフ公爵令嬢です」
言った。
この男。
コンスタンツェは扇の骨を折りそうになった。
視線が一斉に彼女へ集まる。
「わたくしは」
コンスタンツェは、ゆっくりと言った。
「閉鎖荷道を確認しただけですわ」
「なぜ君がそんな場所へ」
アルブレヒトの声が硬い。
コンスタンツェは微笑んだ。
「そこが、わたくしの逃亡経路でしたので」
広間が静まり返った。
エリーザベトが、遠くでわずかに目を伏せた。
笑いをこらえているのかもしれない。
ヴィルヘルミーネは完全に楽しんでいる顔だった。
リーネは、心配そうにこちらを見ている。
王太子は、意味が分からないという顔をした。
「逃亡?」
「ええ。生きるためには、逃げ道が必要ですもの」
「君は、いったい何を恐れている」
また、その問い。
コンスタンツェは胸の奥に触れた。
命乞い帳はない。だが、そこにあるような気がした。
「殿下の正義ですわ」
広間が揺れたように感じた。
アルブレヒトの顔が白くなる。
「私の?」
「ええ。殿下の正義は、とても美しい。だからこそ、誰かがそれを使えば、人ひとりくらい簡単に悪女にできますわ」
「君は私を侮辱するのか」
「いいえ。警告しておりますの」
コンスタンツェの声は震えていた。
だが、続いた。
「わたくしは善人ではありません。高慢で、意地が悪く、臆病で、見栄っ張りで、宝石箱を抱えて逃げる程度には愚かですわ」
オスカーが目を伏せた。
ヴィルヘルミーネの扇が少し揺れた。
エリーザベトは無表情を保っている。
リーネだけが、息を呑んだ。
「けれど」
コンスタンツェは、王太子を見た。
「あなた方が作った物語の罪まで、わたくしのものではありませんの」
マグヌスが一歩前に出た。
「物語とは、ずいぶん曖昧な」
「では、具体的にいたしましょう」
エリーザベトが声を上げた。
静かな声だったが、広間の隅まで届いた。
「王宮裏の倉庫から見つかった小瓶の残留物は、眠り草、苦扁桃、甘草、青狐草の混合です。ヴァルテンブルク家の薬草園から流出したように見せかけていますが、調合が違う。あれは我が家のものではありません」
ヴィルヘルミーネが続く。
「その薬草を運んだ馬車業者へ、ハルトヴィヒ家周辺の商会から支払いが出ています。二つの商会を挟んでいますが、帳簿は残っているわ」
オスカーが書類を示す。
「閉鎖荷道の開放申請も、ハルトヴィヒ家従者名義です」
広間の視線が、マグヌスへ向かう。
彼はまだ崩れない。
「従者が勝手に動いた可能性もある」
「もちろんあります」
オスカーは言った。
「ですので、今は可能性を示しているだけです。正式な調査が必要です」
「夜会でそのような」
「夜会で公爵令嬢を不穏な集まりの中心として問うた以上、同じ場で反証が出るのは当然でしょう」
手続きの男は、淡々と刺す。
コンスタンツェは少しだけ感心した。
いや、感心している場合ではない。
アルブレヒトの顔は、怒りと困惑の間で揺れていた。
「マグヌス」
王太子が低く呼ぶ。
「これはどういうことだ」
「殿下、今ここで判断なさるべきではありません」
「私は説明を求めている」
マグヌスは頭を下げた。
「すべては殿下と王国のために」
その言葉に、コンスタンツェは背筋が冷えた。
ために。
便利な言葉。
毒杯にも、支援金にも、調査にも、断罪にも使える言葉。
「殿下」
リーネの声がした。
小さいが、まっすぐだった。
アルブレヒトが振り向く。
「リーネ」
「わたしにも、申し上げたいことがあります」
彼女の手は震えている。
だが、逃げていない。
コンスタンツェは、思わず一歩動きかけた。
助けに行きそうになった。
しかし、止まる。
ここはリーネの言葉だ。
リーネ自身が立たなければ、また誰かの庇護になる。
「殿下は、わたしを守ってくださいました」
リーネは言った。
「感謝しております。それは本当です」
アルブレヒトの顔が少し和らぐ。
「だが」
「でも」
リーネは続けた。
「殿下は、わたしが何を望んでいるかを、あまりお聞きになりませんでした」
広間は静かだった。
「わたしが困る前に、困っていると決めてくださいました。傷ついたかどうかを、わたしが言う前に決めてくださいました。わたしを守るために、誰が悪いかを決めてくださいました」
「リーネ、私は」
「はい。守ろうとしてくださったのだと思います」
リーネの声が、少し震えた。
「でも、わたしを見てくださっていたのではありません。わたしを守るご自分を、見ておられました」
アルブレヒトは何も言わなかった。
その沈黙が、広間のどんな音より重かった。
コンスタンツェは、リーネを見ていた。
白い花のようだった少女は、まだ細い。
けれど、もう花瓶の中だけにいるわけではなかった。
マグヌスが低く言った。
「アーレンス嬢は、動揺しておられる」
「いいえ」
リーネは首を横に振った。
「わたしは、考えました」
その一言が、思ったより強かった。
アルブレヒトの正義劇が、そこで初めて明確に揺らいだ。
王太子が守る少女。
悪女に虐げられた少女。
救済される少女。
その少女が、自分の役を降りようとしている。
コンスタンツェは、そっと息を吐いた。
まだ終わりではない。
マグヌスは崩れていない。
王太子も、これで全てを受け入れたわけではない。
だが、一度目とは違う。
誰も彼女の言葉を聞かなかった夜ではない。
今夜は、言葉が返ってくる。
その時、マグヌスが静かに合図した。
広間の奥から、王宮管理局の者が一人、銀の盆を持って現れた。
盆の上には、小さな銀杯があった。
コンスタンツェの体が、凍った。
音が遠のく。
蝋燭の光。
赤黒い酒。
マグヌスの声。
せめて貴族らしく。
まだ中身は分からない。
ただの杯かもしれない。証拠品かもしれない。演出かもしれない。
それでも、体はもう覚えている。
膝が崩れそうになる。
リーネが叫びかける。
オスカーが動く。
イーダは扉の外にいる。
コンスタンツェは、奥歯を噛んだ。
気絶するな。
ここで気絶したら、一度目と同じだ。
銀杯が近づく。
彼女は一歩下がった。
だが逃げなかった。
「その杯」
声が震える。
「どなたのためですの」
マグヌスが穏やかに言った。
「毒の証拠品です。ヴァルテンブルク家から押収されたものとして」
「嘘です」
エリーザベトの声が鋭く飛んだ。
だが、コンスタンツェにはもう、杯しか見えなかった。
銀。
液体。
死。
逃げたい。
心の底から逃げたい。
だが、背後には誰もいないわけではない。
リーネがいる。
エリーザベトがいる。
ヴィルヘルミーネがいる。
オスカーがいる。
一度目の自分はいない。
コンスタンツェは震える手で、扇を閉じた。
「お断りいたしますわ」
広間に、その声が落ちた。
まだ小さい。
だが、折れてはいない。
「毒杯も、豚小屋も、堀も」
彼女は銀杯を睨んだ。
「一度で十分ですの」
誰も、その意味を完全には分からなかっただろう。
それでよかった。
分からなくても、今の彼女は立っている。
それだけで、一度目とは違っていた。